大昔、大陸から隔絶された日本列島に渡来人がやってきて稲作や鉄器を伝えた。渡来人たちとの交流によって大きく変化し、文化のステージを上げた日本は弥生時代に突入していく。

今回は歴史マニアのライターリリー・リリコと一緒に古代の日本がどのように発展していったのか解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。日本史の最初に習いながらも印象の薄い古代日本。日本人の主食の米の生産も弥生時代からなのに、弥生時代の人々のことを知らなさすぎることに気付き、調べてまとめ上げた。

旧石器時代から縄文時代の日本人

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人類が最初に得た道具

古代の人間は石を打ち砕いて作った石器を用いて狩りをするイメージがありますね。人類が石器を使用し始めたのは250万年以上前だとされています。初期の石器は「旧石器」と呼ばれ、石と石をぶつけて欠けさせ、手で握りやすいようにした打製石器でした。その簡素な打製石器を使い、まだ土器や金属器を知らなかった時代を「旧石器時代」と呼びます。

また、原始的な世界で他の動物たちとの生存競争を生き抜くために、人類は群れを形成し、集団で狩りを行っていました。しかし、この集団の中では上下関係などの社会的な構造ははっきりしません。食べ物は、狩りでとった動物や採取した木の実が主で、岩陰や洞窟、大樹の下を家として暮らしていました。

戦後まで日本に旧石器時代はないとされていた

文明が存在したと証明するためには遺跡の出土は必要不可欠です。たとえ、文献の上に存在が書かれていたとしても、遺跡がなければ現実には存在しないという認識でした。今でこそ日本の旧石器時代の遺跡は数多く発見されていますが、それらが発見されたのは戦後ばかり。それまでは旧石器時代の日本には人間はいなかったとされていたのです。

日本で初めて発見された旧石器時代の遺跡は、群馬県の岩宿遺跡。発見者は独学で考古学を学んだ相沢忠洋でした。この発見は「日本に旧石器時代はない」というそれまでの定説を覆す証明となったのです。

ゴミ捨て場からわかった縄文人の暮らし

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縄文時代が始まったのは紀元前14000年。石器も打製石器から、石を磨いて加工した磨製石器へと進化していきました。これらは「旧石器」に対して「新石器」と呼びます。人々はこの磨製石器を使って狩猟を行っていました。

また、狩猟、採取の他にも魚や貝を食べていたことが貝塚の出土によって判明します。貝塚というのは、いわゆるゴミ捨て場のことですね。縄文時代の人々は竪穴式住居を作って定住化をはじめていましたので、住居の近くには必ずこのゴミ捨て場があったのです。

定住したことで、青森県の三内丸山遺跡をはじめとした縄文時代の遺跡が多く残っています。遺跡からは貝塚の他に縄目の文様がついた縄文土器や、ハート形土偶や赤口器土偶など、さまざまな土偶(ほとんどが女性型)が出土しました。また、土偶の発見によって縄文人が人型の霊的存在を信じていたことが判明したのです。

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弥生時代と社会形成のはじまり

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渡来人の登場で変わり始めた日本列島

一万年以上続いた縄文時代の終わりは、中国や朝鮮半島から稲作が伝わったことに起因します。水田で米を栽培する農耕の始まりですね。この技術の伝来によって縄文人たちの生活が一変しました。

狩猟や採取をやめたわけではありませんが、言ってしまえばこれは自然との闘いなわけで、何もとれずに帰って来ることもあります。最悪、逆に動物にやられてしまったり、木の実を取ろうとして崖から落ちるなんてことも。稲作も気候によっては不作となりますが、それまでよりもずっと安定した食料供給となったのです。

渡来人たちが伝えたのは稲作だけに留まりません。渡来人は青銅器を伝え、銅剣や銅の鉾、それに銅鐸が作られるようになりました。さらに弥生時代中期になると青銅よりも扱いやすい鉄器が伝来し、農具や武器の性能が飛躍します。

しかし、ネットも電話もない時代ですから、北九州に伝わった稲作がすぐさま関東や東北へ伝播したわけではありません。渡来人の技術は数百年かけての東日本へと伝わっていきました。その間、南と北ではまったく違う文化が存在していたのです。

米の保存はなによりも大事

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米は生肉や魚と違って長期保存のきくものですから、蓄えがあれば少々の飢饉なら耐え忍ぶことができます。ですが、米を食べるのは人間だけではありません。スズメなどの小鳥やネズミといった小さな敵がたくさんいたのです。そこで、人々は米を保存するために高床式倉庫を築きました。

高床式倉庫の柱にはネズミ返しが施され、さらに床を上げたことで風通しがよく、洪水で中身がダメになることもありません。人間、みんな考えることは同じようで、高床式倉庫は日本だけでなくヨーロッパやアフリカなど各地で見られます。

米をめぐる熾烈な争い勃発が勃発

食糧供給を安定化させてくれた米のお陰で人口は増え、数軒しかなかった集落は徐々に大きくなり「ムラ」を形成します。食い扶持は増えますが、人手の増加で田んぼを広げたり、安全に狩りを行ったりとメリットは計り知れません。一族の繁栄に米は欠かせないものとなっていきました。

しかし、大事な米ですが、どれだけ手を尽くしても自然には勝てません。特に弥生時代は涼しい気候が続いており、冷夏によって米不足に陥ることも少なくありませんでした。もし、米が不足した上に、他の狩猟や採取がうまくいかなかったらどうなるでしょうか?そしてそんなとき、別の集落にお米があると知ったら……。

この時代、もはや米は富と同意義となっていました。稲作に向く土地、向かない土地など、場所によって貧富の差が広がり、人々の間に戦争が始まることとなったのです。

米とムラを守れ!環濠集落の発展

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金属器に石器と、すでに武器に事欠かない時代でしたから、よその村に攻め入って米や土地を奪うのは難しいことではありませんでした。

しかし、襲われる側も何の抵抗もできないまま潰されるわけにはいきません。人々は自分たちのムラを守るため、周りに堀を巡らせて「濠(ごう)」を造り、逆茂木や乱杭、さらに高い柵を築いて外敵の侵入を防ぎます。

このようなムラを「環濠集落」と言い、弥生時代には欠かせない存在となりました。

文明の成長と身分の差が発生

稲作に高床式倉庫の建設、さらに戦争が始まり、環濠集落が形成されていく弥生時代。こうした怒涛の発展の中では、必ず頭角を現す集団のリーダーが現れます。リーダーは農耕や狩猟、建築を通して集団の信頼を得てなるもの、あるいは、天候や作物の出来不出来を占う宗教的な権威を持った指導者です。

やがてリーダーはムラの長となります。さらに大きい集団だとクニを形成してリーダーは王になりました。そうして、集団の中で身分の差が生まれたのです。これは縄文時代にはなかった社会構造ですね。

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邪馬台国と卑弥呼の登場

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豊穣を祈り、指導者にもなるシャーマン

土偶の発見から縄文時代には祭祀や宗教の存在が確認されていますが、弥生時代にももちろん祭祀があり、祭を司る宗教者がいました。

超自然的存在と接触、交流する宗教者を「シャーマン」と呼びます。弥生時代のシャーマンの仕事は、春に米作りがうまくいくように祈る春祭り、秋の稲刈り後に収穫を感謝する秋祭り、他にも雨乞いや、天災が起こらないように祈ったりとさまざまです。

シャーマンは特別な役職ですから、誰もがなれたわけではありません。特殊な能力を持っていなければならず、しかし、そんな人間はたくさんいませんでした。なので、能力を持った一族は大切にされ、稲作などの重労働には従事しなくて良かったりと、ムラの中でも特別な扱いを受けます。そうした環境ですから、シャーマンが集団の指導者になるのは自然なことでした。

邪馬台国の女王卑弥呼

弥生時代の大国として有名な邪馬台国とその女王卑弥呼。ですが、卑弥呼が登場したのは弥生時代の後期、終わりも終わりなのです。そのころ日本では大きな戦争が勃発しており、それを鎮めるために複数のクニが共同で立てた女王でした。

なぜ卑弥呼がそんな特別な女王となったのでしょうか?実は、卑弥呼は鬼道という呪術を使うシャーマンだったと考えられています。女王となってから卑弥呼はたったひとりの男性を除いて、誰とも直接顔を合わせませんでした。卑弥呼が授かったご信託はこの男性に伝えられるのですが、ほとんど謎のベールに包まれた女王なのです。

文字のなかった日本の記録

ところで、古代の日本には文字もなければ本もありません。古代のことを研究しようと思えば、国内だけでは遺跡を調べる他にないのです。しかし、渡来人たちが日本列島へやってきたように、大陸との交流はありました。当時の中国にはすでに文字も本もあったのです。

日本のことが初めて書かれたのは、紀元前206年に誕生した漢王朝の歴史書「漢書」でした。漢は劉邦が項羽を討ってできた国ですね。漢の歴史書「漢書」の地理志という章に日本のことがちょろっとだけ紹介されていました。そして、後漢になってあの有名な『後漢書』東夷伝が出ます。そこには後漢の光武帝が日本列島にあった奴国の王に「漢委奴国王」と彫られた金印を授けたという記録が書かれていました。しかもこの金印、江戸時代に福岡市の志賀島で発見されているので、記録が真実だったことがわかります。

「魏志倭人伝」は正式名称ではない

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By Kidder, J. Edward. Himiko and Japan's Elusive Chiefdom of Yamatai: Archaeology, History, and Mythology. Honolulu: University of Hawai'i, 2007. 11. Print. Originally from Asahi Shimbunsha. Yamatai-koku e no michi (The road to Yamatai). Fukuoka, 1980., パブリック・ドメイン, Link

卑弥呼もまた中国の書物にしか記録がありません。弥生時代末期、ちょうど中国は「三国志」の時代です。大陸では魏、呉、蜀の三国が覇権をめぐって長い戦争をしていました。

ところで、「三国志」と聞くと先に日本の漫画や小説を思い浮かべませんか?でも、「三国志」というタイトルは、それらが元ではありません。実際の三国時代(184年~280年)の歴史書のタイトルなのです。

歴史書「三国志」は「魏志」30巻、「呉志」20巻、「蜀志」15巻の計65巻で構成されています。その「魏志」の中の数ページに邪馬台国の卑弥呼についての記録がありました。それを指して「魏志倭人伝」と呼んでいるのですが、正確には『「魏書」東夷伝倭人条』と言います

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謎に包まれた邪馬台国の場所

『「魏書」東夷伝倭人条』によると、当時、倭国(日本)は長い騒乱にあり、卑弥呼という女王を立てたことで治まったことをはじめ、倭国の身分制度や税金制度、国々に市場があり、交易が行われていたことなどが記載されていました。

邪馬台国については、卑弥呼が魏に使者を送って貢物をし、「親魏倭王」の称号と金印を授かったことや、邪馬台国の場所が記載されています。ただし、「漢委奴国王」の金印と違って発見されていないことや、邪馬台国への行き方が曖昧で正確にはわからないのです。そのため、邪馬台国の存在していた場所は大陸の日本の玄関口だった「北九州説」と、のちに日本を治める大和朝廷が生まれる「畿内説」に分かれてしまいました。

文化のステージを上げた弥生時代

縄文時代の生活と打って変わった弥生時代。日本人は渡来人と交流をはじめ、農耕民となりました。生きる上で最も大切な食糧事情が安定したことで、身分制度などの社会構造ができ上がっていきます。

その中で大きなクニとなった邪馬台国と女王卑弥呼。こちらもまた中国との交流がなければ存在すら歴史の闇に消えていました。曖昧なところも多いですが、日本人にとっても『「魏書」東夷伝倭人条』は貴重な史料なのです。

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弥生時代日本史歴史

「弥生時代」はなぜ飛躍的な発展を遂げたのか!?歴史マニアがわかりやすく5分で解説

邪馬台国と卑弥呼の登場

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豊穣を祈り、指導者にもなるシャーマン

土偶の発見から縄文時代には祭祀や宗教の存在が確認されていますが、弥生時代にももちろん祭祀があり、祭を司る宗教者がいました。

超自然的存在と接触、交流する宗教者を「シャーマン」と呼びます。弥生時代のシャーマンの仕事は、春に米作りがうまくいくように祈る春祭り、秋の稲刈り後に収穫を感謝する秋祭り、他にも雨乞いや、天災が起こらないように祈ったりとさまざまです。

シャーマンは特別な役職ですから、誰もがなれたわけではありません。特殊な能力を持っていなければならず、しかし、そんな人間はたくさんいませんでした。なので、能力を持った一族は大切にされ、稲作などの重労働には従事しなくて良かったりと、ムラの中でも特別な扱いを受けます。そうした環境ですから、シャーマンが集団の指導者になるのは自然なことでした。

邪馬台国の女王卑弥呼

弥生時代の大国として有名な邪馬台国とその女王卑弥呼。ですが、卑弥呼が登場したのは弥生時代の後期、終わりも終わりなのです。そのころ日本では大きな戦争が勃発しており、それを鎮めるために複数のクニが共同で立てた女王でした。

なぜ卑弥呼がそんな特別な女王となったのでしょうか?実は、卑弥呼は鬼道という呪術を使うシャーマンだったと考えられています。女王となってから卑弥呼はたったひとりの男性を除いて、誰とも直接顔を合わせませんでした。卑弥呼が授かったご信託はこの男性に伝えられるのですが、ほとんど謎のベールに包まれた女王なのです。

文字のなかった日本の記録

ところで、古代の日本には文字もなければ本もありません。古代のことを研究しようと思えば、国内だけでは遺跡を調べる他にないのです。しかし、渡来人たちが日本列島へやってきたように、大陸との交流はありました。当時の中国にはすでに文字も本もあったのです。

日本のことが初めて書かれたのは、紀元前206年に誕生した漢王朝の歴史書「漢書」でした。漢は劉邦が項羽を討ってできた国ですね。漢の歴史書「漢書」の地理志という章に日本のことがちょろっとだけ紹介されていました。そして、後漢になってあの有名な『後漢書』東夷伝が出ます。そこには後漢の光武帝が日本列島にあった奴国の王に「漢委奴国王」と彫られた金印を授けたという記録が書かれていました。しかもこの金印、江戸時代に福岡市の志賀島で発見されているので、記録が真実だったことがわかります。

「魏志倭人伝」は正式名称ではない

Text of the Wei Zhi (魏志), 297.jpg
By Kidder, J. Edward. Himiko and Japan’s Elusive Chiefdom of Yamatai: Archaeology, History, and Mythology. Honolulu: University of Hawai’i, 2007. 11. Print. Originally from Asahi Shimbunsha. Yamatai-koku e no michi (The road to Yamatai). Fukuoka, 1980., パブリック・ドメイン, Link

卑弥呼もまた中国の書物にしか記録がありません。弥生時代末期、ちょうど中国は「三国志」の時代です。大陸では魏、呉、蜀の三国が覇権をめぐって長い戦争をしていました。

ところで、「三国志」と聞くと先に日本の漫画や小説を思い浮かべませんか?でも、「三国志」というタイトルは、それらが元ではありません。実際の三国時代(184年~280年)の歴史書のタイトルなのです。

歴史書「三国志」は「魏志」30巻、「呉志」20巻、「蜀志」15巻の計65巻で構成されています。その「魏志」の中の数ページに邪馬台国の卑弥呼についての記録がありました。それを指して「魏志倭人伝」と呼んでいるのですが、正確には『「魏書」東夷伝倭人条』と言います

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