豊穣を祈り、指導者にもなるシャーマン
土偶の発見から縄文時代には祭祀や宗教の存在が確認されていますが、弥生時代にももちろん祭祀があり、祭を司る宗教者がいました。
超自然的存在と接触、交流する宗教者を「シャーマン」と呼びます。弥生時代のシャーマンの仕事は、春に米作りがうまくいくように祈る春祭り、秋の稲刈り後に収穫を感謝する秋祭り、他にも雨乞いや、天災が起こらないように祈ったりとさまざまです。
シャーマンは特別な役職ですから、誰もがなれたわけではありません。特殊な能力を持っていなければならず、しかし、そんな人間はたくさんいませんでした。なので、能力を持った一族は大切にされ、稲作などの重労働には従事しなくて良かったりと、ムラの中でも特別な扱いを受けます。そうした環境ですから、シャーマンが集団の指導者になるのは自然なことでした。
邪馬台国の女王卑弥呼
弥生時代の大国として有名な邪馬台国とその女王卑弥呼。ですが、卑弥呼が登場したのは弥生時代の後期、終わりも終わりなのです。そのころ日本では大きな戦争が勃発しており、それを鎮めるために複数のクニが共同で立てた女王でした。
なぜ卑弥呼がそんな特別な女王となったのでしょうか?実は、卑弥呼は鬼道という呪術を使うシャーマンだったと考えられています。女王となってから卑弥呼はたったひとりの男性を除いて、誰とも直接顔を合わせませんでした。卑弥呼が授かったご信託はこの男性に伝えられるのですが、ほとんど謎のベールに包まれた女王なのです。
文字のなかった日本の記録
ところで、古代の日本には文字もなければ本もありません。古代のことを研究しようと思えば、国内だけでは遺跡を調べる他にないのです。しかし、渡来人たちが日本列島へやってきたように、大陸との交流はありました。当時の中国にはすでに文字も本もあったのです。
日本のことが初めて書かれたのは、紀元前206年に誕生した漢王朝の歴史書「漢書」でした。漢は劉邦が項羽を討ってできた国ですね。漢の歴史書「漢書」の地理志という章に日本のことがちょろっとだけ紹介されていました。そして、後漢になってあの有名な『後漢書』東夷伝が出ます。そこには後漢の光武帝が日本列島にあった奴国の王に「漢委奴国王」と彫られた金印を授けたという記録が書かれていました。しかもこの金印、江戸時代に福岡市の志賀島で発見されているので、記録が真実だったことがわかります。
「魏志倭人伝」は正式名称ではない
By Kidder, J. Edward. Himiko and Japan’s Elusive Chiefdom of Yamatai: Archaeology, History, and Mythology. Honolulu: University of Hawai’i, 2007. 11. Print. Originally from Asahi Shimbunsha. Yamatai-koku e no michi (The road to Yamatai). Fukuoka, 1980., パブリック・ドメイン, Link
卑弥呼もまた中国の書物にしか記録がありません。弥生時代末期、ちょうど中国は「三国志」の時代です。大陸では魏、呉、蜀の三国が覇権をめぐって長い戦争をしていました。
ところで、「三国志」と聞くと先に日本の漫画や小説を思い浮かべませんか?でも、「三国志」というタイトルは、それらが元ではありません。実際の三国時代(184年~280年)の歴史書のタイトルなのです。
歴史書「三国志」は「魏志」30巻、「呉志」20巻、「蜀志」15巻の計65巻で構成されています。その「魏志」の中の数ページに邪馬台国の卑弥呼についての記録がありました。それを指して「魏志倭人伝」と呼んでいるのですが、正確には『「魏書」東夷伝倭人条』と言います。
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