渡来人の登場で変わり始めた日本列島
一万年以上続いた縄文時代の終わりは、中国や朝鮮半島から稲作が伝わったことに起因します。水田で米を栽培する農耕の始まりですね。この技術の伝来によって縄文人たちの生活が一変しました。
狩猟や採取をやめたわけではありませんが、言ってしまえばこれは自然との闘いなわけで、何もとれずに帰って来ることもあります。最悪、逆に動物にやられてしまったり、木の実を取ろうとして崖から落ちるなんてことも。稲作も気候によっては不作となりますが、それまでよりもずっと安定した食料供給となったのです。
渡来人たちが伝えたのは稲作だけに留まりません。渡来人は青銅器を伝え、銅剣や銅の鉾、それに銅鐸が作られるようになりました。さらに弥生時代中期になると青銅よりも扱いやすい鉄器が伝来し、農具や武器の性能が飛躍します。
しかし、ネットも電話もない時代ですから、北九州に伝わった稲作がすぐさま関東や東北へ伝播したわけではありません。渡来人の技術は数百年かけての東日本へと伝わっていきました。その間、南と北ではまったく違う文化が存在していたのです。
米の保存はなによりも大事
米は生肉や魚と違って長期保存のきくものですから、蓄えがあれば少々の飢饉なら耐え忍ぶことができます。ですが、米を食べるのは人間だけではありません。スズメなどの小鳥やネズミといった小さな敵がたくさんいたのです。そこで、人々は米を保存するために高床式倉庫を築きました。
高床式倉庫の柱にはネズミ返しが施され、さらに床を上げたことで風通しがよく、洪水で中身がダメになることもありません。人間、みんな考えることは同じようで、高床式倉庫は日本だけでなくヨーロッパやアフリカなど各地で見られます。
米をめぐる熾烈な争い勃発が勃発
食糧供給を安定化させてくれた米のお陰で人口は増え、数軒しかなかった集落は徐々に大きくなり「ムラ」を形成します。食い扶持は増えますが、人手の増加で田んぼを広げたり、安全に狩りを行ったりとメリットは計り知れません。一族の繁栄に米は欠かせないものとなっていきました。
しかし、大事な米ですが、どれだけ手を尽くしても自然には勝てません。特に弥生時代は涼しい気候が続いており、冷夏によって米不足に陥ることも少なくありませんでした。もし、米が不足した上に、他の狩猟や採取がうまくいかなかったらどうなるでしょうか?そしてそんなとき、別の集落にお米があると知ったら……。
この時代、もはや米は富と同意義となっていました。稲作に向く土地、向かない土地など、場所によって貧富の差が広がり、人々の間に戦争が始まることとなったのです。
米とムラを守れ!環濠集落の発展
金属器に石器と、すでに武器に事欠かない時代でしたから、よその村に攻め入って米や土地を奪うのは難しいことではありませんでした。
しかし、襲われる側も何の抵抗もできないまま潰されるわけにはいきません。人々は自分たちのムラを守るため、周りに堀を巡らせて「濠(ごう)」を造り、逆茂木や乱杭、さらに高い柵を築いて外敵の侵入を防ぎます。
このようなムラを「環濠集落」と言い、弥生時代には欠かせない存在となりました。
文明の成長と身分の差が発生
稲作に高床式倉庫の建設、さらに戦争が始まり、環濠集落が形成されていく弥生時代。こうした怒涛の発展の中では、必ず頭角を現す集団のリーダーが現れます。リーダーは農耕や狩猟、建築を通して集団の信頼を得てなるもの、あるいは、天候や作物の出来不出来を占う宗教的な権威を持った指導者です。
やがてリーダーはムラの長となります。さらに大きい集団だとクニを形成してリーダーは王になりました。そうして、集団の中で身分の差が生まれたのです。これは縄文時代にはなかった社会構造ですね。
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