最も、これだけでは分かりづらいため、承久の乱のあたりから鎌倉時代を追っていくとしよう。さて、今回はそんな六波羅探題について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。
ライター/リュカ
元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から六波羅探題をわかりやすくまとめた。
朝廷の動きに警戒する幕府
1185年に源頼朝が鎌倉幕府を成立させて以来、東国を中心として日本は武士が支配する世になりつつありました。そして、そんな武家政権の日本を変えようとしたのが朝廷の後鳥羽上皇です。そこで1221年、後鳥羽上皇は政治の主権を天皇へと戻すために承久の乱を起こして幕府に戦いを挑みました。
この戦いに勝利したのは幕府、後鳥羽上皇は天皇でありながら幕府によって島流しへと処されてしまい、幕府から政権を取り戻すどころか朝廷と幕府の権力すら逆転する事態となってしまったのです。一方、幕府は承久の乱に勝利したことでその勢力をより強めていきます。
東国の支配から始まった鎌倉幕府、その支配は朝廷を倒したことで西国にも及んでいきますが、ただ承久の乱を引き起こした朝廷には警戒すべき必要があると判断しました。また、新たに支配下において西国の者の動きにも注意しなければならないと考えます。
六波羅探題の設置
承久の乱の後に処罰されたのは後鳥羽上皇だけではありません。西国……すなわち京都において後鳥羽上皇に味方した公家・武士は、所有する領地を全て没収されてしまい、幕府はそれを恩賞という形で承久の乱で貢献した武士に与えることにしました。
とは言え、没収した領地は元々幕府が管理していたものではなく、西国は東国に比べると幕府の権限が届きにくい場所です。ですから、幕府は西国の領地の管理と支配を確かなものへとするため、そこに地頭を設置する対策をとりました。ひとまずこれで西国の領地の管理・支配の問題は解決、残る問題は朝廷です。
今後も朝廷を監視する必要があると判断した幕府は、京都白河南の六波羅にある平清盛の屋敷を改築して役所とします。そして、そこに北条泰時と北条時房の2人を六波羅の北方と南方の監視役として就け、朝廷や西国の武士の監視、及び周辺の治安維持に務めさせました。これが六波羅探題の誕生です。
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