3-2、滝善三郎の切腹で決着
結局、2月2日(2月24日)備前藩は新政府の命令で諸外国側の要求を受け入れて2月9日(3月2日)、永福寺において列強外交官列席のもとで滝を切腹させることに。
備前藩部隊を率いた責任者の日置については、謹慎を課すということで決着。 本来なら家老の日置が責任を取るべきところですが、一説には、藩としてはこの混乱期に唯一有能な日置を失うことを惜しんで藩主池田茂政が、滝に「馬前の討死に勝る忠臣」と称えて、「国家のため、藩のため、帯刀のために頼む」と声をかけたという話もあり、滝が責任を負って潔く切腹となったということ。
3-3、列強外交団立ち合いのもとで切腹
滝の切腹は2月9日夜、兵庫の永福寺で、内外検証人の面前で執行。
新政府側からは伊藤博文(俊輔)、中島信行、列強側は米英仏蘭伊普の士官、公使館書記ということ。
切腹に立ち会ったアーネスト・サトウは「一外交官の見た明治維新」で、「滝は仏壇の前の赤い毛氈の上に座ったが、きわめて平静で前方へ倒れ伏すのに都合の良い位置を選んだ。白木の台に乗せられた短刀を受け取るや滝は、やや乱れた声ではあったが “二月四日神戸で逃げんとする外国人に対し不法にも発砲を命じたのは自分だ。その罪で切腹するから見届けてほしい” と述べ、できるだけ深く刺して右のわき腹までぐいと引いた」と細かく描写。また、サトウは、腹切りはきわめて上品な礼儀正しい一つの儀式で、厳粛なものだと述べています。
同じく立ち会ったミットフォードは、「ある英国外交官の明治維新」によれば、「私はそのおそろしい情景に心底感動したと同時に、受刑者(滝)の男らしい沈着な挙動や、介錯人がその師(介錯人は滝の弟子)に対して最後の務めを果たした剛毅な振る舞いにただただ感嘆の念を感じえません。これほど強烈に教育の力を感じさせるものはないでしょう。」と、侍の子供の頃からの心得、武士道の伝統に感心し、滝が切腹の前に部下たちに挨拶し、自分の罪と判決の正当性を認め、二度と外国人を攻撃しないように真剣にいさめたと聞いた話とともに、大虐殺につながりかねなかった事件での死刑は当然の判決であり、日本人にとっても寛大で、戦争に発展するところを一人の切腹で解消された賢明な処置だといい、旧知の後藤象二郎も全く同じ意見と分かり満足したそう。
3-4、事件の意味
神戸事件は大政奉還を経て明治新政府政権となって初めての外交事件で、結果として諸国列強に押し切られる形で、滝善三郎という1人の命を代償として問題を解決。しかしこれ以降、江戸幕府に代わって明治政府が対外政策を行うこと、正当な政府であることを諸外国に示したということに。
また朝廷がこのときまで唱えていた攘夷政策を開国和親へ、一気に方針転換させたことが外国公使たちに明らかに。ただし、新政府内には攘夷を支持する者もいることもあって、国内に対しての正式な表明は、翌年5月28日(1869年7月7日)の新政府の上局会議における決定まで明らかにされず。
それにこの問題の行方によっては、薩英戦争同様の事態に進展する可能性や、神戸が香港の九龍や上海のように植民地支配下に置かれる事態も起こり得たという見方もあって、滝善三郎の犠牲は危機回避がなされた重大な出来事ということ。
しかし、その後も堺港で土佐藩兵がフランス人水兵を殺傷する事件やイギリス公使ハリー・パークス一行が襲われる事件が発生し、新政府はその対応に追われることに。
事件にまつわる逸話
シーパワー論の提唱者として後年名を知られることになるアメリカ海軍の軍人アルフレッド・セイヤー・マハン少佐は、南北戦争の後、明治維新に立ち会い、神戸事件の最中は、兵庫港に停泊する米国艦イロコイ号の副長を務めていたということ。
また、明治23年(1890年)に高山歯科医学院(東京歯科大学の前身)を創立することになる高山紀齋は、日置帯刀の家臣として備前藩兵の一員であったそう。
錦旗紛失事件
この神戸事件の影響を受けて、1868年(慶応4年)1月14日に土佐藩士の本山茂任が土佐藩へ運ぶ途中の「錦の御旗」をフランス兵に奪われるという前代未聞の錦旗紛失事件が起きたが、のち返還。じつは錦の御旗は、大久保利通が京都の妾に頼んで西陣で買って来たもらった帯地を元に、岩倉具視の腹心玉松操がデザインして作られた話は有名。
鳥羽伏見の戦い直後の混乱時に起こった事件
神戸事件は、鳥羽伏見の戦いのすぐ後、幕府から朝廷への政府がまだ形を成していない時期に勃発。兵庫開港で各国公使たちや外交官たちがいる中で起こったことで目撃証言多数あり、アーネスト・サトウらの回想録に出て来るために、伊達宗城らとの交渉の様子から滝善三郎の切腹まできちんと記録されているのも興味深いです。
それにしても日本人的に言えば、因果を含められて犠牲になった滝善三郎を英雄として見る人も多くいるが、切腹を残虐で野蛮な行為とは思わず、儀式の様子、荘厳なまでの滝の最期に感動すらしているサトウらの反応は、さすが知日家で後に日本研究の第一人者になるだけのことはあるということかも。