今回は神戸事件を取り上げるぞ。

あまり知られていないが、新政府発足間もない頃に起こった外国人殺傷事件なのですが、新政府がうまく対応したのかどうか知りたいよな。

その辺のところを幕末にやたら詳しいあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。幕末の出来事には勤王佐幕関係なく興味津々。あまり知られていないがけっこう重要な神戸事件について、5分でわかるようにまとめた。

1-1、神戸事件とは

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備前事件ともいい、慶応4年1月11日(1868年2月4日)に、神戸(現・神戸市)三宮神社前で、備前岡山藩兵が隊列を横切ったフランス人水兵らを負傷させ、その後銃撃戦に発展し、居留地(現・旧居留地)予定地を検分中の欧米諸国公使らに水平射撃を加えたことで、明治新政府初の外交問題となった事件。

1-2、事件の背景

事件が起こったのは、鳥羽伏見の戦い直後、そして開港間もない兵庫港の近所。
慶応3年12月7日、各国の艦隊が停泊する中、神戸開港、慶応4年(1868年)1月3日 鳥羽伏見の戦い、1月6日 徳川慶喜大阪より海路脱出、1月11日備前兵がフランス水兵と衝突(神戸事件)、2月15日 土佐藩兵がフランス軍艦乗員を殺傷(堺事件)と、時系列でみても混乱のさなかで、鳥羽伏見の戦いのあった京都大阪に近く、開港したばかりの港の近くで外国人を巻き込んだ事件、おまけにうるさいイギリス公使のパークスも現場にいたのですね。

そのうえに言ってみれば日本は内戦まっただ中で、まだ大政奉還後まもないかたちを成していない明治新政府が、列強の外交団相手にどんな対応をするかで今後が決まる、大事な交渉の場でもありました。

1-3、事件の発端

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慶応4年1月3日(1868年1月27日)戊辰戦争が開戦まもなくで、徳川方の尼崎藩を牽制するため、明治新政府は備前岡山藩に摂津西宮(現・西宮市)の警備を命じました。備前岡山藩では、1月5日(1月29日)までに2000人の兵を出立させて、このうちの家老日置帯刀(へき たてわき)率いる480人(800人説も)が大砲を伴って陸路を行進。

このときに、日置帯刀の軍勢が慶応3年12月7日(1868年1月1日)の兵庫開港(現・神戸港)に伴って、大名行列と外国人の衝突を避けるため、幕府によって作られた迂回路の「徳川道」を通らずに、西国街道を進んだことが事件の引き金に。

\次のページで「2-1、日本側の見方は」を解説!/

2-1、日本側の見方は

慶応4年(1868年)1月11日(2月4日)13時過ぎに、備前岡山藩兵の隊列が神戸三宮神社近くに差しかかったが、当時、開港したばかりの兵庫には外国軍艦が多数碇泊していて、大勢の外国人が岡山藩の隊列を見物しようと道沿いに集まっていたということで、付近の建物から出てきたフランス人水兵2人が行列を横切ろうとしたそう。

これは武家諸法度に定められた「供割」(ともわり)と呼ばれる非常に無礼な行為ということになり、第3砲兵隊長の滝善三郎正信が槍を持って制止したのですね。しかしフランス人水兵に言葉が通じなかったため、強引に隊列を横切ろうとする水兵たちに対し、滝隊長が槍で突きかかり軽傷を負わせたということ。

これを見て民家に退いていた他の水兵数人が拳銃を取り出したので、それを見た滝隊長が「鉄砲、鉄砲」と叫び、藩兵たちは、隊長の叫びを発砲命令と受け取って発砲したせいで銃撃戦に発展。

この西国街道沿いにおける小競り合いが、隣接の居留地の予定地でたまたま実況検分していた欧米諸国公使たちにまで銃口を向け、数度一斉射撃を加えるまでに発展する事態になったということ。しかし弾はほとんど命中せずに頭上を飛び越し、居留地の反対側の旧幕府の兵庫運上所(神戸税関)の屋上に翻っていた列国の国が穴だらけになっただけ。なので、銃口を上に向けた威嚇射撃か、殺意はあったが、はたまた訓練不足で命中しなかったのか、欧米人の証言も一致していないということ。 尚、備前岡山藩兵の後続軍は、前方での騒動に気付いて西国街道の迂回路の徳川道を通過したので事件と関わらず。

砲兵隊長の「鉄砲」という言葉だけでいきなり射撃命令となったにしては、一斉射撃の弾丸のほとんどが外国人たちの頭上高く越えていて、威嚇射撃のよう。が、外国人たちは、備前岡山藩兵が銃口を向けたと判断、見物の外国人の中にはイギリス公使パークス(かなり怒りっぽいことで有名)もいて、この事態に激昂してしまい、居留地守備の各国の兵士も集まり銃撃戦になったが、本格的な衝突にはならず結果的には、別の外国人の2人が軽傷を負っただけだったということ。

また当時別の用事で岡山へ行っていた木戸孝允によると、備前岡山の国元には、英米兵が神戸で備前藩士の往来を抑止して、諸藩の戦艦を拘留しているという話として伝わり、憤慨した藩士らが「夷狄討つべし」と叫んで暴挙に出かねないという、不穏な情況になったそう。

2-2、イギリス人外交官A・B・ミットフォードの目撃談

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By Samuel Lawrence (1817-1884) - Memoirs(英国外交官の見た幕末維新―リーズデイル卿回想録 Memories (1916) by Lord Redesdale, パブリック・ドメイン, Link

「ある英国外交官の明治維新」ヒュー・コータッツィ著によれば、公使たちが外国人居留区として割り当てられた土地を検分していたところへ、兵庫側の道から更新してきた備前岡山藩兵の一連隊が、不意の命令で停止して外国人の方に残忍な銃火を浴びせてきたということ。幸運にも、(後に判明したところによれば)最近になってアメリカから買い入れたばかりの銃だったので、彼ら藩兵はまだ照準のとり方を会得していなかったそう。

備前藩兵の一斉射撃は何度か行われ、パークス公使らもその真っただ中にいて、他の公使たちや大勢の外国人が銃火にさらされたということ。

しかし、アメリカ兵が軽傷を受けただけで、その後、イギリスの護衛隊やその他の国の警備隊が招集されて、備前藩兵の舞台を追撃し、備前隊は逃走、備前兵たちは小型の野戦砲2門をはじめ、文机から恋文まで色々落とし物を。また一般人の老婆が両足のくるぶしに流れ弾があたって動けなくなっているのを、ミットフォードの同僚で医師でもあるウィリスが連れて来て治療をしたそう。

そしてミットフォードは、われわれが得た限りの情報では、「攘夷思想の旺盛なことで有名な」備前岡山藩兵は、兵庫を通過する際、機会があるたびに行きずりの外国人を侮辱したということで、発端となった列を横切った話も、フランスのロッシュ講師の護衛の一人であるキャリエールというフランス人が酒屋から出てきたところを備前岡山藩兵から荒々しく罵声を浴びせられたので、どうしたのだと問い返したら、答える代わりに威嚇する身振りをして騒ぎが起こり、藩兵のひとりが槍の覆いをとってキャリエールを軽くついたので、彼は一軒の家に逃げ込んだのをみて、指揮官の滝善三郎が馬を下りて扱っていた外国人を射撃するよう命令した。

そして、西洋諸国との交際に強く反対したことで有名な備前岡山藩が、条約諸国全体に向けられた行為であるとし、各国公使らは奇跡的に死を免れたのであり、この暴行は故意に行われたものでまったく正当な理由がないし、行列を横切ったというのは後から思いついたことで、当時われわれはそんな話を聞かず、日本人もおなじだったということ。

2-3、アーネスト・サトウの体験

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パブリック・ドメイン, Link

「一外交官の見た明治維新」によると、この日早朝から備前の兵士が神戸を行進しつつあったが、午後2時ごろ、その家老某の家来が、行列の前を横切った一名のアメリカ人水兵を射殺し、その後で出会った外国人を片っ端から殺害しようとしたが、幸いにも大事には至らなかった。

アメリカ海兵隊はすぐ相手を追撃し、イギリスの第9連隊第二大隊も招集され、若干のフランス水兵も上陸したそう。外国人居留地の予定地は、広々とした野原でその奥の端に道路が通っていた状態で、備前岡山藩兵たちはその道路を通っていたということ。そしてイギリス警備隊の半数が敵を追撃し、野原の東端にある生田川の河原に至ると、備前岡山藩兵の行列が見えたので、外国人部隊が突進して一斉射撃すると、敵は方向を変えて畠に逃げ込んで発砲したが、それに対して発泡するとひとたまりもなく潰走。パークス公使は騎馬護衛兵を従えて西宮に向かってかなり疾駆したが、敵を見つけることは出来なかったということ。

サトウはパークス公使に、備前岡山藩士がこの不法な行動について満足な釈明をしない限り、諸外国はこれを日本全体に対する争いとするという声明を出すよう勧め、各国大使をこの声明に同意させたので、この声明の写しを捕虜に持たせて追い返したそう。

また、1時半ごろ長州兵がこのそばを通りかかったのであやうくイギリス警備隊に発砲されかけたが、サトウが撤退するように申し入れて快諾されたということで、他にも波及する恐れはあったわけですね。

午後には「物的証拠」として、兵庫と神戸で越前、久留米、宇和島、徳川の所有と思しき船を拿捕したり、グラバー所有の船が薩摩兵800人を乗せて来るので上陸を差し止めるために出向いたが、薩摩兵は乗っていなかったとか、オランダ人が日本人が襲撃してくると警告したとか、ドイツ公使フォン・ブラントは、300名の武装した一隊がこちらを狙っていると大騒ぎしたが間違いだったとか、外国人外交団の混乱している様子がわかります。

3-1、事件解決に向けての交渉

慶応4年(1868年)1月15日(2月8日)、この時点ではまだ朝廷は、諸外国に対して徳川幕府から明治政府への政権移譲を宣言していなかったのですが、居合わせた後の初代兵庫県知事伊藤博文(俊輔)が折衝に当たるも決裂。

急遽、東久世通禧を代表として薩摩の岩下左次右衛門、寺島宗徳、伊藤博文らと共に来て、開国和親を朝廷より宣言した上で明治新政府への政権移譲を表明し、交渉を開始。

事件を重く見た列強外交官たちは、6カ国の公使連名で新政府に抗議、日本在留外国人の身柄の安全保証とともに、「死者が出なかったのは神の恩寵であり、殺意が明らかである以上、発砲を命じた士官の死罪」を要求。

しかし日本側は、この事件での外国人側の被害が少なかったこと、また滝の行為、少なくとも「供割」への対処は武士として当然のものであったので、処罰が重すぎるのではないかとの声もあり、その後も伊藤や五代才助(後の五代友厚)を通じ、伊達宗城らが期限まで助命嘆願にあたり、パークス公使も助命に心が動いたようですが、フランス公使ロッシュをはじめとする公使投票で否決されたということ。

\次のページで「3-2、滝善三郎の切腹で決着」を解説!/

3-2、滝善三郎の切腹で決着

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結局、2月2日(2月24日)備前藩は新政府の命令で諸外国側の要求を受け入れて2月9日(3月2日)、永福寺において列強外交官列席のもとで滝を切腹させることに。

備前藩部隊を率いた責任者の日置については、謹慎を課すということで決着。 本来なら家老の日置が責任を取るべきところですが、一説には、藩としてはこの混乱期に唯一有能な日置を失うことを惜しんで藩主池田茂政が、滝に「馬前の討死に勝る忠臣」と称えて、「国家のため、藩のため、帯刀のために頼む」と声をかけたという話もあり、滝が責任を負って潔く切腹となったということ。

3-3、列強外交団立ち合いのもとで切腹

滝の切腹は2月9日夜、兵庫の永福寺で、内外検証人の面前で執行。

新政府側からは伊藤博文(俊輔)、中島信行、列強側は米英仏蘭伊普の士官、公使館書記ということ。

切腹に立ち会ったアーネスト・サトウは「一外交官の見た明治維新」で、「滝は仏壇の前の赤い毛氈の上に座ったが、きわめて平静で前方へ倒れ伏すのに都合の良い位置を選んだ。白木の台に乗せられた短刀を受け取るや滝は、やや乱れた声ではあったが "二月四日神戸で逃げんとする外国人に対し不法にも発砲を命じたのは自分だ。その罪で切腹するから見届けてほしい" と述べ、できるだけ深く刺して右のわき腹までぐいと引いた」と細かく描写。また、サトウは、腹切りはきわめて上品な礼儀正しい一つの儀式で、厳粛なものだと述べています。

同じく立ち会ったミットフォードは、「ある英国外交官の明治維新」によれば、「私はそのおそろしい情景に心底感動したと同時に、受刑者(滝)の男らしい沈着な挙動や、介錯人がその師(介錯人は滝の弟子)に対して最後の務めを果たした剛毅な振る舞いにただただ感嘆の念を感じえません。これほど強烈に教育の力を感じさせるものはないでしょう。」と、侍の子供の頃からの心得、武士道の伝統に感心し、滝が切腹の前に部下たちに挨拶し、自分の罪と判決の正当性を認め、二度と外国人を攻撃しないように真剣にいさめたと聞いた話とともに、大虐殺につながりかねなかった事件での死刑は当然の判決であり、日本人にとっても寛大で、戦争に発展するところを一人の切腹で解消された賢明な処置だといい、旧知の後藤象二郎も全く同じ意見と分かり満足したそう。

3-4、事件の意味

神戸事件は大政奉還を経て明治新政府政権となって初めての外交事件で、結果として諸国列強に押し切られる形で、滝善三郎という1人の命を代償として問題を解決。しかしこれ以降、江戸幕府に代わって明治政府が対外政策を行うこと、正当な政府であることを諸外国に示したということに。

また朝廷がこのときまで唱えていた攘夷政策を開国和親へ、一気に方針転換させたことが外国公使たちに明らかに。ただし、新政府内には攘夷を支持する者もいることもあって、国内に対しての正式な表明は、翌年5月28日(1869年7月7日)の新政府の上局会議における決定まで明らかにされず。
それにこの問題の行方によっては、薩英戦争同様の事態に進展する可能性や、神戸が香港の九龍や上海のように植民地支配下に置かれる事態も起こり得たという見方もあって、滝善三郎の犠牲は危機回避がなされた重大な出来事ということ。

しかし、その後も堺港で土佐藩兵がフランス人水兵を殺傷する事件やイギリス公使ハリー・パークス一行が襲われる事件が発生し、新政府はその対応に追われることに。

事件にまつわる逸話
シーパワー論の提唱者として後年名を知られることになるアメリカ海軍の軍人アルフレッド・セイヤー・マハン少佐は、南北戦争の後、明治維新に立ち会い、神戸事件の最中は、兵庫港に停泊する米国艦イロコイ号の副長を務めていたということ。

また、明治23年(1890年)に高山歯科医学院(東京歯科大学の前身)を創立することになる高山紀齋は、日置帯刀の家臣として備前藩兵の一員であったそう。

錦旗紛失事件 

この神戸事件の影響を受けて、1868年(慶応4年)1月14日に土佐藩士の本山茂任が土佐藩へ運ぶ途中の「錦の御旗」をフランス兵に奪われるという前代未聞の錦旗紛失事件が起きたが、のち返還。じつは錦の御旗は、大久保利通が京都の妾に頼んで西陣で買って来たもらった帯地を元に、岩倉具視の腹心玉松操がデザインして作られた話は有名。

鳥羽伏見の戦い直後の混乱時に起こった事件

神戸事件は、鳥羽伏見の戦いのすぐ後、幕府から朝廷への政府がまだ形を成していない時期に勃発。兵庫開港で各国公使たちや外交官たちがいる中で起こったことで目撃証言多数あり、アーネスト・サトウらの回想録に出て来るために、伊達宗城らとの交渉の様子から滝善三郎の切腹まできちんと記録されているのも興味深いです。

それにしても日本人的に言えば、因果を含められて犠牲になった滝善三郎を英雄として見る人も多くいるが、切腹を残虐で野蛮な行為とは思わず、儀式の様子、荘厳なまでの滝の最期に感動すらしているサトウらの反応は、さすが知日家で後に日本研究の第一人者になるだけのことはあるということかも。

" /> 明治新政府が遭遇した初の外交問題「神戸事件」を歴女がわかりやすく解説 – Study-Z
幕末日本史歴史江戸時代

明治新政府が遭遇した初の外交問題「神戸事件」を歴女がわかりやすく解説

今回は神戸事件を取り上げるぞ。

あまり知られていないが、新政府発足間もない頃に起こった外国人殺傷事件なのですが、新政府がうまく対応したのかどうか知りたいよな。

その辺のところを幕末にやたら詳しいあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。幕末の出来事には勤王佐幕関係なく興味津々。あまり知られていないがけっこう重要な神戸事件について、5分でわかるようにまとめた。

1-1、神戸事件とは

image by PIXTA / 50463337

備前事件ともいい、慶応4年1月11日(1868年2月4日)に、神戸(現・神戸市)三宮神社前で、備前岡山藩兵が隊列を横切ったフランス人水兵らを負傷させ、その後銃撃戦に発展し、居留地(現・旧居留地)予定地を検分中の欧米諸国公使らに水平射撃を加えたことで、明治新政府初の外交問題となった事件。

1-2、事件の背景

事件が起こったのは、鳥羽伏見の戦い直後、そして開港間もない兵庫港の近所。
慶応3年12月7日、各国の艦隊が停泊する中、神戸開港、慶応4年(1868年)1月3日 鳥羽伏見の戦い、1月6日 徳川慶喜大阪より海路脱出、1月11日備前兵がフランス水兵と衝突(神戸事件)、2月15日 土佐藩兵がフランス軍艦乗員を殺傷(堺事件)と、時系列でみても混乱のさなかで、鳥羽伏見の戦いのあった京都大阪に近く、開港したばかりの港の近くで外国人を巻き込んだ事件、おまけにうるさいイギリス公使のパークスも現場にいたのですね。

そのうえに言ってみれば日本は内戦まっただ中で、まだ大政奉還後まもないかたちを成していない明治新政府が、列強の外交団相手にどんな対応をするかで今後が決まる、大事な交渉の場でもありました。

1-3、事件の発端

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慶応4年1月3日(1868年1月27日)戊辰戦争が開戦まもなくで、徳川方の尼崎藩を牽制するため、明治新政府は備前岡山藩に摂津西宮(現・西宮市)の警備を命じました。備前岡山藩では、1月5日(1月29日)までに2000人の兵を出立させて、このうちの家老日置帯刀(へき たてわき)率いる480人(800人説も)が大砲を伴って陸路を行進。

このときに、日置帯刀の軍勢が慶応3年12月7日(1868年1月1日)の兵庫開港(現・神戸港)に伴って、大名行列と外国人の衝突を避けるため、幕府によって作られた迂回路の「徳川道」を通らずに、西国街道を進んだことが事件の引き金に。

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