日本史

島流しにされても倒幕は果たす!「後醍醐天皇」を元塾講師が分かりやすく5分で解説

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島流しにされた後醍醐天皇は島を脱出、味方を増やして京都に戻ってとうとう倒幕が実現した。1185年に始まった鎌倉幕府は1333年に新田義貞によって滅ぼされたのだ。これで1つの時代が終わり、新たな時代へと進んでいく。

建武の新政の開始

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批判と不満で権威が低下する後醍醐天皇

後醍醐天皇は京都に戻ると退位を否定、さらには光厳天皇(量仁親王)の即位も否定しました。そして光厳朝で行われた人事は全て無効とした上で、幕府と摂関も廃止して新たに建武の新政を開始します。また、後醍醐天皇が倒幕を考えるきっかけとなった父の遺言にも背く行動をとりました。

持明院統・大覚寺統の嫡流である邦良親王の遺児らを皇位継承から除外、一方で自分の皇子恒良親王を皇太子に立て、自らの子孫により皇統を独占する意思を明らかにしたのです。建武の新政では幕府は廃止したため天皇中心となる政治を行いますが、ただ後醍醐天皇の政治力はお世辞にも高いとは言えませんでした

様々な問題に対する対応の不備、さらに増税だけを財源に考えた大内裏建設計画紙幣発行計画はあまりにも非現実的な経済政策であり、その施策は批判の対象となって現代で言うところの炎上状態です。建武の新政の失敗はもはや誰の目から見ても明らかでした。

足利尊氏との対立

また、建武の新政は皇族や貴族が優遇される政治制度でしたから、武士からすれば不満しかありませんでした。非現実的な政治政策は公家からもあしらわれ、後醍醐天皇の政治力のなさが露呈した形になってしまったのです。こうして権威が落ち込む一方になった後醍醐天皇、ついには倒幕の功労者からも見放されるようになります。

建武の新政に不満を抱いた足利高氏、これに対して後醍醐天皇は新田義貞に足利高氏討伐の命令を下しました。足利高氏との戦いに一度は敗れた新田義貞でしたが、その後は楠木正成らの力も借りて挙兵して今度は足利高氏に勝利、足利高氏は九州へと逃げていきます。

楠木正成は後醍醐天皇に足利高氏との和陸を提案するものの、後醍醐天皇はこれは拒否して今度こそ足利高氏を討ち取るよう新田義貞と楠木正成に命令、これが足利高氏との決着をつける1336年の湊川の戦いです。この戦いに勝利したのは足利高氏で、新田義貞と楠木正成は敗れたのでした。

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言葉は悪いが、後醍醐天皇による建武の新政は無能と酷評されるレベルだったようだな。これによって後醍醐天皇は足利高氏と対立、再三の討伐命令を下すものの最後戦いに勝利したのは足利高氏だった。

南北朝時代の到来と後醍醐天皇の死去

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shintomoyui0311