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島流しにされても倒幕は果たす!「後醍醐天皇」を元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

1度目の倒幕計画発覚・正中の変

時を遡ること1221年、鎌倉幕府が誕生して40年近く経った頃、幕府から政権を取り戻そうとした朝廷の後鳥羽上皇が承久の乱を起こします。その結果朝廷は幕府に大敗、後鳥羽上皇は幕府に処分されて島流しにされるという前代未聞の事件が起こり、この瞬間に朝廷と幕府の権力は逆転しました

それ以降、幕府は朝廷に対する監視を怠ることなく、そのための機関である六波羅探題を設置します。ここで時を戻すこと1324年、後醍醐天皇が密かに計画していた倒幕が幕府に発覚、六波羅探題によって後醍醐天皇の側近である日野資朝らが処分され、これを正中の変と呼びました。

倒幕を計画した後醍醐天皇本人はこの時処分されずにすみましたが、後醍醐天皇は怖れるどころかなお倒幕計画を進めていったのです。後醍醐天皇の倒幕への思いは尋常ではなく、中宮の御産祈祷を口実にして倒幕の計画成功の祈祷を密かに行ったほどで、興福寺や延暦寺などにも赴いて寺社勢力とも関係を持ったほどでした

2度目の倒幕計画発覚・島流しにされた後醍醐天皇

こうして倒幕計画を進める後醍醐天皇でしたが、最大の問題は味方が少なかったことです。大覚寺統に仕える貴族の多くは邦良親王を支持していましたし、持明院統や幕府もまた彼らを支持していたため、後醍醐天皇の倒幕に賛成する者は少なく孤立状態になりつつありました。

後醍醐天皇の倒幕計画に反対する者は多かったですが、それどころか計画を密告する者まで現れます。1331年、再度の後醍醐天皇の倒幕計画を側近の吉田定房が密告、さすがに2度の倒幕計画を幕府が見逃すはずはないと思った後醍醐天皇は、身の危険を感じて京都からの脱出を決意しました。

実際に追われる身となってしまった後醍醐天皇は京都の笠置山にて籠城しますが、幕府はこれを落城させて後醍醐天皇を捕えます。捕えられた後醍醐天皇は即廃位、代わって皇太子・量仁親王が即位することになり、後醍醐天皇は1332年に隠岐の島へと島流しされてしまいました

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2つ補足しておこう。1つは支持の多かった邦良親王だが、彼が即位しなかったのは1326年に急死してしまったからだ。もう1つは後醍醐天皇の2度目の倒幕計画だが、島流しにされてもその計画は諦めておらず、この2度目の倒幕計画を元弘の乱と呼ぶぞ。

島を脱出した後醍醐天皇、そして倒幕へ

image by PIXTA / 15558063

船上山の戦い

島流しにされた後醍醐天皇、その状況は一見絶望的でしたが、その中でも見え始めていました。と言うのも、その頃各地では幕府に反発する者が出てきて活動しており、つまり後醍醐天皇にとって同じ倒幕を目指す頼もしい同志が増えてきたのです。

その代表的な人物として、後醍醐天皇の皇子・護良親王、楠木正成、赤松則村らが挙げられます。残った問題は後醍醐天皇が隠岐の島にいるということ……そこで後醍醐天皇は隠岐の島を脱出、ひとまず名和長年ら名和一族を頼って名和の湊に辿り着きました。

これに応じた名和長年は船上山(現在の鳥取県東伯郡琴浦町に位置する山)にて挙兵すると、幕府の隠岐守護・佐々木清高らの軍勢を撃退、1333年に起こったこの戦いを船上山の戦いと呼びます。一方、後醍醐天皇の復帰と挙兵を知った幕府はこれを排除するための援軍を送り込みました。

鎌倉幕府の滅亡

後醍醐天皇の挙兵を阻止するために幕府から援軍として送られたのは、名越高家足利高氏(後の足利尊氏)でした。しかし、この援軍を送ったことが幕府にとって命取りになります。名越高家は赤松則村に討ち取られ、足利高氏に至っては幕府を裏切って後醍醐天皇の側に就いたのです

後醍醐天皇の味方に就いた足利高氏は六波羅探題を攻めて滅ぼします。残った幕府軍の一味は京都へと撤退しますがいずれも自害、これで船上山討伐のための幕府軍は全滅して、1度は島流しにされた後醍醐天皇でしたが京都へと戻ってきたのです

後醍醐天皇の倒幕のための行動は各地の反幕府派の心を動かしました。足利高氏のライバルでもあった新田義貞もその一人です。彼は数十万とも言われる大軍勢を率いて鎌倉に入ると幕府を攻撃、これに対して幕府も反撃しますが、激戦の末に新田義貞は幕府を滅ぼしたのでした

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