今日は後醍醐天皇について勉強していきます。後醍醐天皇とは日本の第96代の天皇であり、時代としては鎌倉幕府の後期から南北朝時代の初期にかけての天皇です。

幕府が日本を統治する世において、天皇は当時の歴史上では一見目立たない存在かもしれない。しかし、鎌倉幕府を滅ぼしたのは後醍醐天皇であり、今回はそんな後醍醐天皇について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から後醍醐天皇をわかりやすくまとめた。

後醍醐天皇の誕生から即位まで

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31歳の若さで即位

後醍醐天皇が誕生したのは1288年の11月、父は大覚寺統の後宇多天皇、母は、内大臣花山院師継の養女・藤原忠子で、第二皇子として誕生します。大覚寺統というのは日本の皇室の系統で、当時はこれと持明院統の2つの系統があり、それぞれの系統は後継者を巡って対立する関係でした。

そこで、鎌倉幕府は両者の子孫の間でおよそ10年を目途に交互に皇位を継承、院政を行うように認めていたのです。 1308年、持明院統の花園天皇が即位すると後醍醐天皇は皇太子に立てられます。そして1318年、花園天皇の譲位を受けた後醍醐天皇は天皇へと即位、まだ31歳の若さでのことでした。

院政では天皇が皇位を譲ると上皇になり、上皇が出家すると法皇になります。後醍醐天皇が即位してからの3年間は法皇になった父が院政を行っていますが、これは「天皇が皇位を後継者に譲り、上皇となった者が政務を天皇に代わり直接行う」という院政の独自のシステムによるものです。

父の遺言を認めた幕府への不満

さて、天皇へとなった後醍醐天皇でしたが、後醍醐天皇が天皇である期間は「後醍醐天皇の兄・後二条天皇の遺児(親と死に別れた子)である皇太子の邦良親王が元服して皇位につくまでの間」とされていました。これは、後醍醐天皇の父の遺言に基づいてのことです。

後醍醐天皇にとってそれは面白くない事実であり、なぜなら自分の子孫に皇位継承がなされないわけですからね。この事実に不満と怒りを持った後醍醐天皇、そして不満と怒りの矛先は父の遺言状の内容を承諾して保証した幕府に対して向けられます。

1321年、後醍醐天皇の父が院政を終えるといよいよ後醍醐天皇の親政(天皇自身で政治を行うこと)が始まりました。とは言え、親政を行うことになっても後醍醐天皇の中から幕府に対する不満は消えず、鎌倉幕府を倒そうと密かに考えて計画していたのです

後醍醐天皇の2度の倒幕計画

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\次のページで「1度目の倒幕計画発覚・正中の変」を解説!/

1度目の倒幕計画発覚・正中の変

時を遡ること1221年、鎌倉幕府が誕生して40年近く経った頃、幕府から政権を取り戻そうとした朝廷の後鳥羽上皇が承久の乱を起こします。その結果朝廷は幕府に大敗、後鳥羽上皇は幕府に処分されて島流しにされるという前代未聞の事件が起こり、この瞬間に朝廷と幕府の権力は逆転しました

それ以降、幕府は朝廷に対する監視を怠ることなく、そのための機関である六波羅探題を設置します。ここで時を戻すこと1324年、後醍醐天皇が密かに計画していた倒幕が幕府に発覚、六波羅探題によって後醍醐天皇の側近である日野資朝らが処分され、これを正中の変と呼びました。

倒幕を計画した後醍醐天皇本人はこの時処分されずにすみましたが、後醍醐天皇は怖れるどころかなお倒幕計画を進めていったのです。後醍醐天皇の倒幕への思いは尋常ではなく、中宮の御産祈祷を口実にして倒幕の計画成功の祈祷を密かに行ったほどで、興福寺や延暦寺などにも赴いて寺社勢力とも関係を持ったほどでした

2度目の倒幕計画発覚・島流しにされた後醍醐天皇

こうして倒幕計画を進める後醍醐天皇でしたが、最大の問題は味方が少なかったことです。大覚寺統に仕える貴族の多くは邦良親王を支持していましたし、持明院統や幕府もまた彼らを支持していたため、後醍醐天皇の倒幕に賛成する者は少なく孤立状態になりつつありました。

後醍醐天皇の倒幕計画に反対する者は多かったですが、それどころか計画を密告する者まで現れます。1331年、再度の後醍醐天皇の倒幕計画を側近の吉田定房が密告、さすがに2度の倒幕計画を幕府が見逃すはずはないと思った後醍醐天皇は、身の危険を感じて京都からの脱出を決意しました。

実際に追われる身となってしまった後醍醐天皇は京都の笠置山にて籠城しますが、幕府はこれを落城させて後醍醐天皇を捕えます。捕えられた後醍醐天皇は即廃位、代わって皇太子・量仁親王が即位することになり、後醍醐天皇は1332年に隠岐の島へと島流しされてしまいました

島を脱出した後醍醐天皇、そして倒幕へ

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船上山の戦い

島流しにされた後醍醐天皇、その状況は一見絶望的でしたが、その中でも見え始めていました。と言うのも、その頃各地では幕府に反発する者が出てきて活動しており、つまり後醍醐天皇にとって同じ倒幕を目指す頼もしい同志が増えてきたのです。

その代表的な人物として、後醍醐天皇の皇子・護良親王、楠木正成、赤松則村らが挙げられます。残った問題は後醍醐天皇が隠岐の島にいるということ……そこで後醍醐天皇は隠岐の島を脱出、ひとまず名和長年ら名和一族を頼って名和の湊に辿り着きました。

これに応じた名和長年は船上山(現在の鳥取県東伯郡琴浦町に位置する山)にて挙兵すると、幕府の隠岐守護・佐々木清高らの軍勢を撃退、1333年に起こったこの戦いを船上山の戦いと呼びます。一方、後醍醐天皇の復帰と挙兵を知った幕府はこれを排除するための援軍を送り込みました。

鎌倉幕府の滅亡

後醍醐天皇の挙兵を阻止するために幕府から援軍として送られたのは、名越高家足利高氏(後の足利尊氏)でした。しかし、この援軍を送ったことが幕府にとって命取りになります。名越高家は赤松則村に討ち取られ、足利高氏に至っては幕府を裏切って後醍醐天皇の側に就いたのです

後醍醐天皇の味方に就いた足利高氏は六波羅探題を攻めて滅ぼします。残った幕府軍の一味は京都へと撤退しますがいずれも自害、これで船上山討伐のための幕府軍は全滅して、1度は島流しにされた後醍醐天皇でしたが京都へと戻ってきたのです

後醍醐天皇の倒幕のための行動は各地の反幕府派の心を動かしました。足利高氏のライバルでもあった新田義貞もその一人です。彼は数十万とも言われる大軍勢を率いて鎌倉に入ると幕府を攻撃、これに対して幕府も反撃しますが、激戦の末に新田義貞は幕府を滅ぼしたのでした

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建武の新政の開始

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批判と不満で権威が低下する後醍醐天皇

後醍醐天皇は京都に戻ると退位を否定、さらには光厳天皇(量仁親王)の即位も否定しました。そして光厳朝で行われた人事は全て無効とした上で、幕府と摂関も廃止して新たに建武の新政を開始します。また、後醍醐天皇が倒幕を考えるきっかけとなった父の遺言にも背く行動をとりました。

持明院統・大覚寺統の嫡流である邦良親王の遺児らを皇位継承から除外、一方で自分の皇子恒良親王を皇太子に立て、自らの子孫により皇統を独占する意思を明らかにしたのです。建武の新政では幕府は廃止したため天皇中心となる政治を行いますが、ただ後醍醐天皇の政治力はお世辞にも高いとは言えませんでした

様々な問題に対する対応の不備、さらに増税だけを財源に考えた大内裏建設計画紙幣発行計画はあまりにも非現実的な経済政策であり、その施策は批判の対象となって現代で言うところの炎上状態です。建武の新政の失敗はもはや誰の目から見ても明らかでした。

足利尊氏との対立

また、建武の新政は皇族や貴族が優遇される政治制度でしたから、武士からすれば不満しかありませんでした。非現実的な政治政策は公家からもあしらわれ、後醍醐天皇の政治力のなさが露呈した形になってしまったのです。こうして権威が落ち込む一方になった後醍醐天皇、ついには倒幕の功労者からも見放されるようになります。

建武の新政に不満を抱いた足利高氏、これに対して後醍醐天皇は新田義貞に足利高氏討伐の命令を下しました。足利高氏との戦いに一度は敗れた新田義貞でしたが、その後は楠木正成らの力も借りて挙兵して今度は足利高氏に勝利、足利高氏は九州へと逃げていきます。

楠木正成は後醍醐天皇に足利高氏との和陸を提案するものの、後醍醐天皇はこれは拒否して今度こそ足利高氏を討ち取るよう新田義貞と楠木正成に命令、これが足利高氏との決着をつける1336年の湊川の戦いです。この戦いに勝利したのは足利高氏で、新田義貞と楠木正成は敗れたのでした。

南北朝時代の到来と後醍醐天皇の死去

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2つの朝廷と2人の天皇・南北朝時代

湊川の戦いで勝利した足利高氏が京都に入ってきたため、後醍醐天皇は比叡山へと逃げていきます。一応は対抗するものの武力において有利な足利高氏を追い払えるはずもなく、そのため後醍醐天皇はようやく足利高氏との和陸に応じました

一方、足利高氏は新たな天皇として持明院統から光明天皇を盛り立て、室町幕府の政治方針を記した建武式目を制定すると、ここに新たな幕府となる室町幕府を開いたのです。鎌倉幕府が終わったと思えば今度は室町幕府の誕生、これには後醍醐天皇も黙ってはいませんでした。

後醍醐天皇は自分が正当な天皇であると主張、そして吉野(現在の奈良県)に自ら朝廷を開きます。これによって京都の朝廷とされる北朝吉野の朝廷とされる南朝、実に2つの朝廷が存在するという何とも奇妙な状態となりました。この時代を南北朝時代と呼び、1336年から1392年の57年間がこれに該当します。

後醍醐天皇の死去

朝廷が2つ、天皇が2人存在するなど許されるはずがなく、そのため後醍醐天皇は北朝に対抗する目的で日本の各地に自分の皇子を派遣します。もちろん皇子には北朝に対抗するよう命令を下していましたが、今更その劣勢を覆すことはできませんでした。

それでも北朝に対抗し続ける後醍醐天皇は、やがて病に倒れます。1339年の8月、後醍醐天皇は吉野に戻っていた義良親王に譲位すると、「朝敵討滅・京都奪回」を遺言にして死去しました。譲位された義良親王は村上天皇となり、死去した後醍醐天皇の大法要を行います。

父の遺言から倒幕を目指した後醍醐天皇、一時は島流しにされても見事倒幕を果たしますが、後の政治はうまくいきませんでした。倒幕の功労者と対立した挙句に2つ目の朝廷を開き、劣勢を覆せないまま病に倒れて死去したのです。それでも朝廷は2つのままでしたが、後醍醐天皇の死去で南朝の大義名分は薄れていきました

後醍醐天皇の人生は分かりやすい

「誰かの行うことに批判するものの、いざ自分がそれをやると上手くできずに今度は自分が批判される」……これは私達の行動にも言えることで、後醍醐天皇の人生はまさにこのとおりのものでした。
 
幕府に反発して倒幕を果たすものの建武の新政は上手くいかず、挙句倒幕の功労者と対立してしまったのです。こうやって考えると後醍醐天皇の人生は分かりやすく、順に辿っていけばそれほど難しくないでしょう。
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南北朝時代室町時代日本史歴史鎌倉時代

島流しにされても倒幕は果たす!「後醍醐天皇」を元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

今日は後醍醐天皇について勉強していきます。後醍醐天皇とは日本の第96代の天皇であり、時代としては鎌倉幕府の後期から南北朝時代の初期にかけての天皇です。

幕府が日本を統治する世において、天皇は当時の歴史上では一見目立たない存在かもしれない。しかし、鎌倉幕府を滅ぼしたのは後醍醐天皇であり、今回はそんな後醍醐天皇について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から後醍醐天皇をわかりやすくまとめた。

後醍醐天皇の誕生から即位まで

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31歳の若さで即位

後醍醐天皇が誕生したのは1288年の11月、父は大覚寺統の後宇多天皇、母は、内大臣花山院師継の養女・藤原忠子で、第二皇子として誕生します。大覚寺統というのは日本の皇室の系統で、当時はこれと持明院統の2つの系統があり、それぞれの系統は後継者を巡って対立する関係でした。

そこで、鎌倉幕府は両者の子孫の間でおよそ10年を目途に交互に皇位を継承、院政を行うように認めていたのです。 1308年、持明院統の花園天皇が即位すると後醍醐天皇は皇太子に立てられます。そして1318年、花園天皇の譲位を受けた後醍醐天皇は天皇へと即位、まだ31歳の若さでのことでした。

院政では天皇が皇位を譲ると上皇になり、上皇が出家すると法皇になります。後醍醐天皇が即位してからの3年間は法皇になった父が院政を行っていますが、これは「天皇が皇位を後継者に譲り、上皇となった者が政務を天皇に代わり直接行う」という院政の独自のシステムによるものです。

父の遺言を認めた幕府への不満

さて、天皇へとなった後醍醐天皇でしたが、後醍醐天皇が天皇である期間は「後醍醐天皇の兄・後二条天皇の遺児(親と死に別れた子)である皇太子の邦良親王が元服して皇位につくまでの間」とされていました。これは、後醍醐天皇の父の遺言に基づいてのことです。

後醍醐天皇にとってそれは面白くない事実であり、なぜなら自分の子孫に皇位継承がなされないわけですからね。この事実に不満と怒りを持った後醍醐天皇、そして不満と怒りの矛先は父の遺言状の内容を承諾して保証した幕府に対して向けられます。

1321年、後醍醐天皇の父が院政を終えるといよいよ後醍醐天皇の親政(天皇自身で政治を行うこと)が始まりました。とは言え、親政を行うことになっても後醍醐天皇の中から幕府に対する不満は消えず、鎌倉幕府を倒そうと密かに考えて計画していたのです

後醍醐天皇の2度の倒幕計画

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