幕末日本史明治明治維新歴史江戸時代

逃げの小五郎と言われた「木戸孝允(桂小五郎)」維新三傑の一人を歴女がわかりやすく解説

3-3、第二次長州征伐勃発

その後、長州藩の武備恭順や秘密貿易などを口実に、幕府軍は第2次長州征伐を強行。 第一次長州征伐と違い、薩長同盟を介した秘密貿易で武器や艦船を購入し、近代的な軍制改革が施されていた長州軍の士気は極めて高く、長州訪問中の坂本龍馬が薩摩に「長州軍は日本最強」と手紙を送ったほど。

高杉晋作艦の幕軍艦への夜襲攻撃、孝允の抜擢による村田蔵六改め大村益次郎の指揮による攻撃で、短期間で幕府軍を撃破、長州側が次々と勝利し、14代将軍家茂の死去で休戦に。

3-4、薩摩藩に京都での挙兵を要請される

慶応3年(1867)8月頃、薩摩藩から長州藩に京都での挙兵「合同大挙」の誘いが来たが、孝允は慎重な姿勢で山県狂介(有朋)、伊藤俊輔(博文)などを京都へ送り、様子を探らせたということ。

いよいよ倒幕のときが来たが、大きな賭けであったので。孝允は長崎へ行き坂本龍馬にも相談、さらに、イギリス外交官アーネスト・サトウにも会って、日本を取り巻くイギリスやフランスの真意などをたずねたそう。

尚、サトウは孝允とは初対面だが、孝允の噂は聞いていて「桂(孝允)は軍事的、政治的に最大の勇気と決意を心底に蔵していた人物だが、その態度はあくまで温和で、物柔らかであった」回想録に。しかし司馬遼太郎著の「花神」によれば、サトウは孝允に、「やるやるといってやらない態度を、西洋では老婆の理屈と言って、男子の最も恥じることです」(すっかり読まれている)と言われて悔しかったと龍馬に手紙で愚痴ったそう。

その後、大久保利通が山口に来て藩主の毛利親子に挨拶、話が決まり、長州の支藩の家老らが京都へ事情説明に行くと将軍慶喜に許可を得て(だまくらかして)、軍勢を送ることになったということ。そして大政奉還、鳥羽伏見の戦いが起こり、戊辰戦争へ。

3-5、孝允、京都で慶喜助命の運動を

慶応4年(1868年)1月12日、孝允は、藩命で備前岡山藩を官軍の味方につけるべく岡山へ、しかし神戸で備前岡山藩兵と上陸中のイギリス人水兵との間で銃撃戦となった神戸事件(備前事件とも)が勃発。英米兵が神戸で備前藩士の往来を抑止し、諸藩の戦艦を拘留しているという話が岡山に伝わり、憤慨した備前岡山藩士らが暴挙に出ようとする不穏な情況で、孝允はこれを憂慮して諸外国と交渉しようと、1月21日には京都に。

京都では軍勢を連れて上洛してきた鍋島直正に偶然会い、佐賀藩が新政府軍に加わるように交渉し承諾、薩長土肥となり、江戸へ攻めるにも軍勢も軍資金も乏しかった新政府軍で佐賀藩兵と最新兵器が大活躍することに。また、直正は孝允を気に入り、「経国(国家を治める)の材」と後に語ったそう。

孝允はまた、鳥羽伏見の戦いの後、江戸へ逃亡した慶喜の助命のために京都で薩摩や長州藩主に佐賀藩主、阿波藩主、肥後の細川家の代理の長岡護美に宴席を設けたりして密かに運動し、助命を取り付けたのですが、慶喜誅殺論だった西郷らの江戸城無血開城の方が劇的になり、孝允の尽力は全然知られていないなど、この頃は長州は薩摩に遠慮しつつ、しかし薩摩との不協和音と孝允の鬱もじわじわ進行中だったということ。

4-1、明治後の孝允

孝允は、明治新政府で右大臣の岩倉具視らから、政治的な見識の高さを買われて、ただ一人総裁局顧問専任になり、庶政全般の実質的な最終決定責任者に。また太政官制度の改革後には、外国事務掛、参与、参議、文部卿などを兼務。

明治元年(1868年)以来、五箇条の御誓文、封建的風習の廃止、版籍奉還と廃藩置県、人材優先主義、四民平等、憲法制定と三権分立の確立、二院制の確立、教育の充実、法治主義の確立などを提言し、実施にこぎつけるまでに。

4-2、孝允、岩倉使節団で欧米歴訪

明治4年(1871年)から明治6年(1873年)までの約2年間、孝允は岩倉使節団の副使として欧米を歴訪。帰国後は、以前より建言していた憲法、三権分立国家実施の必要性について政府内での理解を要求、また、国民教育の充実に務めたということ。

しかしその後は、大久保利通による独裁体制の政局に不満を抱くようになり、内政重視の立場として西郷の征韓論にも反対で、次第に政府中枢から遠ざかるように。また長年の心労で、鬱病などの心の病を患っていたよう。

4-3、西南戦争の最中に病気で倒れて亡くなる

明治10年(1877年)2月、西南戦争が勃発。以前から孝允は、西郷と旧態依然とした鹿児島県(旧薩摩藩)を批判していたのですが、すぐに西郷軍征討の任を希望。大久保利通も、西郷への鎮撫使として勅使の派遣を希望したが、伊藤博文が反対。その後、西郷軍征討は、有栖川宮熾仁親王が鹿児島県逆徒征討総督(総司令官)が任じられて、軍と明治天皇とともに、木戸も京都の本営へ。


しかし、孝允の病気が悪化、明治天皇がお見舞いされるも、5月26日、京都の別邸で駆けつけた大久保利通の手を握り締め、「西郷、いいかげんにせんか」という言葉を残して45歳で病没。

5-1、孝允の逸話

孝允は後年、「癸丑以来」(きちゅう)と、ペリー来航がきっかけで志士活動をした古株であることを誇りにしていたようですが、他にも色々な逸話があります。

\次のページで「5-2、背が高くイケメンだった」を解説!/

次のページを読む
1 2 3 4
Share: