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逃げの小五郎と言われた「木戸孝允(桂小五郎)」維新三傑の一人を歴女がわかりやすく解説

2-3、8月18日の政変勃発

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By mariemon – mariemon撮影 著作者自身による撮影, CC 表示 3.0, Link

文久3年(1863年)5月、孝允は藩命で江戸から京都に上り、久坂玄瑞たちと破約攘夷活動を。長州藩は三条実美らの公家を操って京都政界を牛耳る存在となっていたが、やり過ぎて孝明天皇の逆鱗に触れ、薩摩と会津が同盟、長州藩は文久3年(1863年)8月18日の政変で京都から追放、長州派の公卿たちも七卿落ちに。

翌年、孝允は再上洛して大黒屋で新堀松輔と名を変え、品川弥次郎や山田市之允らと潜伏、奉行所に知られそうになって長州へ帰国。長州では守旧派が攘夷派政権を非難し、周布政之助、毛利登人、前田孫右衛門らが罷免されたものの、孝允が帰藩したときには高杉晋作など攘夷派の反撃で守旧派が一掃されて再び尊攘派が政権を奪取。

帰藩後、孝允は直目付、奥番頭格という重職に任じられましたが、藩主のそばで殿中の諸事を統轄する仕事なので、京都での長州藩復権の工作が責務と考え、辞退、しかし藩主はこれを許さず。

2-4、孝允、池田屋事件で難を逃れる

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元治元年(1864年)6月の有名な池田屋事件では、孝允は会合のために池田屋へ一番早く入ったが、まだ同志が集まっていなかったために、近くの対馬藩邸へ友人大島友之允(とものじょう)を訪ねたことで、間一髪で池田屋事件での難を逃れたということ。が、孝允も池田屋にいたが、屋根伝いに必死で逃げた説もあるそう。本人も、明治後にこの池田屋事件での逃亡が最も危険だったと述懐。

この後も、神藤無念流の元塾頭なのに、新選組や見廻組の取り締まりをかいくぐって逃げ回り難を逃れたため、「逃げの小五郎」と仇名されたのは有名

2-5、禁門の変後、生死不明のお尋ね者に

禁門の変では、孝允は80人ほどの兵を率いて因州藩邸に。このとき孝允は、因州藩を説得し長州陣営に引き込もうと目論み、因州藩が警護に当たっていた猿が辻の有栖川宮邸に赴き河田景与と談判するも、河田は応じず。説得を断念した孝允は一人で孝明天皇が御所から避難するところを直訴に及ぼうと待ったがかなわず、燃える鷹司邸を背に一人戦って切り抜けたそう。

戦後、桂小五郎の鉢金が鷹司邸の焼け跡から見つかり、孝允本人は生死不明となり、お尋ね者に。そして幾松や対馬藩士大島友之允の助けを借りて潜伏生活に。
橋の下に潜伏する孝允に幾松がおにぎりを投げたというのは、このときの話ですね。

2-6、孝允、但馬(たじま)の出石(いずし)に潜伏

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孝允は、長州藩士の残党狩りを逃れるため対馬藩士大島友之允の紹介で、対馬藩邸の出入り業者で出石から行商に来ていた甚助と直蔵兄弟の手引きで出石へ行き、潜伏することに。出石町内の寺や城崎温泉にかくまわれたが危なくなったので、兄弟は自分の家に連れ戻り、妹のスミを孝允の女房にして家を一軒借り、「広江屋」という荒物屋を開かせ、孝允は廣江孝助と名のり竹細工や筵や米を売り、近所の子供たちと遊んだりと地域に溶け込むという、まるでドラマのような潜伏生活を8か月も続けたのでした。

潜伏7か月後に孝允は、甚助に手紙を託して口の堅い村田蔵六(大村益次郎)に居場所を知らせ、長州へ来ていた京での恋人幾松(のちの木戸松子)が、長州藩からの帰国要請の手紙を持って出石にお迎えに。
そして、孝允は長州へ帰国することに。

2-7、第一次長州征伐勃発

禁門の変で朝敵となって敗走した長州藩に対し、第一次長州征伐が行われましたが、長州正義派は藩政権の座を降り、幕府軍の参謀西郷隆盛の交渉もあって、不戦敗と三家老の自決、その他の幹部を処分に。

尚、国泰寺で行われた会談で、長州藩代表の吉川経幹に幕府軍の永井尚志が、桂小五郎と高杉晋作はどこにいるのかと尋ねたところ、吉川は、あのふたりは死にましたと返答。
ということで、両人は死んだものとしてこの後、桂小五郎は木戸貫治、または準一郎、高杉晋作は谷潜蔵と改名、別人になりすましたということ。

3-1、高杉晋作のクーデター後に帰国、藩の全権を把握

孝允潜伏中、長州藩では俗論派政権が正義派の面々を徹底的に粛清したが、高杉晋作率いる正義派軍部の軍事クーデター(功山寺挙兵)が成功、孝允の出番となり、帰国した孝允は長州藩の統率者として迎えられたということ。
後に伊藤博文がこの時の様子を「長州では、大旱(ひどいひでり)に雲霓(雨の前触れである雲や虹)を望むごときありさま」と述懐。

孝允は長州政務座に入り、幕府軍に対して武備恭順の方針を実現すべく軍制改革と藩政改革を決行。孝允の献策はすべて採用、国政方用談役(参謀)に任命、また政事堂の用人(顧問)も兼務、軍事、民事、外交を指導、長州藩存亡の危機に直面したこの時期に、孝允の指導力が長州藩で全面的に発揮されることに。

3-2、薩長同盟

慶応2年(1866年)1月22日、長州藩は土佐藩の中岡慎太郎、坂本龍馬らの斡旋で、薩摩藩と秘密裏に京都で薩長同盟を結びました。孝允は長州の代表として、薩摩の小松帯刀、大久保利通、西郷隆盛、黒田清隆らと薩摩や長州で会談、薩長同盟を不動のものにし、長州藩は薩長同盟のもとで薩摩名義でイギリスから武器や軍艦を購入したということ。

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