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逃げの小五郎と言われた「木戸孝允(桂小五郎)」維新三傑の一人を歴女がわかりやすく解説

よぉ、桜木健二だ、今回は木戸孝允を取り上げるぞ。

神道無念流の達人から長州志士たちの中心人物に、維新後は三傑と呼ばれたんだよな。

その辺のところを明治維新に目がないあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。明治維新に目がなく、薩摩長州幕府側に限らず誰にでも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、桂小五郎こと木戸孝允について5分でわかるようにまとめた。

1-1、木戸孝允は藩医の家の生まれ

孝允(たかよし)は、天保4年6月26日(1833年8月11日)、長門国萩城下呉服町(今の山口県萩市)に藩医和田昌景の長男として誕生。きょうだいは異母姉が2人と実妹が1人。

孝允は長男ですが子供の頃に病弱で長生きしないと思われて、長姉に婿養子文讓が入り和田家の跡継ぎに、そして長姉が亡くなった後、次姉がその婿養子文譲の後添えに。なので、天保11年(1840年)孝允は、和田家を継がず、7歳で向かいの桂家(家禄150石)の末期養子となって、長州藩の大組士の桂家を継ぎ桂家の養母亡き後、生家で実の父母と次姉と共に育ったということ。

始めは和田、元服して桂小五郎、その後、藩主のお声がかりで木戸姓に改姓、木戸貫治、準一郎を経て、明治後木戸孝允に。たかよしと読むところを「こういん」と呼ぶこともあるのは、昔の人は偉くなると音読みするものだったから。
ここでは便宜上、最初から孝允と呼びますね。

1-2、少年時代の孝允

 孝允は意外にも悪戯好きで、萩城下の松本川を行き来する舟を、船頭ごと転覆させる遊びに熱中。ある時、船縁に手をかけて水面から頭を出したら、船頭に櫂で頭を叩かれてしまったが、岸に上がり額から血を流しながらニコニコしていたとか、額に傷跡が残っていたという話。
10代になると、藩主毛利敬親による親試で2度ほど褒賞、長州藩の若き俊英として注目。 が、嘉永元年(1848年)15歳のとき、次姉と実母の相次いで病死で、悲しみの余り病床に臥し続けて周囲に出家すると言ったそう。

晩年の孝允はうつ病の気があったのですが、この頃からその傾向があったのかも。

1-3、孝允、吉田松陰と出会う

嘉永2年(1849年)、吉田松陰に山鹿流兵学を学んだのが最初の出会いで、後に松陰は「事をなすの才あり」「桂は、我の重んずるところなり」と評し、師弟関係であると同時に親友関係に。

松陰との関りがあったからこそ、長州藩の松下村塾閥の兄貴分となったのですね。

1-4、江戸へ私費留学し、神藤無念流に入門

弘化3年(1846年)、長州藩の剣術師範家の内藤作兵衛(柳生新陰流)の道場に入門。嘉永元年(1848年)元服して大組士桂小五郎になり、実父に「もとが武士でない(医家だから)以上、人一倍武士になるよう粉骨精進せねばならぬ」と言われて剣術の腕をあげ、嘉永5年(1852年)剣術修行名目の江戸留学を藩に許可され、長州に招かれた神道無念流斎藤新太郎が江戸へ帰るところを、他の5名の藩費留学生らに随行して江戸へ。

当時の江戸の3大道場のひとつ斎藤弥九郎の練兵館(神道無念流)に入門、斎藤新太郎の指南を受け、免許皆伝を得て入門1年で塾頭に。尚、孝允と同時期に免許皆伝を得た大村藩士渡辺昇は、孝允とともに練兵館の双璧といわれ、後に長州藩と坂本龍馬を長崎で結びつける人物に。孝允は、幕府講武所の総裁男谷信友(直心影流で勝海舟の従兄)の直弟子を破るなど、藩命で帰国するまでの5年間練兵館の塾頭を務め、その間に剣豪としての名声を高めて、大村藩などの江戸藩邸に招かれて剣術指導も。

尚、神道無念流は実践型の剣法だったが、むやみに剣を振るうことを戒めていたということなので、孝允は追われる身になっても剣の腕を披露せず逃げに回ったのですね。

1-5、孝允、ペリー来航で浦賀へ見聞に

嘉永7年(1854年)孝允が練兵館塾頭のときに、ペリー2度目の来航。孝允は、師匠の斎藤弥九郎に代官江川英龍を紹介してもらい実地見学にいき、江川の付き人として実際にペリー艦隊を見聞。また、吉田松陰がペリーの船に密航しようとしたとき、孝允は積極的に協力を申し出たが松陰に制止されたそう。

孝允は、その後、江川英龍から西洋兵学、小銃術、砲台築造術を、浦賀奉行支配組与力の中島三郎助から造船術を、幕府海防掛本多越中守の家来高崎伝蔵からは、スクネール式洋式帆船造船術を、長州藩士手塚律蔵から英語を学び、一通り必要な知識を身に付けたわけですね。

1-6、孝允、約2年半ぶりに長州へ帰り、村田蔵六と会談

孝允は、安政2年(1855年)4月、萩へ帰り、婚約者を訪ねたりしましたが、緒方洪庵塾の塾頭で当時は幕府講武所の教授となっていた長州出身の村田蔵六(大村益次郎)が訪ねて来たのですね。

孝允は、コミュニケーション障害で無愛想な蘭方医あがりの村田の才能を認め、藩政務役の長井雅楽や、来島又兵衛らにも、手紙で村田蔵六について知らせたそうで、このふたりの出会いは、この後、長州にとっても明治維新にとっても重要に。

1-7、孝允、最初の結婚をするもすぐに離縁

安政6年(1859年)2月、28歳の孝允は17歳の宍戸富子と結婚。しかし3か月後に富子は実家に帰ったきり戻らず。若い富子は孝允の家族たちと馴染まなかったよう。なんと孝允家には、義兄の和田文譲一家(3人の息子と、孝允とは血縁のない3人目の妻)、それに来原良蔵に嫁いだ孝允の妹治子とその子供たちが同居中。しかも文譲の3男で12歳になる勝三郎は孝允の養子。狭い家で歳の近い養子の世話をし、二人の小姑に仕えて家事をこなすのは相当な負担だったらしく、孝允も縁がなかったものと諦めたということ。

2-1、長州藩は孝允の開国攘夷路線に

安政6年(1859年)、孝允は江戸桜田藩邸の道場「有備館」用掛に任命され江戸へ。村田蔵六も手塚律蔵とともに3人扶持で藩の嘱託に。蔵六は孝允の斡旋で桜田邸の蘭書会読会に参加、軍制改革に向けて蔵六の存在が重要に。

文久2年(1862年)、藩政府中枢にいた孝允は、周布政之助、久坂玄瑞らと共に、松陰の航海雄略論を採用、長州藩大目付長井雅楽が唱えた航海遠略策を退けたため、長州藩要路の藩論は開国攘夷に。

2-2、四国艦隊下関砲撃事件勃発

文久3年(1863年)5月12日、孝允や高杉晋作たちの慎重論にもかかわらず、朝廷の攘夷要求を受けた幕府による攘夷決行の宣言どおり、久坂玄瑞率いる長州軍が下関で関門海峡を通過中の外国艦船に対し砲撃。

この報復のために、四国艦隊が下関を攻撃したが、急ぎイギリス留学から帰国した伊藤博文と井上馨が中止要請で和議になり、攘夷決行を命令した幕府が英米仏蘭4カ国に賠償金を支払うということで決着。

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