それじゃ、「パン・アメリカ会議」が開催される背景や、その理論的ベースとなったパン・アメリカ主義について、世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。
- パン・アメリカ主義とは何を解決する用語?
- 南北アメリカの異なる文化をまとめる概念
- 武力を伴わない支配のあり方を模索
- 「パン・アメリカ会議」の開催の歴史や協議内容
- パン・アメリカ会議の起源は1826年のパナマにさかのぼる
- ワシントンンD.C.の第1回大会から中核組織の設立を協議
- 20世紀初頭の外交を担ったパン・アメリカン・ユニオン
- 外交と通商を活発にすることで国際交流を図る
- 中南米の歴史や文化を理解するために事典などをつくる
- セオドア・ルーズベルト元大統領の中南米外遊
- 狩猟者・博物学者として中南米諸国をめぐる
- ラテンアメリカの地域調査を出版
- アメリカ大陸統合の象徴としてパナマ運河を建設
- 西海岸と東海岸をを結ぶ閘門式運河
- パナマ万国博覧会を通じて中南米諸国の帰属をアピール
- 米州機構の設立とそれに対する反発
- 1948年にコロンビアのボゴタで米州機構憲章が調印
- 米州機構(OAS)概要
- 合衆国の支配に反発するパン=アメリカ学生会議も同時期に開催
- 「パン・アメリカ会議」は合衆国と中南米諸国との関係を良くした?
この記事の目次
ライター/ひこすけ
文化系の授業を担当していた元大学教員。専門はアメリカ史・文化史。アメリカの歴史を見ていくとき「パン・アメリカ会議」を避けて通ることはできない。「パン・アメリカ会議」はアメリカの外交政策を考えるうえで欠かすことができない。そこで「パン・アメリカ会議」に関連する出来事をまとめてみた。
パン・アメリカ主義とは何を解決する用語?
パン・アメリカ主義とは、アメリカ合衆国と、中南米・カリブ海諸国をひとつの共同体としてまとめる概念。歴史・文化・言語が異なる国を、パン・アメリカという枠組みでくくる、合衆国の外交政策を正当化するために考えられました。
南北アメリカの異なる文化をまとめる概念
アメリカ大陸は、北アメリカ、南アメリカ、カリブ海域と、複数のエリアから構成されています。同じアメリカ大陸であるにもかかわらず、歴史的背景がまったく異なるという特徴が。その理由が、ヨーロッパ諸国による植民地支配の影響です。
北アメリカはイギリスからの植民者が中心であるため英語圏。それに対して南アメリカは、スペインやポルトガルの植民地でした。そのためその地に住む人々は英語を話すことができません。また、メキシコなど中部エリアになると支配権がころころ変わり、不安定な情勢でした。
武力を伴わない支配のあり方を模索
合衆国は南北アメリカの支配を安定させるために武力を伴わない統合を考えます。そこでパン・アメリカ主義を通じて提案したのが「友好」や「協力」そして「理解」を軸とする関係性をつくること。もちろん、それは合衆国の戦略によるものです。
そこで合衆国はパン・アメリカ会議を定期的に開催し、アメリカ大陸をまとめる機関をつくろうと試みました。さらに、歴史、文化、言語の違いを乗り越えるために、共同してイベントを開催したり、歴史調査を行ったりしました。また、国家間の行き来を活発にするために船便を増やすためのインフラ整備もすすめます。
「パン・アメリカ会議」の開催の歴史や協議内容
パン・アメリカ会議は1889年にワシントンD.C.で開催されて以来、定期的に行われています。その過程で、南北アメリカをまとめる組織が何度も立ち上げられました。
パン・アメリカ会議の起源は1826年のパナマにさかのぼる
パン・アメリカ会議の起源は、1826年1月22日にパナマで開催された首脳会議にまでさかのぼります。はじめての会議は、シモン・ボリバルによって招集されたもの。シモン・ボリバルは、南米大陸の5ヵ国をスペインから独立させた人物。さらに5ヵ国をまとめてコロンビア共和国を打ちたてようとした革命家でもあります。
この時点では合衆国の影響力は少なく、むしろボリバルの力が中心。チリ、アルゼンチン、ブラジルは、ボリバルの影響力を警戒して参加しませんでした。このとき「大コロンビア」が立ち上げられますが離脱国がでてきて崩壊します。
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