「パン・アメリカ会議」とは米州諸国が中心となり開催してきた首脳会議のこと。合衆国からの支配を脱するために紛争が勃発する中南米諸国に協力を呼びかけ、南北アメリカの統合を促進するための外国政策のひとつです。ラテンアメリカを支配するための内政干渉とも言える。

それじゃ、「パン・アメリカ会議」が開催される背景や、その理論的ベースとなったパン・アメリカ主義について、世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

文化系の授業を担当していた元大学教員。専門はアメリカ史・文化史。アメリカの歴史を見ていくとき「パン・アメリカ会議」を避けて通ることはできない。「パン・アメリカ会議」はアメリカの外交政策を考えるうえで欠かすことができない。そこで「パン・アメリカ会議」に関連する出来事をまとめてみた。

パン・アメリカ主義とは何を解決する用語?

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パン・アメリカ主義とは、アメリカ合衆国と、中南米・カリブ海諸国をひとつの共同体としてまとめる概念。歴史・文化・言語が異なる国を、パン・アメリカという枠組みでくくる、合衆国の外交政策を正当化するために考えられました。

南北アメリカの異なる文化をまとめる概念

アメリカ大陸は、北アメリカ、南アメリカ、カリブ海域と、複数のエリアから構成されています。同じアメリカ大陸であるにもかかわらず、歴史的背景がまったく異なるという特徴が。その理由が、ヨーロッパ諸国による植民地支配の影響です。

北アメリカはイギリスからの植民者が中心であるため英語圏。それに対して南アメリカは、スペインやポルトガルの植民地でした。そのためその地に住む人々は英語を話すことができません。また、メキシコなど中部エリアになると支配権がころころ変わり、不安定な情勢でした。

武力を伴わない支配のあり方を模索

合衆国は南北アメリカの支配を安定させるために武力を伴わない統合を考えます。そこでパン・アメリカ主義を通じて提案したのが「友好」や「協力」そして「理解」を軸とする関係性をつくること。もちろん、それは合衆国の戦略によるものです。

そこで合衆国はパン・アメリカ会議を定期的に開催し、アメリカ大陸をまとめる機関をつくろうと試みました。さらに、歴史、文化、言語の違いを乗り越えるために、共同してイベントを開催したり、歴史調査を行ったりしました。また、国家間の行き来を活発にするために船便を増やすためのインフラ整備もすすめます。

「パン・アメリカ会議」の開催の歴史や協議内容

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パン・アメリカ会議は1889年にワシントンD.C.で開催されて以来、定期的に行われています。その過程で、南北アメリカをまとめる組織が何度も立ち上げられました。

パン・アメリカ会議の起源は1826年のパナマにさかのぼる

パン・アメリカ会議の起源は、1826年1月22日にパナマで開催された首脳会議にまでさかのぼります。はじめての会議は、シモン・ボリバルによって招集されたもの。シモン・ボリバルは、南米大陸の5ヵ国をスペインから独立させた人物。さらに5ヵ国をまとめてコロンビア共和国を打ちたてようとした革命家でもあります。

この時点では合衆国の影響力は少なく、むしろボリバルの力が中心。チリ、アルゼンチン、ブラジルは、ボリバルの影響力を警戒して参加しませんでした。このとき「大コロンビア」が立ち上げられますが離脱国がでてきて崩壊します。

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ワシントンンD.C.の第1回大会から中核組織の設立を協議

第1回会議における中心人物がジェイムズ・G・ブレイン。合衆国の政治家です。このとき、合衆国主導のもと米州国際共和国連合が設立されました。そして1910年にパン・アメリカン・ユニオンに改組されます。さらに第9回会議では、ジョージ・C・マーシャルの主導で米州機構が立ち上げられました。

もともとのパン・アメリカ会議の起源は、中南米諸国をまとめるための話し合いでした。つまり合衆国の主導による動きではなかったということ。それが1889年の会議から合衆国の政治家の主導に切り替えられたというわけです。

20世紀初頭の外交を担ったパン・アメリカン・ユニオン

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By Unknown - Library of Congress, Public Domain, Link

1910年にブエノスアイレスにおけるパン・アメリカ会議でつくられたのがパン・アメリカン・ユニオン。組織の中心者のひとりがジョン・バレットという外交官でした。この組織を通じて、合衆国のパン・アメリカ主義を実現するための取り組みがすすめられました。

外交と通商を活発にすることで国際交流を図る

ジョン・バレットは文章を書く力に優れており、パン・アメリカ主義のあり方を解説する書籍をたくさん出版しました。そのなかでバレットが力説しているのが外交と通商を活発にすること。国家の主要人物の往来と、輸入・輸出品の往来が盛んになることで、南北アメリカは共同体としてひとつになれると考えました。

このようなバレットの理想を実現化したものがパナマ運河です。パナマ運河が完成したことで、南北アメリカ内はもちろんのこと、ヨーロッパ諸国やアジア諸国に行くことが簡単になりました。

中南米の歴史や文化を理解するために事典などをつくる

航路をひろげるだけではなく、全く異なる歴史、文化、言語をもつ中南米諸国を理解するために、パン・アメリカン・ユニオンはいろいろな調査も行っています。考古学、民俗学、博物学、言語学など、調査の分野は多岐にわたりました。

これらの調査の結果を、パン・アメリカン・ユニオンの機関誌に記事として掲載したり、事典としてまとめたりします。調査の背景には合衆国による支配を強めるという意図があることは確か。しかし、これらの調査は学術的にとても価値の高いものになりました。

セオドア・ルーズベルト元大統領の中南米外遊

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パン・アメリカ主義で重視されたのが国家の主要人物の往来。それを実際に実践したのがセオドア・ルーズベルト元大統領です。ルーズベルトはもともと探検好きで知られる人物。大統領選挙に落選したのちの1914年に南アメリカ探検を決行しました。その過程で各国の主要人物と面会する機会をもうけました。

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狩猟者・博物学者として中南米諸国をめぐる

南アメリカを周遊しているときの彼は政治の世界から離れたフリーの立場でした。そのためルーズベルトの肩書は政治家ではなく狩猟者・博物学者。探検チームには、まざまな分野の専門家が含まれ、本格的な調査が行われました。

同時にルーズベルトは南アメリカの主要人物を面会するなど、パン・アメリカ主義がすすめる他国の理解や交流を実践することに。ルーズベルトの南アメリカにおける動向はニュース映画や新聞記事などで紹介されました。彼自身が人気者であったこともあり、アメリカ国内で注目されていきます。

ラテンアメリカの地域調査を出版

博物学者としての顔を持つセオドア・ルーズベルトは、南アメリカの植物や動物の生態を調査した内容を本にまとめます。合衆国とは異なる歴史を歩んでいる中南米諸国。このような地域調査は、異なる文化の理解を重んじるパン・アメリカ主義に即したものでした。

セオドア・ルーズベルトの政策は「棍棒外交」。「棍棒を携え、穏やかに話す」という彼自身の言葉から生まれました。直接的ではないにせよ武力をちらつかせるイメージがあります。しかしルーズベルトの周遊は1930年代にとなえられた善隣外交の先駆けとなるものでした。

アメリカ大陸統合の象徴としてパナマ運河を建設

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パナマ地峡は自治権を持つコロンビア領にありました。その国防上の重要性に注目したアメリカ合衆国。パナマの革命家をとりこんで地峡の獲得を試みます。コロンビアからパナマ共和国を独立させ、地峡を合衆国の管轄下において運河の建設をはじめました。

西海岸と東海岸をを結ぶ閘門式運河

1914年に開通したパナマ運河。その規模は大きく、熱帯地方の熱病の蔓延などもあり、完成までに10年以上を要しました(フランス管轄時代をあわせると30年以上)。パナマ運河の全長は約80キロメートル。アメリカ大陸東海岸と西海岸を船で往来することを可能にしました。

運河が開通した1914年は第一次世界大戦がはじまったタイミング。そのため合衆国の意図とは反対に運河はあまり利用されませんでした。しかし、戦争がおわると運河の利用が活発になり、南アメリカに旅行に行くアメリカ人も増加します。

パナマ万国博覧会を通じて中南米諸国の帰属をアピール

1914年の開戦の時期にアメリカ合衆国は運河の開通を祝うためにパナマ万国博覧会を開催。パナマ運河の完成により南北アメリカがひとつになったことを大々的に世界に発信します。しかしヨーロッパは戦時中だったこともあり、世界的に注目を集めるには至りませんでした。

ヨーロッパからの参加が少なかったこともあり、合衆国は中南米諸国に参加を呼びかけます。ベネズエラやボリビアなどの古代の生活や自然を再現するブースが用意されました。博覧会を通じてパンアメリカ構想が実現したとPR。しかし、中南米諸国が同じように祝福ムードにあったかは疑問が残ります。

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米州機構の設立とそれに対する反発

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By U.S. Department of State from United States - Secretary Pompeo Delivers Remarks at the Organization of American States Headquarters, Public Domain, Link

米州機構はパン・アメリカン・ユニオンを前身とする組織。1951年に発足しました。同じ時期にアメリカとソ連は冷戦に突入。反共主義同盟をつくることで中南米諸国を支配していると批判されることも多々ありました。

1948年にコロンビアのボゴタで米州機構憲章が調印

1948年にコロンビアのボゴタで開催されたパン・アメリカ会議にて米州機構憲章が調印されます。それに基づいて1951年に米州機構が発足しました。事務局はワシントンD.C.。その目的はアメリカ大陸の国々の平和や安全保障を実現することです。

米州機構(OAS)概要

ア 米州地域の平和と安全の強化
イ 代表制民主主義の強化
ウ 加盟国間の紛争の防止及び平和的解決の確保
エ 侵略に対する共同行動
オ 加盟国間の政治的、法律的、経済的諸問題の解決
カ 共同的行動による加盟国間の経済的、社会的、文化的発展の促進
キ 極度の貧困の撲滅
ク 経済社会開発への資源分配のための通常兵器の制限の達成

外務省ホームページ

合衆国の支配に反発するパン=アメリカ学生会議も同時期に開催

1948年4月にコロンビアのボゴタで開かれたのがパン=アメリカ学生会議。アメリカ支配に抗議をするために、アルゼンチンのフアン・ペロン大統領が計画しました。この学生会議にはキューバの革命家であるカストロも出席しました。

1966年、ソ連とキューバが軍事同盟を結び、核ミサイル基地の建設をはじめていることが発覚。このキューバ危機をきっかけにキューバが米州機構から除名されます。必ずしもすべての中南米諸国が合衆国の支配下にないことが明らかになりました。

「パン・アメリカ会議」は合衆国と中南米諸国との関係を良くした?

パン・アメリカ主義そしてパン・アメリカ会議がアメリカ大陸の平和に果たした役割は賛否両論。合衆国のパン・アメリカ政策が、中南米諸国の情勢を不安定にして経済的な発展を妨げてきたとする意見もあります。実際、中南米のほとんどの国は政情が不安定で、たびたびクーデターが勃発。治安がいいとも言えません。一見すると平和的な組織に見えるパン・アメリカ会議。友好関係なのか、支配関係なのか、中南米諸国のニュースを見ながら考える必要がありそうです。

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アメリカの歴史世界史歴史独立後

「パン・アメリカ会議」が開催された背景や意図は何?元大学教員がわかりやすく解説

「パン・アメリカ会議」とは米州諸国が中心となり開催してきた首脳会議のこと。合衆国からの支配を脱するために紛争が勃発する中南米諸国に協力を呼びかけ、南北アメリカの統合を促進するための外国政策のひとつです。ラテンアメリカを支配するための内政干渉とも言える。

それじゃ、「パン・アメリカ会議」が開催される背景や、その理論的ベースとなったパン・アメリカ主義について、世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

文化系の授業を担当していた元大学教員。専門はアメリカ史・文化史。アメリカの歴史を見ていくとき「パン・アメリカ会議」を避けて通ることはできない。「パン・アメリカ会議」はアメリカの外交政策を考えるうえで欠かすことができない。そこで「パン・アメリカ会議」に関連する出来事をまとめてみた。

パン・アメリカ主義とは何を解決する用語?

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パン・アメリカ主義とは、アメリカ合衆国と、中南米・カリブ海諸国をひとつの共同体としてまとめる概念。歴史・文化・言語が異なる国を、パン・アメリカという枠組みでくくる、合衆国の外交政策を正当化するために考えられました。

南北アメリカの異なる文化をまとめる概念

アメリカ大陸は、北アメリカ、南アメリカ、カリブ海域と、複数のエリアから構成されています。同じアメリカ大陸であるにもかかわらず、歴史的背景がまったく異なるという特徴が。その理由が、ヨーロッパ諸国による植民地支配の影響です。

北アメリカはイギリスからの植民者が中心であるため英語圏。それに対して南アメリカは、スペインやポルトガルの植民地でした。そのためその地に住む人々は英語を話すことができません。また、メキシコなど中部エリアになると支配権がころころ変わり、不安定な情勢でした。

武力を伴わない支配のあり方を模索

合衆国は南北アメリカの支配を安定させるために武力を伴わない統合を考えます。そこでパン・アメリカ主義を通じて提案したのが「友好」や「協力」そして「理解」を軸とする関係性をつくること。もちろん、それは合衆国の戦略によるものです。

そこで合衆国はパン・アメリカ会議を定期的に開催し、アメリカ大陸をまとめる機関をつくろうと試みました。さらに、歴史、文化、言語の違いを乗り越えるために、共同してイベントを開催したり、歴史調査を行ったりしました。また、国家間の行き来を活発にするために船便を増やすためのインフラ整備もすすめます。

「パン・アメリカ会議」の開催の歴史や協議内容

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パン・アメリカ会議は1889年にワシントンD.C.で開催されて以来、定期的に行われています。その過程で、南北アメリカをまとめる組織が何度も立ち上げられました。

パン・アメリカ会議の起源は1826年のパナマにさかのぼる

パン・アメリカ会議の起源は、1826年1月22日にパナマで開催された首脳会議にまでさかのぼります。はじめての会議は、シモン・ボリバルによって招集されたもの。シモン・ボリバルは、南米大陸の5ヵ国をスペインから独立させた人物。さらに5ヵ国をまとめてコロンビア共和国を打ちたてようとした革命家でもあります。

この時点では合衆国の影響力は少なく、むしろボリバルの力が中心。チリ、アルゼンチン、ブラジルは、ボリバルの影響力を警戒して参加しませんでした。このとき「大コロンビア」が立ち上げられますが離脱国がでてきて崩壊します。

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