日本史歴史江戸時代

シーボルトが国外追放になった「シーボルト事件」について歴女がわかりやすく解説

4、事件関係者たち

4-1、高橋景保

天明5年(1785年)生まれの幕臣で、文化元年(1804年)父の跡を継いで江戸幕府天文方に就任し、天体観測、測量や天文関連書籍の翻訳などに従事。文化7年(1810年)には「新訂万国全図」を制作し、伊能忠敬の全国測量事業を監督、全面援助し、忠敬の死後には、忠敬の実測をもとに「大日本沿海輿地全図」を完成させました。 文化8年(1811年)には蛮書和解御用の主管となって「厚生新編」訳出の業務を開始。文化11年(1814年)書物奉行兼天文方筆頭に就任するも文政11年(1828年)のシーボルト事件に関与した疑いで10月10日に伝馬町牢屋敷に投獄されて、翌年2月16日に45歳で獄死。獄死後、遺体は塩漬けで保存されて翌年3月26日に改めて引き出され、罪状申し渡しの上斬首刑。公式記録では死因は斬罪に。

4-2、間宮林蔵

安永9年(1780年)、常陸国筑波郡上平柳村(後の茨城県つくばみらい市)で、農民の子として誕生。当時幕府が行っていた利根川東遷事業として関東三大堰のひとつ、岡堰の普請に加わった林蔵は、幕臣村上島之丞に地理や算術の才能を見込まれて、後に幕府の下役人、御庭番に。そして寛政11年(1799年)、国後場所(当時の範囲は国後島、択捉島、得撫島)に派遣され、伊能忠敬に測量技術を学び享和3年(1803年)には西蝦夷地の日本海岸及びオホーツク海岸を測量、ウルップ島までの地図を作製。 文化5年(1808年)、幕府の命で松田伝十郎に従って樺太を探索。松田と共に北樺太西岸ラッカまで至り、樺太が島であると推測し、「大日本国国境」の標柱を建てたそう。林蔵は、現地でアイヌの従者を雇い、再度樺太西岸を北上し、第一回の探索で到達した地よりも更に北に進んで黒竜江河口の対岸に位置する北樺太西岸ナニオーまで到達し、樺太が半島ではなく島である事を確認。「東韃地方紀行」として記録も残したということ。

間宮林蔵は樺太が島だと確認した人物として認められて、シーボルトは後に作成した日本地図で、樺太と大陸間の海峡最狭部を「マミアノセト」と命名。ただし海峡自体は「タタール海峡」と記載。

シーボルトの貪欲な好奇心、知識欲が招いた事件かも

シーボルト事件は、当時トップシークレットだった間宮海峡やロシアとの国境付近の北部の地図が問題になったことで、シーボルトスパイ説がクローズアップされがちですが、よく考えると押収したものはほとんどシーボルトに返されていること、それに地図はオランダに渡って現在も残っていること、それにオランダ政府に幕府から公式に抗議がなかったということで、素人目にも幕府としては国内で他に追求したい問題があったのではと思わざるを得ません。

とにかくシーボルトの日本への好奇心と知識欲からの収集癖は半端なく、ヨーロッパにおける日本学の権威になろうと貪欲に色々と集めまくったために起こった事件かもしれないですね。

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