
2-3、事件の発覚
シーボルトらは、文政9年(1826年)7月に江戸参府から出島に帰還。この旅行で1000点以上の植物標本を蒐集。そしてシーボルトは日本の北方の植物にも興味をもったので、間宮林蔵が蝦夷地で採取した押し葉標本を手に入れようとして、高橋景保経由で間宮宛に丁重な手紙と布地を送ったのですが、間宮は外国人との私的な贈答は国禁に触れると考えて、開封せずに上司である勘定奉行村垣淡路守定行に提出。
また、高橋景保と間宮林蔵の間には確執があったという話もあり、間宮がシーボルトから受け取った手紙の内容が発端となって、シーボルトと関わった多くの日本人と高橋景保が捕らえられて取調べを受けることになり、日本地図の返還を拒否したシーボルトも取り調べを受けて処分の決定まで軟禁状態に。
ということで当時、この事件は間宮林蔵の密告によるものと信じられていたということ。それに、景保の部下からも勘定方へ密告がされたようで、景保は普段から部下への作業指示が威圧的だったとか、部下の下川邊の娘を妾にしていたことなどで、部下たちから不満をもたれていたという話も。
2-4、関係者の処分
文政11年(1828年)高橋景保は捕らえられた後に獄死し死罪判決を受け、景保の子供らも遠島に。長崎通詞らも投獄、また景保の部下である下川邊は屋敷没収、主要国、街道筋での居住禁止の中追放となり、将軍御典医で眼科医の土生玄碩(はぶ げんせき)は、シーボルトに瞳孔を開く薬を教えてもらう代わりに禁制品の葵の紋服を贈ったのですが、この人も罷免、家禄没収の改易処分に。景保の部下で画工の岡田東輔は自宅軟禁中に自殺をはかって4日後に死亡。そして、シーボルトの指示で富士山の高さを測定した弟子の二宮敬作や、絵師の川原慶賀、長崎通詞の吉雄忠次郎、長崎屋主人の源右衛門などの関係者30数名も処罰されたということ。
しかしシーボルトに江戸参府旅行の道中で情報を与えたとされる門弟の高野長英、間宮林蔵の「黒龍江中之洲并天度」など地図や資料を提供した最上徳内は追及されず。これは長崎奉行高橋重賢がもと松前奉行で、最上と間宮が松前奉行当時の部下だったこと、彼らをシーボルトに紹介したのが自分自身だったためではないかということ。
2-5、シーボルトの取り調べと処分は

シーボルトは長崎から収集品を携えて、オランダ船コルネリス・ハウトマン号で帰国する予定でしたが、長崎での暴風雨(シーボルト台風)に遭遇、船は稲佐の海岸で座礁したので、船の修理のために出港が延期され滞留を余儀なくされたのですが、この時点ですでに幕府から長崎奉行に対し、シーボルトの身辺探査指示が出されていたということ。
シーボルトは帰国できず幕府のために出島に軟禁状態となり、訊問も行われました。シーボルトは科学的な目的のためだけに情報を求めたと主張し、捕まった多くの日本人の友人を助けようと、取調べに際して、人名は忘れたで押し通して彼らをかばい続けたうえに、自ら日本に帰化して残りの人生を日本に留まってもいいと申し出たため、奉行所の態度も軟化したという話。
文政12(1829年)シーボルトは国外追放、再渡航禁止の処分となって12月末に帰国の途に。
3-1、事件の新説
1996年に発表された、長崎市鳴滝のシーボルト記念館の研究報告書である「鳴滝紀要」第6号の梶輝行の論文「蘭船コルネリウス・ハウトマン号とシーボルト事件」によると、これまで通説だった、暴風雨で座礁した船中から、地図などのご禁制の品々が発見されたという説が、後日の創作であることが判明したということです。
シーボルトが乗るはずのコルネリウス・デ・ハウトマン号は、文政11年(1828年)10月に出航予定だったが、同年9月17日夜半から18日未明に西日本を襲った猛烈なシーボルト台風で座礁し、同年12月まで離礁できなかったそう。
従来の説と違って、座礁した船は、臨検もなくそのままだったということで、実際に船に積み込まれていたのは、船体の安定を保つためのバラスト用の銅500ピコルだけだったそう。また、シーボルトの著作「日本」の長男アレキサンダーによるシーボルトの略伝には、長崎のシーボルト宅捜査はあったが、積荷が捜索された記述はないということ。
3-2、事件の謎、真相は?
By 不明 – 照国神社所蔵, パブリック・ドメイン, Link
最近の、秦新二氏のシーボルト事件を扱ったノンフィクション「文政十一年のスパイ合戦」によれば、じつはシーボルト事件以前にも多くの地図が公然の秘密として海外に持ち出されていたということ。また、シーボルトの事件以前やそれ以後の行動からも、シーボルトがスパイ地図などの地理情報を盗もうとしたとは思えず、シーボルトの貪欲な知識欲から、純粋に科学的興味からの行動ではないかと。
そして幕府の取り調べの後、地図以外のほとんどの積み荷は日本の物品や動植物を含めてシーボルトに返還され、この事件について幕府からオランダに対して公式の抗議もなかったというのも、事件の真相がスパイ疑惑とは別にあるかもしれないということ。
秦氏の研究によると、事件の真のターゲットは、当時の代表的蘭癖大名で、薩摩藩8代藩主で隠居の島津重豪(しげひで)ではないかということ。重豪は、11代将軍家斉の岳父として、また息子や娘を多数の大名に縁組させて権勢大(おまけに80歳過ぎても超元気)、当時の薩摩藩は琉球を通じて中国との密貿易で巨額の利益を得て、さらにはオランダ密貿易をも狙っていたとして、幕府としては、島津重豪を失脚させるために地図を根拠にして捜索し、シーボルトの国外持ち出しの品から重豪に不利な証拠を探して失脚をはかった、またはけん制が目的だったのではという説。
当時は蘭学がブームで、蘭学に夢中になった蘭癖大名と言われる人たちもいて、オランダの名前を名乗る人もいたということですが、シーボルトの書いた「江戸参府紀行」(東洋文庫)を見ると、高橋景保のヨハネス・グロビウスを始め、中津候奥平昌高、中津侯家臣神谷源内、侍医桂川甫賢など、蘭名を付けてもらった人が多数存在しているし、また、シーボルトも派手に活躍していたせいか、当時のオランダ商館長の嫉妬からオランダ商館内部でも確執があったということなので、蘭学隆盛なあまりに、幕府による蘭学者たちへのけん制ということもあったかもしれないですね。
なので、獄死した景保たちには気の毒だけど、たしかにこの事件は大山鳴動して鼠一匹という感じではありますよね。
\次のページで「4、事件関係者たち」を解説!/