
シーボルトがオランダへ持って帰る荷物が問題だったのか、裏に何かあったのかな。
その辺のところを蘭学者が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。蘭学者や蘭方医にも興味津々。調べると色々裏があるようなシーボルト事件について、5分でわかるようにまとめた。
1-1、シーボルトとは
By 川原慶賀 – 近世の肖像画(Japanese Portraits of the Early Modern Period) 佐賀県立美術館 1991年, パブリック・ドメイン, Link
1796年生まれの実はドイツ人医師フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは、文政6年(1823年)、長崎出島のオランダ商館医として来日、鳴滝塾を開いて蘭学者らに西洋医学を教えるかたわら、植物や動物を含め、日本文化に関するあらゆる資料を収集してヨーロッパに持ち帰り、それをもとに日本学に関する著書をあらわし、日本研究や文化の紹介の第一人者になった人物。
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1-2、事件の起きた背景
江戸時代の日本は鎖国状態、長崎の出島だけでオランダと清国と交易をしていたのでしたが、江戸時代後期になるとロシア、イギリス、アメリカ、フランスなどの船が貿易を求めて来航するように。
そしてロシア船から強硬な開国要求をされたり、文化5年8月(1808年10月)に、イギリス海軍のフェートン号がオランダ船を装って長崎へ入港、オランダ船員を人質に取って食料と水を要求するなどの事件が起こり、日本の漁民と欧米の捕鯨船の乗組員が行った物々交換が発覚したことがきっかけになり、文政8年(1825年)に異国船打払令が。
異国船打払令は、外国船の来航を武力で防止して外国人と日本人との接触阻止を目的とした政策で、中国とオランダ以外の日本沿岸に来航する外国船の即時撃退を命じたということ。
シーボルトの来日時は、江戸幕府が対外政策に対して強硬姿勢だった時代だったんですね。
1-3、シーボルト事件の発端

文政11年(1828年)、シーボルトが5年間の任期を終えてオランダに帰国する直前、船が台風で難破したために、シーボルトの荷物の中に国外に持ち出すことが国禁であった日本地図、徳川将軍から拝領とみられる葵の紋の入った着物などが発見されて問題になったというのが通説。
じつは、間宮林蔵がシーボルトからの手紙を上司に提出したことで、色々調べられてシーボルトが禁制品の日本地図を手に入れたことが発覚し事件になったということ。
2-1、事件の内容
シーボルトは文政9年(1826年)、4年ごとに行われるオランダ商館長の江戸参府に同行して、江戸にほぼ1か月滞在。上は11代将軍家斉から、薩摩藩隠居島津重豪ら蘭癖大名と言われる人々や、蘭学者ら、多くの人々に会いましたが、そのうちのひとりでもある幕府天文方書物奉行の高橋景保が樺太東岸の資料を求めていたので、シーボルトはクルーゼンシュテルンの「世界周航記」などを贈り、その代わりに景保が禁制品扱いの伊能忠敬の「大日本沿海輿地全図」の縮図をシーボルトに贈ったことが問題に。
2-2、地図はわざわざ模写させてプレゼント
景保は書物奉行も兼ねていたので、シーボルトを江戸城の紅葉山文庫に案内「江戸御城内御住居之圖」などを見せたうえで、シーボルトが欲しがった地図を模写して提供したのですが、景保は、部下の下川邊林右衛門(しもこうべ)に指示して、伊能忠敬の小図の日本と蝦夷地両図を省略して新規に模写させたそう。
そしてシーボルトが長崎に戻った後にこれらの地図を贈って、そのお礼として書籍「世界周航記」を受け取ったということ。そのうえに間宮林蔵の「東韃紀行」、「北蝦夷圖説」、九州小倉や下関周辺の絵図なども貸したのですが、その後もシーボルトは景保に、択捉、得撫(ウルップ)島周辺の地図などを要求してきたので、景保は、また部下の下川邊の指示で川口源次の外4人で製作。
しかし景保の部下たちはシーボルトに地図を提供することに疑問をもっていたそう。尚、この地図は後に長崎で押収された後、現在は国立国会図書館所蔵。
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