1185年、鎌倉幕府が成立
一旦は武力衝突を回避した源頼朝と源義仲の両者でしたが、やはり戦う運命にありました。源義仲は京都に上洛しますが後白河法皇と対立、公家について無知な源義仲は政治力に欠けており、そのため朝廷からの評価は急落してしまいます。そこで、後白河法皇は源義仲に代わって源頼朝の上洛を希望して要請したのです。
源頼朝の上洛を怖れた源義仲は、これを阻止しようと源頼朝の討伐を計画しました。しかし、源義仲は源頼朝までたどり着くことはできず、源頼朝の弟・源範頼と末弟・源義経との戦いに敗れて戦死します。さらに源範頼と源義経は平重衡を捕え、源頼朝は平氏を追い詰めて四国へと兵を送りこみました。
そして1185年の壇ノ浦の戦いにて平氏は滅亡。この時点で源頼朝は政治を行っており、すなわち1185年が鎌倉幕府成立の年だとされています。
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鎌倉幕府成立は1185年?1192年?
さて、ここで1つ解説したいのが鎌倉幕府が1192年に成立したとされている説について。以前は1192年に鎌倉幕府が成立したと教科書でも解説されており、「いい国つくろう鎌倉幕府」はあまりにも有名な覚え方でした。
鎌倉幕府成立…それはすなわち源頼朝の政治機能が動き出すこと。そう考えると鎌倉幕府成立は1185年が妥当だと現在では解釈されています。なぜなら源頼朝の有名な政治政策である守護地頭は1185年に設置されているからです。
そのため現在では「1185年に鎌倉幕府が成立した」と解釈されています。では、なぜそれ以前は鎌倉幕府の成立が1192年と解釈されていたのでしょうか。
実は源頼朝は1192年に征夷大将軍に任命されており、これが大きな理由となっています。足利尊氏や徳川家康は征夷大将軍に任命されて幕府を開いており、そのため「征夷大将軍に任命される=幕府を開く」のイメージになるでしょう。そのイメージから鎌倉幕府成立は1192年と解釈されていたのです。
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武家政権の確立と朝廷との権力差
先述の通り1185年に鎌倉幕府が成立しましたが、鎌倉幕府とは源頼朝が設立した武家のトップが支配する政治…すなわち武家政権のことであり、設立当初は東の国のみを支配下に置いていました。しかしその勢力は広まっていき、やがては全国を支配下へと置くようになっていきます。
ちなみに、こうして歴史を振り返っているからこそ幕府と表現していますが、実際に幕府を幕府と呼ぶようになったのは江戸時代であり、当時は鎌倉幕府を「関東」や「鎌倉殿」と呼んでいました。それまでは、幕府とは将軍の陣所・御所を意味するものだったのです。
幕府は征夷大将軍が設立したものであり、征夷大将軍は臨時の官職…つまり天皇の部下になります。この認識は鎌倉幕府の行く末に深く関わってきますから、「朝廷>幕府」と「天皇>征夷大将軍」の権力の上下はここで覚えておきましょう。
御恩と奉公・守護と地頭
鎌倉幕府が力を入れたのは御恩と奉公による主従関係で、これが鎌倉幕府の最大の特徴です。
仕組みは次のとおり。まず、御家人となった武士に役職を与えました。そして、手柄・功績をあげた御家人に対しては領地を与えました。もちろんこれは褒美の意味合いがあり、「御恩」と呼びます。
一方、御恩を受けた御家人はそこに屋敷を建て、戦などに備えて鍛錬を行いました。これを「奉公」と呼びます。要するに、「御家人が幕府のために働くことに対して御恩を与え、御恩を受けた御家人は幕府のために奉公する」…このような封建体制を築いたのが鎌倉幕府の特徴ですね。
また、そんな御家人の中でも特に力の強い者は守護や地頭に任命されました。守護は文字どおり守ることを仕事にする役職で、罪を犯した者を逮捕するなど、いわば現代の警察のような存在です。一方、地頭は税を徴収する役人で、当時日本に存在していた荘園と呼ばれる領地からも年貢を徴収していました。
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わずが3代で途絶えた将軍家と幕府を引き継いだ北条氏
鎌倉幕府の将軍家はわずか3代で途絶えてしまいます。ただ、その後は執権の北条氏が鎌倉幕府を存続させており、鎌倉幕府自体は150年近く続きました。初代の将軍は言うまでもなく源頼朝で、その妻となるのが北条政子です。2代目の将軍は源頼家で、18歳の若さで家督を継ぐものの、その3年後に病気となって将軍を剥奪されました。
3代目の将軍は源実朝で、まだ12歳で将軍となったためその未熟さから批判も少なくなかったようです。それでも努力して右大臣の地位まで上がりましたが、その昇進のお祝いの時に暗殺されてしまいました。こうしてわずか3代で途絶えた将軍家、そしてその後の鎌倉幕府を引き継いだのが執権の北条氏です。
執権とは将軍の補佐をする役職で、3代目の将軍・源実朝が暗殺された以降に急激に権力を持つようになります。そんな執権の北条氏が亡き将軍に代わって政治を行い、これを執権政治と呼びました。源頼朝の妻・北条政子の父である北条時政、北条時政の息子である北条義時、この2人が鎌倉幕府の重要な役職に就いたのです。
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承久の乱・朝廷との権力の逆転
執権政治というこれまでの鎌倉幕府とは全く違った政治体制を生みだした北条氏。そんな北条氏を疎ましく思っていたのが朝廷の後鳥羽上皇でした。元々朝廷は幕府よりも上の立場。そのため、後鳥羽上皇は再び朝廷に政権を取り戻そうと幕府に戦いを仕掛けます。
しかしその結果朝廷は幕府に敗北、朝廷の武士や貴族はもちろん、後鳥羽上皇も島流しの刑となり、権力が上の朝廷は下の幕府に対して武力で敗北したのでした。これが1221年の承久の乱であり、朝廷と幕府の権力が逆転した瞬間です。幕府はその後も朝廷の監視を怠ることはなく、そのための機関として六波羅探題を設置します。
朝廷すら倒して御恩と奉公による主従関係も確立した鎌倉幕府、北条氏が政権を握ってからも政治は安定しており、それは一見万全な武力と政治体制で支配しているように思えるでしょう。そんな鎌倉幕府が滅びの辿るきっかけとなったのは、国内ではなく海外からの敵の襲来でした。
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御恩と奉公の関係が崩れた元寇
1274年、アジアを支配していたモンゴル帝国が日本に侵攻してきました。1度目は1274年、2度目は1281年のことでした。それぞれの侵攻を文永の役、弘安の役と呼び、これら2度の侵攻のことをあわせて元寇と呼びます。最新武器を手に日本を攻めるモンゴル帝国に日本は苦戦、それでも最後には見事敵を追い払い、鎌倉幕府は何とか勝利して日本を守りました。
しかし、ここで大きな問題が起こります。鎌倉幕府は御恩と奉公で主従関係を確立させていましたが、外国が攻めてきた元寇においては防衛戦争となるため御家人に領地が与えられず、政治の土台となっていた御恩と奉公の関係が崩れてしまったのです。
褒美が得られないことで幕府に対して不満を持ち始める御家人。その忠誠心は失われていき、こうして鎌倉幕府の内部崩壊が始まります。そこへきて反乱を計画していたのが後醍醐天皇。彼もまた六波羅探題設置後に、後鳥羽上皇同様に島流しにされた天皇でした。
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1333年、鎌倉幕府滅亡
後鳥羽上皇は島流しにされて力を失ったものの、後醍醐天皇は島流しにされた後も反乱の機会を伺っており、島を脱出した後は足利尊氏を味方に引き込むことに成功します。倒幕の兵を挙げた足利尊氏、彼の元には幕府に不満を持つ御家人も多く集まってきました。
こうして勢力を高めた倒幕派、足利尊氏は幕府が設置した六波羅探題を攻め落とし、それに呼応したかように幕府に反発していた新田貞義が鎌倉へと攻めこみます。そして1333年、鎌倉幕府は後醍醐天皇・足利尊氏を中心とする倒幕派の勢力によって滅ぼされてしまいました。
1185年から始まった鎌倉幕府は1333年に滅亡、その後政治の主導権を握ったのは朝廷の後醍醐天皇で、彼はこれまでと違って朝廷の天皇を中心とする政治(建武の新政)を掲げます。とは言え、その建武の新政も後に足利尊氏によって崩壊する運命にあったのです。
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似た名前が多いので区別する対処が必須
鎌倉幕府は難しいのは、何と言っても関係する人物の名前が紛らわしいことです。かの有名な源頼朝はともかく、征夷大将軍の源頼家、源実朝、さらに遡ると叔父の源義広など、似たような名前がズラリと出てきます。
同じ意味で後鳥羽上皇と後醍醐天皇も分かりづらく、特に彼らはどちらも島流しにされていますね。このため、鎌倉幕府を学ぶ上ではそこに関わる人物をはっきりと区別することが大切です。














