今回はシーボルトを取り上げるぞ。

西洋医学を日本にもたらしたことで有名ですね。

その辺のところを蘭学者が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。蘭学者や蘭方医にも興味津々。日本には西洋医学をもたらし、オランダ、ヨーロッパには日本学を広めたシーボルトについて、5分でわかるようにまとめた。

1-1、シーボルトは本当はドイツ人

シーボルト 川原慶賀筆.jpg
By 川原慶賀 - 近世の肖像画(Japanese Portraits of the Early Modern Period) 佐賀県立美術館 1991年, パブリック・ドメイン, Link

1796年2月17日神聖ローマ帝国の司教領ヴュルツブルク(現バイエルン州北西部)で誕生。父はヴュルツブルク大学医学部産婦人科教授のヨハン・ゲオルク・クリストフ・フォン・シーボルトで、母はマリア・アポロニア・ヨゼファ、2男1女があったが、次男のフィリップだけが成人。

本名は、フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・ジーボルト、ドイツ語で Philipp Franz Balthasar von Siebold
ドイツ語読みではジーボルトと濁り、貴族なので本来はフォン・ジーボルトと呼ぶべきなのですが、ここではシーボルトで統一。

1-2、シーボルト家は医学界の名門で、貴族階級

シーボルト家は祖父、父ともヴュルツブルク大学の医師で、医学界の名門。シーボルトという姓の前のフォン (von) は、貴族階級を意味していて、シーボルト家は、シーボルトが20歳になった1816年にバイエルン王国の貴族階級に登録されたということ。尚、シーボルト姓を名乗る親類の多くは中部ドイツの貴族階級で、学才に秀でていて医者や医学教授を多数輩出。

しかし父はシーボルトが1歳1か月のときに亡くなり、ハイディングスフェルに住む母方の叔父に育てられました。

1-3、シーボルトの子供時代

シーボルトが9歳のとき、母はヴュルツブルクからハイディングフェルトに転居、12歳からは地元の司祭の叔父の個人授業と、教会のラテン語学校、1810年ヴュルツブルクの高校に入学、そして1815年19歳のときに、ヴュルツブルク大学の哲学科に入学、その後、親類の意見に従って、家業の医学を学ぶことに。

シーボルトは在学中、解剖学教授のイグナーツ・デリンガー家に寄宿して、医学をはじめ、動物学、植物学、地理学なども学んだということ。
大学在学中のシーボルトは、名門出身の誇りを持っていたらしく、メナニア団という一種の同郷会で議長に選ばれて、乗馬を奨励をしたり、当時の風習もあってか、33回も決闘をして顔に傷も作ったのでした。来日時の江戸参府のときにも、商館長ヨハン・ウィレム・デ・スチューレルが学術調査に非協力的だと、彼に決闘を申し入れたほど、けっこう喧嘩っ早いところも。

1-4、シーボルト、植物学と出会う

シーボルトは、デリンガー教授宅で植物学者のネース・フォン・エーゼンベック教授と知り合ったことで、植物学に興味を。

ヴュルツベルク大学は、思弁的医学から臨床での正確な観察、経験主義の医学への移行を重視、シーボルトの家系の医学者たちは、この経験主義の医学の「シーボルト学会」の組織を作ったそう。そして植物学の恩師たちも医学の学位も持ち、そのうえで植物学に強い関心を持っていたということ。エーゼンベック教授は、コケ、菌類、ノギク属植物等について「植物学便覧」という著作を。

日本でも江戸時代には本草学が盛んでしたが、薬になる植物についてお医者さんが研究していたということでしょうか。

1-5、シーボルト、開業医に

シーボルトは、1822年にゼンケンベルク自然科学研究学所通信会員、王立レオポルド・カロリン自然研究者アカデミー会員、ヴェタラウ全博物学会正会員に任命されて、フランクフルトに新設される博物館用の標本見本の収集を依頼されたそう。
シーボルトは1820年に大学医学部を卒業後、国家試験を受けてハイディングスフェルトで開業医に。しかし名門の医家出身の貴族階級という誇りと自尊心が強かったので、町医師で終わるつもりはなかったんですね。

2-1、シーボルト、東洋学研究に

1822年、26歳のとき、シーボルトは東洋学研究を志してオランダのハーグへ赴き、国王ウィレム1世の侍医の斡旋で、7月にオランダ領東インド陸軍病院の外科少佐に。

尚、近年の調査で、バタヴィアの蘭印政庁総督に宛てたシーボルトの書簡には、「外科少佐及び調査任務付き」の署名と、江戸城本丸詳細図面や樺太測量図、武器、武具解説図など軍事的政治的資料も発見されたために、シーボルトはただの医師、学術研究者ではなかったのではないかと疑いが。

\次のページで「2-2、シーボルト、ジャカルタから日本の長崎へ」を解説!/

2-2、シーボルト、ジャカルタから日本の長崎へ

image by PIXTA / 12609544

1822年9月、シーボルトはロッテルダムから出航し、喜望峰を経由、1823年3月にインドネシアのバタヴィア近郊のヴェルテフレーデン(ジャカルタ市内)の第5砲兵連隊付軍医に配属され、東インド自然科学調査官も兼任することに。そしてジャカルタ滞在中、オランダ領東インド総督に日本研究の希望が認められ、6月末にバタヴィアを出発、8月に長崎の出島のオランダ商館医として到着。

2-3、シーボルト、鳴滝塾を開塾

Siebold Nagasaki.jpg
By 長崎の手彩色絵葉書 - www.ehagaki-nagasaki.com, パブリック・ドメイン, Link

シーボルトは出島内で開業の後、1824年には出島外に鳴滝塾を開設、西洋医学(蘭学)を、日本各地から集まった多くの医者や学者に講義。弟子たちは、高野長英、二宮敬作、伊東玄朴、小関三英、伊藤圭介などで、その後は蘭方医として有名に。
シーボルトは、弟子のひとりひとりにあった課題を出して、その課題に対する論文をオランダ語でまとめさせたのですが、これはオランダ語習得とともに、シーボルトも日本の知識を吸収できて一石二鳥の方法だったそう。

そしてシーボルトは日本文化の研究も行い、特別に長崎の町での診察も許されたが、治療にあたってシーボルトは一切のお金を受け取らなかったので、患者たちはお礼として日本の美術品や工芸品を贈ったということ。

また1825年に出島に植物園を作り、日本を退去するまでに1400種以上の植物を栽培。そして日本茶の種子をジャワに送り、ジャワでの茶の栽培が開始されたそう。

2-4、山のオランダ人とごまかす

シーボルトのオランダ語はドイツ語の訛りがあって、他のオランダ人のアクセントと違っていることが日本人通詞にもバレバレだったが、シーボルトは、「自分はオランダ山地出身の高地オランダ人なので訛りがある」と、オランダは干拓地で低地ばかりのはずなのに「山オランダ人」と偽った話は有名。
尚、出島に来た「オランダ人」のなかで、特に学問的に功績のあった、エンゲルベルト・ケンペル、カール・ツンベルグとシーボルトの3人は「出島三学者」と呼ばれていますが、全員オランダ人ではないというのは有名。
シーボルトは来日した年の秋には「日本博物誌」を脱稿。

2-5、シーボルト、江戸参府に

1826年4月、シーボルトは162回目のオランダ商館長(カピタン)の江戸参府に随行、道中を利用して日本の自然、地理や植生、気候や天文などを調査、江戸では11代将軍徳川家斉や世子家慶に謁見したほか、将軍御典医桂川甫賢、蘭学者宇田川榕庵、元薩摩藩主島津重豪と曽孫の斉彬、重豪息子の中津藩主奥平昌高らの蘭癖大名や、蝦夷探検家最上徳内、天文方高橋景保らと交友。

最上徳内から北方の地図が寄贈され、高橋景保はクルーゼンシュテルンによる最新の世界地図と交換に最新の日本地図を贈られたそう。旅行の様子は「江戸参府紀行」に詳しくまとめています。

2-6、シーボルト、国外追放処分に

シーボルトは6年間の任務を終了して1828年に帰国する際、先発した船が難破、積荷の多くが海中に流出して一部は日本の浜に流れ着き、その積荷の中の幕府禁制の葵の紋のついた着物や日本地図が問題になって、地図返却を要請されたがそれを拒否したため、出国停止処分を受け、国外追放処分に(シーボルト事件)。

当初の予定では帰国して3年後に再来日するつもりが、再来日は31年後に。

\次のページで「3-1、シーボルト、オランダに帰国して日本学研究者に 」を解説!/

シーボルト事件
文政11年(1828年)9月、オランダ商館付医師のシーボルトが帰国する直前、所持品に国外持ち出しが禁じられていた日本地図、葵の紋入りの着物などが見つかり、贈り主の幕府天文方で書物奉行の高橋景保ほか10数名が処分、景保は獄死(その後死罪判決、景保の子供らも遠島に)。シーボルトは文政12年(1829年)に国外追放の上、再渡航禁止の処分を受けた事件。

日本地図がそんなに重要なのかと思われるでしょうが、伊能忠敬の測量した地図はおそろしく精密であることと、当時、樺太は半島だと思われていたので、じつは島で間宮海峡があるというのがトップシークレットだったそうです。

3-1、シーボルト、オランダに帰国して日本学研究者に

シーボルトは1830年に帰国後、日本での研究成果を「日本(ニッポン)」「日本植物誌」「日本動物誌」などにまとめて、ヨーロッパに広く紹介。特に「日本(ニッポン)」は、現在でも学術的な評価が高いシーボルトの日本研究の集大成として知られているということ。

また、研究者として日本の植物の分類研究に貢献したうえに、シーボルトが持ち帰ったユリやアジサイ、ツバキなどは、ヨーロッパの園芸植物に多様化をもたらしブームの先駆けに。

3-2、シーボルト、日本の開国のために運動を

また、シーボルトは日本の開国を促すために、1844年にはオランダ国王ウィレム2世の親書を起草、1853年のペリー来日と目的は事前に察知して準遠征艦隊への参加を申し出たものの、シーボルト事件で追放されていたことを理由に拒否されたが、早急な軍事攻撃などを行わないよう要請する書簡を送ったということ。

1857年、ロシア皇帝ニコライ1世に招かれて書簡を起草するもクリミア戦争で日露交渉が中断(1852年、プチャーチンが幕府に送った皇帝親書はシーボルトの草稿)。

3-3、シーボルト、結婚

1845年、48歳になったシーボルトは、ドイツ貴族ではあるが爵位は持っていないヘレーネ・フォン・ガーゲルンと結婚し、3男2女をもうけました。

3-4、晩年のシーボルト、再来日

1854年に日本は開国、1858年に日蘭修好通商条約が締結してシーボルトに対する追放令が解除となったため、1859年、63歳のシーボルトはオランダ貿易会社顧問として再来日、1861年には対外交渉のための幕府顧問に
シーボルトは長男のアレクサンダーを伴ってきました。
シーボルトはプロイセン遠征隊、ロシア海軍極東遠征隊が長崎に来港したとき、プロイセン使節や司令官、全権公使らと会見し、司令官とはその後も密に連絡を取り、フランス公使やオランダ植民大臣らなどの要請に応じて、日本の情勢についての情報を提供したということ。また、江戸や横浜にも行き、博物収集や自然観察、風俗習慣や政治など日本関連のあらゆる記述も残しました。
そして父シーボルト帰国にあたりイギリス公使オールコックに頼み、息子アレクサンダーはイギリス公使館の通訳官として日本に残ることに。

3-5、多数の収集品とともに長崎から帰国

image by PIXTA / 17082267

 シーボルトは1862年5月、オランダに帰国し日本で集めた約2500点のコレクションをアムステルダムの産業振興会で展示。1864年にはオランダの官職も辞して故郷のヴュルツブルクに帰国。同年5月、パリに来ていた遣欧使節正使外国奉行の池田長発の対仏交渉に協力。ヴュルツブルクの高校やミュンヘンでコレクションを展示し「日本博物館」を開催。

1866年、再度日本訪問を計画するも、10月18日にミュンヘンで風邪をこじらせて敗血症を併発し70歳で死去。
私は美しき平和の国に向かって旅立つ」がシーボルトの最後の言葉

2005年ライデンに、シーボルトの旧宅をシーボルトのコレクション、日蘭関係史を展示する博物館としたシーボルトハウスが開館。また生物標本、付属の絵図は、当時ほとんど知られなかった日本の生物の重要な研究資料で、多くはライデン王立自然史博物館に。尚、アジサイの学名などに、日本妻滝の名前が使われているのは有名。

\次のページで「4-1、シーボルトの子供たち」を解説!/

4-1、シーボルトの子供たち

シーボルトには日本に残したイネ、ドイツに帰国後に生まれた3男2女の子供たちがいて、それぞれがシーボルトの医業、日本に関する仕事を立派に受け継ぎました。

4-2、楠本イネ

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By 不明 - http://bakumatsu.org/men/view/229, パブリック・ドメイン, Link

1827年(文政10年)楠本滝との間に誕生。シーボルトの帰国(国外追放)時はわずか3歳だったが、シーボルトが弟子たちにイネを託した結果、二宮敬作らがイネを蘭方医として教育し、産科医として開業するまでに。

シーボルトは再来日したとき、イネが立派に成長して産科医として開業していたのを見て涙を流して喜び、イネを後見してくれた二宮に深く感謝。二宮は、今度はシーボルトが同伴した12歳の息子アレクサンダーに日本語を教えたということ。

4-3、長男アレクサンダー

1846年、オランダのライデンで誕生。12歳のとき、父シーボルト再来日に同行。父の帰国後もアレクサンダーは1859年(安政6年)以来日本に滞在し、イギリス公使館の通弁官(通訳)を務めるようになり、アーネスト・サトウらの同僚に。

司馬遼太郎著の「花神」によると、アレクサンダーは異母姉のイネとも仲良く、産科医として勉強を続けるイネのために横浜に外国人の医師が来たら知らせるなど、手紙のやり取りもあり、長崎に行く外国人仲間に「姉をよろしく」と挨拶したりしたということです。

そして1867年(慶応3年)、徳川昭武らがパリ万国博覧会に派遣されたときに通訳として同行し、1869年、弟のハインリヒを日本に連れて帰ったということ。また1869年、オーストリアの通商使節来航時の助力に対してオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世より男爵位を。

アレクサンダーは陸奥宗光や井上馨などの明治元勲との付き合いも深く、後年は外務卿となった井上馨の特別秘書になるなど、日本政府の条約改正交渉で活躍したことなどは、あまり知られていないのが残念。「シーボルト最後の日本旅行」などの著書あり。

4-4、次男ハインリヒ(小シーボルト)

1852年プロイセン王国領ライン地方のボッパルトで誕生。父シーボルトの3度目の来日準備を手伝い、日本に関心を寄せ、父が亡くなった後、パリ万国博でヨーロッパ滞在中の兄アレクサンダーの帰国とともに初来日。

その後はオーストリア=ハンガリー帝国公使館で通訳、書記官を経て、後に代理公使を務めるようになり、後にその功績を称えられてオーストリア=ハンガリー国籍を得て、1891年に男爵位も。

日本が初の正式参加した1873年のウィーン万国博覧会では、政府の依頼で兄とともに出品を選定、通訳も務め、シーボルト兄弟が関わった日本館は連日の大盛況だったということ。

ハインリヒは岩本はなと結婚し1男1女をもうけ、外交官勤務の傍らで考古学調査を行い「考古説略」を発表、日本で初めて「考古学」という言葉を使用。考古学の分野で、ハワード・S・モース博士との、大森貝塚をはじめ、多くの遺跡の発掘、アイヌ民族研究などの競い合いは日本の考古学を飛躍的に発展させたということです。 兄と共に、父の大著「日本」の完成作業を行い、当時欧州で人気だったという欧州の王族による日本観光に随行して資料蒐集に関わり、後のジャポニズムブームの起点になったということ。

現在もヨーロッパのあちこちに点在するシーボルト・コレクションは数万点にも及び、その約半数は小シーボルトこと、ハインリヒの蒐集したものだそう。

またハインリヒは異母姉のイネと一時同居していたということで、イネとアレクサンダー、ハインリヒの交流にはお互いの尊敬や愛を感じて微笑ましい気持ちになります。

4-5、日独のシーボルト子孫による研究会

ヴュルツブルクには、次女ヘレーネの末裔であるブランデンシュタイン・コンスタンティン・ツェッペリン(次女の子孫がツェッペリン伯爵家と結婚)が会長を務めるドイツ・シーボルト協会が存在。

日本には、次男ハインリヒの末裔の関口忠志や国内のシーボルト研究家が集まり、日本シーボルト協会設立準備委員会が2008年に発足、この2者がシーボルト末裔の代表的存在として各地の研究会に参加しているということ。

シーボルトの知識欲は、日本とヨーロッパ、双方へ多大な影響を与えた

シーボルトが出島に赴任したのはわずか6年間でしたが、多くの蘭学者たちを育てて当時最先端の西洋医学を教えました。それだけではなく、がむしゃらなまでに日本に関するありとあらゆる物を採集してヨーロッパに持ち帰り、著書にまとめて「日本学」の権威となり、日本に関する研究の第一人者となったのでした。

その結果、日本ではシーボルトの弟子たちが明治維新に至る近代化へ大きな影響を与え、ヨーロッパではジャポニズムが起こり日本学の研究もライデン大学で始まったりと、シーボルトが日本とヨーロッパ双方にもたらしたことへの功績は多大なものであることは間違いありません。スパイじゃないかという疑いもあるけど、シーボルトの知識欲と収集癖が並外れたものだったのではと思うこの頃であります。

" /> オランダ医学・日本文化を広めたドイツ人医師「シーボルト」を歴女がわかりやすく解説 – Study-Z
日本史歴史江戸時代

オランダ医学・日本文化を広めたドイツ人医師「シーボルト」を歴女がわかりやすく解説

今回はシーボルトを取り上げるぞ。

西洋医学を日本にもたらしたことで有名ですね。

その辺のところを蘭学者が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。蘭学者や蘭方医にも興味津々。日本には西洋医学をもたらし、オランダ、ヨーロッパには日本学を広めたシーボルトについて、5分でわかるようにまとめた。

1-1、シーボルトは本当はドイツ人

シーボルト 川原慶賀筆.jpg
By 川原慶賀 – 近世の肖像画(Japanese Portraits of the Early Modern Period) 佐賀県立美術館 1991年, パブリック・ドメイン, Link

1796年2月17日神聖ローマ帝国の司教領ヴュルツブルク(現バイエルン州北西部)で誕生。父はヴュルツブルク大学医学部産婦人科教授のヨハン・ゲオルク・クリストフ・フォン・シーボルトで、母はマリア・アポロニア・ヨゼファ、2男1女があったが、次男のフィリップだけが成人。

本名は、フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・ジーボルト、ドイツ語で Philipp Franz Balthasar von Siebold
ドイツ語読みではジーボルトと濁り、貴族なので本来はフォン・ジーボルトと呼ぶべきなのですが、ここではシーボルトで統一。

1-2、シーボルト家は医学界の名門で、貴族階級

シーボルト家は祖父、父ともヴュルツブルク大学の医師で、医学界の名門。シーボルトという姓の前のフォン (von) は、貴族階級を意味していて、シーボルト家は、シーボルトが20歳になった1816年にバイエルン王国の貴族階級に登録されたということ。尚、シーボルト姓を名乗る親類の多くは中部ドイツの貴族階級で、学才に秀でていて医者や医学教授を多数輩出。

しかし父はシーボルトが1歳1か月のときに亡くなり、ハイディングスフェルに住む母方の叔父に育てられました。

1-3、シーボルトの子供時代

シーボルトが9歳のとき、母はヴュルツブルクからハイディングフェルトに転居、12歳からは地元の司祭の叔父の個人授業と、教会のラテン語学校、1810年ヴュルツブルクの高校に入学、そして1815年19歳のときに、ヴュルツブルク大学の哲学科に入学、その後、親類の意見に従って、家業の医学を学ぶことに。

シーボルトは在学中、解剖学教授のイグナーツ・デリンガー家に寄宿して、医学をはじめ、動物学、植物学、地理学なども学んだということ。
大学在学中のシーボルトは、名門出身の誇りを持っていたらしく、メナニア団という一種の同郷会で議長に選ばれて、乗馬を奨励をしたり、当時の風習もあってか、33回も決闘をして顔に傷も作ったのでした。来日時の江戸参府のときにも、商館長ヨハン・ウィレム・デ・スチューレルが学術調査に非協力的だと、彼に決闘を申し入れたほど、けっこう喧嘩っ早いところも。

1-4、シーボルト、植物学と出会う

シーボルトは、デリンガー教授宅で植物学者のネース・フォン・エーゼンベック教授と知り合ったことで、植物学に興味を。

ヴュルツベルク大学は、思弁的医学から臨床での正確な観察、経験主義の医学への移行を重視、シーボルトの家系の医学者たちは、この経験主義の医学の「シーボルト学会」の組織を作ったそう。そして植物学の恩師たちも医学の学位も持ち、そのうえで植物学に強い関心を持っていたということ。エーゼンベック教授は、コケ、菌類、ノギク属植物等について「植物学便覧」という著作を。

日本でも江戸時代には本草学が盛んでしたが、薬になる植物についてお医者さんが研究していたということでしょうか。

1-5、シーボルト、開業医に

シーボルトは、1822年にゼンケンベルク自然科学研究学所通信会員、王立レオポルド・カロリン自然研究者アカデミー会員、ヴェタラウ全博物学会正会員に任命されて、フランクフルトに新設される博物館用の標本見本の収集を依頼されたそう。
シーボルトは1820年に大学医学部を卒業後、国家試験を受けてハイディングスフェルトで開業医に。しかし名門の医家出身の貴族階級という誇りと自尊心が強かったので、町医師で終わるつもりはなかったんですね。

2-1、シーボルト、東洋学研究に

1822年、26歳のとき、シーボルトは東洋学研究を志してオランダのハーグへ赴き、国王ウィレム1世の侍医の斡旋で、7月にオランダ領東インド陸軍病院の外科少佐に。

尚、近年の調査で、バタヴィアの蘭印政庁総督に宛てたシーボルトの書簡には、「外科少佐及び調査任務付き」の署名と、江戸城本丸詳細図面や樺太測量図、武器、武具解説図など軍事的政治的資料も発見されたために、シーボルトはただの医師、学術研究者ではなかったのではないかと疑いが。

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