
西洋医学を日本にもたらしたことで有名ですね。
その辺のところを蘭学者が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。
- 1-1、シーボルトは本当はドイツ人
- 1-2、シーボルト家は医学界の名門で、貴族階級
- 1-3、シーボルトの子供時代
- 1-4、シーボルト、植物学と出会う
- 1-5、シーボルト、開業医に
- 2-1、シーボルト、東洋学研究に
- 2-2、シーボルト、ジャカルタから日本の長崎へ
- 2-3、シーボルト、鳴滝塾を開塾
- 2-4、山のオランダ人とごまかす
- 2-5、シーボルト、江戸参府に
- 2-6、シーボルト、国外追放処分に
- 3-1、シーボルト、オランダに帰国して日本学研究者に
- 3-2、シーボルト、日本の開国のために運動を
- 3-3、シーボルト、結婚
- 3-4、晩年のシーボルト、再来日
- 3-5、多数の収集品とともに長崎から帰国
- 4-1、シーボルトの子供たち
- 4-2、楠本イネ
- 4-3、長男アレクサンダー
- 4-4、次男ハインリヒ(小シーボルト)
- 4-5、日独のシーボルト子孫による研究会
- シーボルトの知識欲は、日本とヨーロッパ、双方へ多大な影響を与えた
この記事の目次

ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。蘭学者や蘭方医にも興味津々。日本には西洋医学をもたらし、オランダ、ヨーロッパには日本学を広めたシーボルトについて、5分でわかるようにまとめた。
1-1、シーボルトは本当はドイツ人
By 川原慶賀 – 近世の肖像画(Japanese Portraits of the Early Modern Period) 佐賀県立美術館 1991年, パブリック・ドメイン, Link
1796年2月17日神聖ローマ帝国の司教領ヴュルツブルク(現バイエルン州北西部)で誕生。父はヴュルツブルク大学医学部産婦人科教授のヨハン・ゲオルク・クリストフ・フォン・シーボルトで、母はマリア・アポロニア・ヨゼファ、2男1女があったが、次男のフィリップだけが成人。
本名は、フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・ジーボルト、ドイツ語で Philipp Franz Balthasar von Siebold
ドイツ語読みではジーボルトと濁り、貴族なので本来はフォン・ジーボルトと呼ぶべきなのですが、ここではシーボルトで統一。
1-2、シーボルト家は医学界の名門で、貴族階級
シーボルト家は祖父、父ともヴュルツブルク大学の医師で、医学界の名門。シーボルトという姓の前のフォン (von) は、貴族階級を意味していて、シーボルト家は、シーボルトが20歳になった1816年にバイエルン王国の貴族階級に登録されたということ。尚、シーボルト姓を名乗る親類の多くは中部ドイツの貴族階級で、学才に秀でていて医者や医学教授を多数輩出。
しかし父はシーボルトが1歳1か月のときに亡くなり、ハイディングスフェルに住む母方の叔父に育てられました。
1-3、シーボルトの子供時代
シーボルトが9歳のとき、母はヴュルツブルクからハイディングフェルトに転居、12歳からは地元の司祭の叔父の個人授業と、教会のラテン語学校、1810年ヴュルツブルクの高校に入学、そして1815年19歳のときに、ヴュルツブルク大学の哲学科に入学、その後、親類の意見に従って、家業の医学を学ぶことに。
シーボルトは在学中、解剖学教授のイグナーツ・デリンガー家に寄宿して、医学をはじめ、動物学、植物学、地理学なども学んだということ。
大学在学中のシーボルトは、名門出身の誇りを持っていたらしく、メナニア団という一種の同郷会で議長に選ばれて、乗馬を奨励をしたり、当時の風習もあってか、33回も決闘をして顔に傷も作ったのでした。来日時の江戸参府のときにも、商館長ヨハン・ウィレム・デ・スチューレルが学術調査に非協力的だと、彼に決闘を申し入れたほど、けっこう喧嘩っ早いところも。
1-4、シーボルト、植物学と出会う
シーボルトは、デリンガー教授宅で植物学者のネース・フォン・エーゼンベック教授と知り合ったことで、植物学に興味を。
ヴュルツベルク大学は、思弁的医学から臨床での正確な観察、経験主義の医学への移行を重視、シーボルトの家系の医学者たちは、この経験主義の医学の「シーボルト学会」の組織を作ったそう。そして植物学の恩師たちも医学の学位も持ち、そのうえで植物学に強い関心を持っていたということ。エーゼンベック教授は、コケ、菌類、ノギク属植物等について「植物学便覧」という著作を。
日本でも江戸時代には本草学が盛んでしたが、薬になる植物についてお医者さんが研究していたということでしょうか。
1-5、シーボルト、開業医に
シーボルトは、1822年にゼンケンベルク自然科学研究学所通信会員、王立レオポルド・カロリン自然研究者アカデミー会員、ヴェタラウ全博物学会正会員に任命されて、フランクフルトに新設される博物館用の標本見本の収集を依頼されたそう。
シーボルトは1820年に大学医学部を卒業後、国家試験を受けてハイディングスフェルトで開業医に。しかし名門の医家出身の貴族階級という誇りと自尊心が強かったので、町医師で終わるつもりはなかったんですね。
2-1、シーボルト、東洋学研究に
1822年、26歳のとき、シーボルトは東洋学研究を志してオランダのハーグへ赴き、国王ウィレム1世の侍医の斡旋で、7月にオランダ領東インド陸軍病院の外科少佐に。
尚、近年の調査で、バタヴィアの蘭印政庁総督に宛てたシーボルトの書簡には、「外科少佐及び調査任務付き」の署名と、江戸城本丸詳細図面や樺太測量図、武器、武具解説図など軍事的政治的資料も発見されたために、シーボルトはただの医師、学術研究者ではなかったのではないかと疑いが。
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