
魏の皇帝『文帝』曹丕に仕えるも、わずか6年で病没してしまう

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220年、曹操が病没すると、そのあとを継いだ「曹丕」(そうひ)に仕えることになります。曹丕はその年に漢王朝の皇帝「献帝」に禅譲を受けたため、魏王朝を開き『魏帝』となっていました。
曹操が司馬懿を7年もかけて引き抜いたのにはその有能さと共に、その反逆心を見抜いていたからと考えられるのです。敵になる恐ろしさよりも味方に、でしょうね。曹操は、司馬懿には『狼顧の相』(ろうこのそう)があるといっていました。肩を動かさず首を真後ろに向けることの出来ることをそう呼んでいたのですが、別の意味もありました。
『狼顧』とは、狼が背後を顧みるが如く用心深い、という意味も含まれており、用心深く表層は穏やかな様子から、曹操は司馬懿を「大志と野望を持つ男」と称していました。故に、息子である曹丕に司馬懿には注意するよう伝えていたといいます。
曹丕は、そんな曹操の言葉を覚えてはいたのでしょう。しかし「一臣に終わる男ではない」と称しながら重用したそうです。曹丕が寵愛した人物として「陳羣」(ちんぐん)「呉質」(ごしつ)「朱鑠」(しゅしゃく)、そして司馬懿の名前があります。彼らを「曹丕の四友」といいました。
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魏の第2代皇帝『明帝』に仕え、武将として活躍する
226年、曹丕も病没すると、後を継いだ「曹叡」(そうえい・明帝)の補佐も行うのです。
この曹叡は、母が暗殺されたことで長らく宮廷から遠ざけられていました。そのため、臣下たちとはほとんど面識がなかったのです。それを案じた父・曹丕は司馬懿らに曹叡を補佐するよう託します。こうして曹叡は、父の代からの重臣であった司馬懿や陳羣らを引き続き重用し、政事にあたらせたのです。
同年、『襄陽』(じょうよう)に侵攻した呉の武将「諸葛瑾」(しょかつきん)「張覇」(ちょうは)らと対峙し、張覇を打ち取ることに成功します。この功により、司馬懿は驃騎将軍に昇進しました。
228年には、蜀と内通していた「孟達」(もうたつ)が謀反を起こしたのです。司馬懿が赴任していた場所から孟達のいる場所までは、通常の行軍であれば一ヶ月はかかる道程でした。そこで司馬懿は、孟達にそれは丁寧な手紙を書き、本格的な侵攻を迷わせました。そして昼夜兼行の進軍を行い、たった8日でたどり着いたのです。この司馬懿軍の動きに、同僚や配下たちは動揺し、次々と寝返りました。そうして孟達を斬首することに成功したのです。この功により、230年、司馬懿は大将軍に昇進しました。
名軍師・諸葛亮の「北伐」に対する総司令として赴任する

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231年、それまで蜀からの魏への侵攻戦、通称『北伐』に対抗する総司令であった「曹真」が死んだため、司馬懿がその後任となりました。武将として「張郃」(ちょうこう)、「郭淮」(かくわい)らを従え、「諸葛亮」(しょかつりょう)と対戦することとなるのです。
攻防は一進一退であり、司馬懿は局地的には諸葛亮に敗れてしまいましたが、蜀本隊は食料不足により撤退することとなりました。司馬懿は張郃を追撃部隊として派遣しますが、返り討ちに合い弓矢で射殺されてしまうのです。勝利を収めたものの、両軍ともに被害の大きい戦でした。
234年、諸葛亮の北伐は5度に上っていました。これがかの有名な『五丈原の戦い』です。司馬懿はこの戦いでも、遠征を行っている蜀を見越し防衛に徹する持久戦を展開しました。しかし、諸葛亮も兵士による『軍屯』(ぐんとん・戦場付近に農地を置く)ことによって対応策を用意していたのです。
「諸葛亮」と戦った『五丈原の戦い』
これにより、五丈原の戦いは長期戦になると思われたのですが、その陣中でなんと諸葛亮が病死してしまいました。同時に、諸葛亮最後の策が展開されていたのです。
諸葛亮は、自身の死期を悟っており「私が死んだ時は十分に弔い、全軍撤退するように、すると、魏軍は間違いなく追撃をしてくる、その時に反撃の姿勢を見せるのだ、そしてその動きを見た司馬懿は、私の死そのものが策だと考えるだろう、反撃の様子を少しでも見たらその先には策があると思い魏軍は撤退するはずだ、その時に蜀は全軍を撤退させるのだ」と残しました。
この時の、諸葛亮と司馬懿の様子を謳い『死せる孔明、生ける仲達を走らす』という故事が残ったのです。
司馬懿にとっては唯一と言っていいほどの大敗でした。司馬懿は「諸葛亮は天下の奇才だ」と漏らしたり「生者を相手にすることは出来るが、死者を相手にするのは苦手だ」と語ったといいます。
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