魏王であった曹操の時代から、その後継曹丕にも仕え、数々の戦功を立てたことから、曹丕にとても重用されたんです。曹丕の死後は自らの息子らとともに父子揃って謀反を起こし、魏王朝滅亡の原因を作ってしまうんです。長くに渡って仕えてきた曹一族に対して、司馬懿は何故謀反を起こしたのか。その一生をわかりやすくまとめておいた。
年間100冊以上を読む読書家で、中国史マニアのライターKanaと一緒に解説していきます。
ライター/Kana
年間100冊以上を読破する読書家。現在はコーチ業に就いており、わかりやすい説明が得意。中国史マニアでもあり、今回は「司馬懿」について、わかりやすくまとめた。
「司馬八達」と呼ばれた幼少期
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「司馬懿」(しばい)、字は「仲達」(ちゅうたつ)といいます。179年に生まれ、場所は『河内郡』(かだいぐん)『温県』(おんけん)というところです。
司馬一族は、小説『項羽と劉邦』でお馴染みの、楚漢戦争時代の殷王『司馬卬』(しばごう)の子孫にあたります。代々『尚書』(しょうしょ)などの皇帝側近の高官を輩出した名門の家柄で、司馬懿自身、幼い頃から厳格な家風の下に育ったそうです。
司馬家には8人の男子がおり、司馬懿はその次男でした。その男子の字には全て「達」がついており、聡明な者ぞろいということから『8人の達人』の意味も含めて、『司馬八達』と呼ばれました。
司馬懿は幼い頃から聡明で、優秀な人物が揃っていた司馬八達の中でも特に優れた者として扱われていたのです。『三国志正史』によると、酷く苛烈な性格であったが、感情を隠すのが得意で、内心に激しい怒りを抱いている時も表層では穏やかに振る舞うことが出来たといいます。
魏王・曹操へ仕えることになる
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201年、司馬懿は当時『司空』(しくう)という地位についていた『曹操』(そうそう)に取り立てられることとなります。
しかし、司馬懿は「漢王朝の衰退は目に見えている、そんなものに仕えている曹操に従う気などない」と仮病を使い、辞退したのです。これを怪しく思った司馬懿は、資格を放ち「もし驚いて飛び上がるようであれば、本物の病気ではないため、斬れ」と命じましたが、司馬懿は床に臥せたまま動かなかったために、斬られることはありませんでした。
その数年後、曹操は丞相となり、配下に捕縛してでも連れてくるよう命じると、そのあまりの強硬手段に司馬懿は、とうとう出士することになったのです。
この時、曹操は初めて司馬懿と接触してから、7年の月日が経過していました。7年間をかけてでも、司馬懿を獲得したかった、それほどまでに有能な人物だと、曹操は見抜いていたのでしょうね。
曹操への仕官時代
208年6月、司馬懿は正式に曹操に仕官します。そしてその年の10月に『赤壁の戦い』が起こりました。初めての司馬懿の出番、と思いきや、その当時の司馬懿はあまりにも新参者、兵を率いて出陣は考えられません。献策(策を献上すること)しようにも「荀攸」(じゅんゆう)や「賈詡」(かく)などの有能な軍師が、当時の曹操軍にはたくさんいたのですから、司馬懿の出番はほとんど無かったのではないでしょうか。
しかし、有能な司馬懿の事ですから、赤壁の戦いでの勝敗が天下にどのように関係してくるかも考えていたはずです。あえて献策しなかったのでは、と考えることも出来るでしょう。
219年、蜀の猛将である「関羽」が『荊州』(けいしゅう)から北上して、『樊城』(はんじょう)に攻撃を仕掛けました。そして、首都である『許昌』(きょしょう)近くで関羽に呼応する者が相次いだのです。これには曹操も慄き、遷都(せんと・首都移転)の話も持ち上がったほどでした。
しかし、ここで司馬懿はそれに反対したのです。呉の「孫権」と共闘し、関羽を討ち果たす策を思いつき、曹操に進言しました。司馬懿の策を聞いた曹操はそれを受け入れ、関羽討伐の軍を結成、討伐することに成功したのです。
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