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【三国志】魏の英雄を父に持つ「曹丕」!その一生を中国史マニアがわかりやすく解説

よぉ、桜木建二だ。今日は、三國時代の魏の初代皇帝「曹丕」について勉強していこう。

父であり魏の英雄である「曹操」の勢力を受け継ぎ、後漢の献帝から禅譲を受けて王朝を開いたんだ。わずか11歳で父・曹操の軍中に付き従い、文武両道の人物として育っていくんだ。父の死後、皇帝として即位した頃から配下の司馬一族を重用、そこから魏は滅亡へと進んでいくこととなってしまった。そんな曹丕の一生をわかりやすくまとめておいた。

年間100冊以上を読む読書家で、中国史マニアのライターKanaと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

ライター/Kana

年間100冊以上を読破する読書家。現在はコーチ業に就いており、わかりやすい説明が得意。中国史マニアでもあり、今回は「曹丕」について、わかりやすくまとめた。

生まれた頃は庶子、そこから嫡子になるまで

image by iStockphoto

 「曹丕」(そうひ)は、魏王であった「曹操」(そうそう)の息子です。187年に生まれ、母は「卞氏」(べんし)という曹操の妾でした。卞氏は、歌妓であった頃に曹操と出会っており、庶民の出なのです。

 そのため曹丕は、生まれた頃は嫡男ではなく、庶子という実質的には三男としての扱いを受けていました。8歳の頃には文章を書くことができ、剣術や騎射(流鏑馬のこと)を得意としていたそうです。曹丕は幼いころから文武両道の才を見せていたのですね。

 197年、嫡男として曹操の正室の丁氏が育てていた異母長兄の「曹昂」(そうこう、生母は劉氏)が、宛城の戦いで戦死してしまいます。すると、これがきっかけで丁氏が曹操と離別してしまいました。

 さらに、曹操の次男である「曹鑠」(そうしゃく)は生まれながら体が弱かったようで、若くして病死してしまうのです。実際に『三国志』には殆ど登場しません。

 すると、一介の側室でしかなかった曹丕の生母、卞氏が曹操の正室として迎えられたのです。これ以降、曹丕は曹操の嫡子として扱われるようになりました。

父・曹操の留守を任される曹丕、そして弟・曹植(そうしょく)との権力争い

 曹丕の初陣は11歳の頃と言われており、曹操も次第に自身の留守を曹丕に任せるようになっていきました。216年から217年、この頃に曹操の跡継ぎを巡って、権力争いが起きたと言われています。

 相手は、曹操の五男である曹植(そうしょく)です。曹植は、詩才に溢れていたことから、曹操に溺愛されていました。それを見た曹丕が、嫉妬心から曹植を冷遇したというのです。

 『三国志演技』では有名な『七歩の詩』というものがあります。それは「詩才あるお前ならば七歩歩くうちに、詩を詠めるであろう、出来なければ処刑する」と曹丕が曹植に迫るというもの。見事この課題を乗り切ったと共に、兄弟なのに何故いがみ合わなければいけないのか、と言う曹植に曹丕は涙したそうです。

 しかし、これは『三国志演技』での創作話、『正史』では権力争いがあった、との記述しかありません。そこでさらに調べてみると、南北朝の『宋』の時代の「世説新語」という小説集に『七歩の詩』が見つけられます。『三国志演技』の著者である「羅漢中」(らかんちゅう)が取り入れただけなのでしょう。

 また、『正史』に見られる権力争いも、最新の研究では殆ど行われなかったという説が有力です。『正史』著者の「陳寿」が執筆中は、王朝内の司馬炎と司馬攸の権力争いが行われていた時期と合致します。つまり、流石にその当時の出来事を書くことは出来ないため、曹丕と曹植の権力争いとして表現したのではないでしょうか。

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魏の国を破竹の勢いで拡大していった曹操、その跡目争いはさぞ激しいものと思っていたが、実際には全くそんな気配はしないのだな。それは曹丕の有能さか、はたまた曹操の有能さか、どちらか考えると面白いな。

父・曹操の死。曹丕は魏王に就任すると、宰相職を受け継ぐ

 220年に、父である曹操が死去します。曹丕はすぐさま魏王に就任すると、丞相職も受け継ぎました。

 ここで、魏王について勉強しましょう。当時曹操が率いていた集団は『魏』(ぎ)と呼ばれた後漢の国の一地域のようなものです。あくまで曹操は後漢の配下であり、職としては宰相(現代日本における首相のようなもの)と呼ばれるものでした。そして、当時は皇族以外には『王』の位を封じるのは不文律とされていました。しかし、曹操が『魏王』に就いたということで、いずれ皇帝の地位を狙っているのだろうと、周囲の諸侯の反発は大きかったようです。

 曹操は『魏王』の位に就いたものの、生涯で皇帝に禅譲を迫ることはありませんでした。あくまで後漢の臣として仕え、生涯の友「夏侯惇」にも同僚であれと『魏』の地位を授けることはなかったのです。

献帝から禅譲を受け、魏の初代皇帝となる

 そんな父の後を継いだ曹丕も、魏王、そして宰相職でその才を発揮するものかと思いきや、同年、後漢最後の皇帝である「献帝」(けんてい)から『禅譲』を受けました。

 献帝から禅譲(ぜんじょう・皇帝の座を譲ること、国の崩壊を意味する)を申し出たのですが、曹丕はそれ断ったのです。曹丕の配下たちは禅譲を受けるよう促し、さらに献帝は幾度も要請を出し、曹丕はそれを受け入れ即位することになりました。

 しかし、これは表向きの流れであり、実際には配下を使い献帝に禅譲を迫ったようです。これを何度も断ったのちに受け入れることで、武力で王朝を打ち破ったという印象を民衆に与えないように配慮したのでした。こうして後漢王朝は幕を閉じ、『三国時代』に突入していくのです。

 ここで『後漢』から『魏王朝』に時代が変わるのでは、と思う方も多いと思います。しかし、この曹丕の即位を受け、翌年蜀の劉備は『漢の皇帝』を称し、さらにその数年後には呉の孫権が『呉の皇帝』を称したのです。これによって『魏王朝』という呼び名は定着せず『三国時代』という時代になりました。

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