今日は、三國時代の魏の初代皇帝「曹丕」について勉強していこう。

父であり魏の英雄である「曹操」の勢力を受け継ぎ、後漢の献帝から禅譲を受けて王朝を開いたんです。わずか11歳で父・曹操の軍中に付き従い、文武両道の人物として育っていくんです。父の死後、皇帝として即位した頃から配下の司馬一族を重用、そこから魏は滅亡へと進んでいくこととなってしまった。そんな曹丕の一生をわかりやすくまとめておいた。

年間100冊以上を読む読書家で、中国史マニアのライターKanaと一緒に解説していきます。

ライター/Kana

年間100冊以上を読破する読書家。現在はコーチ業に就いており、わかりやすい説明が得意。中国史マニアでもあり、今回は「曹丕」について、わかりやすくまとめた。

生まれた頃は庶子、そこから嫡子になるまで

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 「曹丕」(そうひ)は、魏王であった「曹操」(そうそう)の息子です。187年に生まれ、母は「卞氏」(べんし)という曹操の妾でした。卞氏は、歌妓であった頃に曹操と出会っており、庶民の出なのです。

 そのため曹丕は、生まれた頃は嫡男ではなく、庶子という実質的には三男としての扱いを受けていました。8歳の頃には文章を書くことができ、剣術や騎射(流鏑馬のこと)を得意としていたそうです。曹丕は幼いころから文武両道の才を見せていたのですね。

 197年、嫡男として曹操の正室の丁氏が育てていた異母長兄の「曹昂」(そうこう、生母は劉氏)が、宛城の戦いで戦死してしまいます。すると、これがきっかけで丁氏が曹操と離別してしまいました。

 さらに、曹操の次男である「曹鑠」(そうしゃく)は生まれながら体が弱かったようで、若くして病死してしまうのです。実際に『三国志』には殆ど登場しません。

 すると、一介の側室でしかなかった曹丕の生母、卞氏が曹操の正室として迎えられたのです。これ以降、曹丕は曹操の嫡子として扱われるようになりました。

父・曹操の留守を任される曹丕、そして弟・曹植(そうしょく)との権力争い

 曹丕の初陣は11歳の頃と言われており、曹操も次第に自身の留守を曹丕に任せるようになっていきました。216年から217年、この頃に曹操の跡継ぎを巡って、権力争いが起きたと言われています。

 相手は、曹操の五男である曹植(そうしょく)です。曹植は、詩才に溢れていたことから、曹操に溺愛されていました。それを見た曹丕が、嫉妬心から曹植を冷遇したというのです。

 『三国志演技』では有名な『七歩の詩』というものがあります。それは「詩才あるお前ならば七歩歩くうちに、詩を詠めるであろう、出来なければ処刑する」と曹丕が曹植に迫るというもの。見事この課題を乗り切ったと共に、兄弟なのに何故いがみ合わなければいけないのか、と言う曹植に曹丕は涙したそうです。

 しかし、これは『三国志演技』での創作話、『正史』では権力争いがあった、との記述しかありません。そこでさらに調べてみると、南北朝の『宋』の時代の「世説新語」という小説集に『七歩の詩』が見つけられます。『三国志演技』の著者である「羅漢中」(らかんちゅう)が取り入れただけなのでしょう。

 また、『正史』に見られる権力争いも、最新の研究では殆ど行われなかったという説が有力です。『正史』著者の「陳寿」が執筆中は、王朝内の司馬炎と司馬攸の権力争いが行われていた時期と合致します。つまり、流石にその当時の出来事を書くことは出来ないため、曹丕と曹植の権力争いとして表現したのではないでしょうか。

父・曹操の死。曹丕は魏王に就任すると、宰相職を受け継ぐ

 220年に、父である曹操が死去します。曹丕はすぐさま魏王に就任すると、丞相職も受け継ぎました。

 ここで、魏王について勉強しましょう。当時曹操が率いていた集団は『魏』(ぎ)と呼ばれた後漢の国の一地域のようなものです。あくまで曹操は後漢の配下であり、職としては宰相(現代日本における首相のようなもの)と呼ばれるものでした。そして、当時は皇族以外には『王』の位を封じるのは不文律とされていました。しかし、曹操が『魏王』に就いたということで、いずれ皇帝の地位を狙っているのだろうと、周囲の諸侯の反発は大きかったようです。

 曹操は『魏王』の位に就いたものの、生涯で皇帝に禅譲を迫ることはありませんでした。あくまで後漢の臣として仕え、生涯の友「夏侯惇」にも同僚であれと『魏』の地位を授けることはなかったのです。

献帝から禅譲を受け、魏の初代皇帝となる

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 そんな父の後を継いだ曹丕も、魏王、そして宰相職でその才を発揮するものかと思いきや、同年、後漢最後の皇帝である「献帝」(けんてい)から『禅譲』を受けました。

 献帝から禅譲(ぜんじょう・皇帝の座を譲ること、国の崩壊を意味する)を申し出たのですが、曹丕はそれ断ったのです。曹丕の配下たちは禅譲を受けるよう促し、さらに献帝は幾度も要請を出し、曹丕はそれを受け入れ即位することになりました。

 しかし、これは表向きの流れであり、実際には配下を使い献帝に禅譲を迫ったようです。これを何度も断ったのちに受け入れることで、武力で王朝を打ち破ったという印象を民衆に与えないように配慮したのでした。こうして後漢王朝は幕を閉じ、『三国時代』に突入していくのです。

 ここで『後漢』から『魏王朝』に時代が変わるのでは、と思う方も多いと思います。しかし、この曹丕の即位を受け、翌年蜀の劉備は『漢の皇帝』を称し、さらにその数年後には呉の孫権が『呉の皇帝』を称したのです。これによって『魏王朝』という呼び名は定着せず『三国時代』という時代になりました。

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魏の皇帝曹丕は『文帝』と名乗り、内政に取り組む

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 魏王朝を開いた曹丕は『文帝』と名乗ると同時に、父である曹操を『太祖武皇帝』と追号しました。

 曹丕は、内政に非常に力を注いでいたといいます。諸制度を整えることで国力の安定・増強を図ったのです。特に配下の進言を採用した『九品官人法』(きゅうひんかんじんほう)という人材採用に特化した制度は、後の世にも広く使われた優れた制度でした。

 当時の漢王朝の人災採用制度は、各地の豪族に委ねられていました。そして豪族達の息のかかった人物が官僚として推挙されていたのです。その大半は中央で人脈を広げるための人材であり、優秀な人物が中央に上がってくることの少ない政策なのでした。これに困った曹丕が実施した制度こそが『九品官人法』なのです。

 新たな制度により曹丕の周りには、優秀な人物が多く集まります。そうして魏は、他の二国を圧倒する力をつけていくことになったのです。

呉の孫権の突然の降伏、しかし…

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 曹丕は様々な政策を実施し、それは魏の国力を大いに向上させることに成功します。

 こういった情勢の中で、蜀の劉備が呉の裏切りで荊州を奪われた上に、義弟『関羽』を殺された劉備は、怒り心頭で呉に侵攻を開始したのです。この蜀の侵攻を受けた孫権は、魏の曹丕に「我らは魏に降伏するため、魏は呉に侵攻しないでほしい」と使者を送ります。

 曹丕の配下らはこの孫権の降伏に対して「これは蜀に侵攻を受けているだけである、二国同時の侵攻を防ぐための策なだけで、蜀の侵攻を防いだあとは再び敵となるでしょう」と降伏を跳ねのける進言したのです。しかし曹丕は「降伏を拒否するということは、今後降伏してくる勢力すらも拒否することになる」と、呉の降伏を受け入れることにしました。

 降伏を受け入れた曹丕は、孫権に対し都へ息子を連れてくるように命じます。その真意はわかりませんが、孫権は自分の跡取りであるため、それは出来ない、と断ったのです。しかし、曹丕はめげずに何度も使者を送り続けました。孫権はそれらの曹丕の要請を全て断ると、なんと蜀と再び同盟を結び、魏から独立してしまうのです。

 これには曹丕も激怒し、呉への侵攻を開始します。この出来事に曹丕はそうとう怒りを覚えたのでしょう、みずから軍を率いることにしたのです。

呉への侵攻を開始した曹丕、1度目の侵攻

 曹丕は、呉への侵攻をするにあたって3方面からの攻撃を計画します。

 1つ目の軍は『洞口』(とうこう)と呼ばれる地域です。こちらには、歴戦の英雄である「張遼」(ちょうりょう)や曹操の時代からの武将「曹休」(そうきゅう)らを出陣させました。

 2つ目の軍は『濡須江』(じゅすこう)と呼ばれる地域です。こちらには、曹操軍内で一番の実力を誇っていた「曹仁」(そうじん)と「曹泰」(そうたい)らを出陣させました。

 3つ目の軍は『荊州』(けいしゅう)と呼ばれる地域です。こちらには、長く将軍を務める「張郃」(ちょうこう)や勝率の高い将軍「徐晃」(じょこう)を出陣させました。

 まさに、魏軍の総力を挙げたこの戦いは意外な結末を迎えます。なんと1つ目の『洞口』の軍と、3つ目の『荊州』の軍は、暴風が発生した事により、呉への攻撃が出来なかったのです。

 そして『濡須江』の軍ですが、広陵城で籠城する呉軍を包囲したのはよかったのですが、籠城する呉軍は非常に粘り強く陥落させられませんでした。こうして長引く抗戦の中で、魏軍内部では疫病が発生してしまいます。さらには『長江』が大雨で増水したことによって、撤退を余儀なくされたのです。

 曹丕は『荊州』の軍に撤退を命じるのですが、撤退する魏軍へ呉軍は猛攻を仕掛け、将軍である「曹泰」が討ち死してしまいました。これによって『荊州』侵攻軍の総大将であった「曹仁」は責任を感じ、自害してしまうのです。

 こうして、魏軍の呉への1度目の侵攻は大敗してしまいました。

怒りの収まらぬ曹丕、2度目の侵攻

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 曹丕は、孫権の討伐失敗に対してとても悔しがったそうです。そして再びの侵攻を決意します。

 しかし、すぐに出陣することはせず、まずは自身が乗る大型の船を建設することにしたのです。それは帆先に竜の飾りを持った『龍船』(りゅうせん)と呼ばれるものでした。

 自ら軍勢を率いて出陣した曹丕は『石頭城』(せきとうじょう)と呼ばれる地域に到達すると、そこで信じられないものを目にします。つい最近まで何もなかった川沿いに、自身の居城に匹敵するほどの大きな城が建造されているのです。

 城の大きさはすなわち防御戦の強さを表します。短時間でここまで大きな城を作り上げるほどの国力を持った呉、そして待ち受けるであろう策に魏軍は侵攻を一時停止してしまうのです。こうして侵攻か撤退かを議論している間に再び長江の水かさが増してきたため、曹丕はまたもや撤退することになってしまいました。

 しかし、蜀からの侵攻を受けていたはずの呉に、ここまでの巨城を築く時間はあったのでしょうか。もちろんこの巨城は呉軍の策です。呉軍の将軍である「徐盛」(じょせい)が川沿いにとてつもない広さですが、実際には薄い張りぼての偽城を築き、魏軍を欺くのでした。

 内政では多大な功績を残した曹丕ですから、少し冷静に考えれば何か裏がある、と思い立ち打ち破れたのかもしれません。しかし曹丕の脳内には、歴戦の将軍達を失った前回の手痛い敗戦の記憶がこびり付いていたのでしょう、撤退という道を選びました。

2度の侵攻失敗、今度こそはと、3度目の侵攻

 2度の侵攻失敗を受けた曹丕は、今度こそはと意気込みます。

 前回、そして前々回と暴風雨や増水など、天が味方しないことが多かった、そこで曹丕は侵攻の季節を変えるのです。長江の増水や暴風雨の多い夏を避け、冬を選び呉への侵攻を開始しました。

 「さぁ行くぞ」と意気込んだものの、まず長江に出るための川がガチガチに凍っており、大型の船が通行できません。これでは天然の要塞である長江は越えられない、と曹丕は「これは呉への侵攻を天が許してくれないのか」と肩を落としてしまいました。

 こうして、曹丕の3度に渡る呉への侵攻は全て失敗に終わってしまうのです。

 内政では辣腕を振るっていた曹丕も、戦の才はなかったのだ、後世ではそのように言われているきっかけは、この侵攻だったのかもしれませんね。

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都に戻った曹丕は、失意のまま病没する

 曹丕は、都に帰ってくると国を立て直す暇もなく、病を患ってしまいます。

 そして、わずか40歳という若さでこの世を去ってしまうのです。病の発症から、まさに突然の死というべき早さでした。

 曹丕の遺言は、後継者を息子「曹叡」(そうえい)を定め補佐するよう命じる内容と、父である曹操が、その遺言として残したものと同じく、墓の装飾や金銀財宝の埋葬を禁じるというものです。

 理由としては「古今東西、皇族の墓が荒らされないことなどない」という明確なものであり、父譲りの合理主義的な考えが伺い知れますね。

偉大すぎる父を持った苦悩、力及ばず病死する

曹丕は、内政に力を発揮した人物でした。魏の初代皇帝として国力の大きな増強に成功し、彼が作り出したものは、後に天下統一を果たす『晋』の礎となりました。

まさに文武両道の人物として残る逸話の中に『典論』の執筆があります。今でいうと文章論であり、文章を書く上で必須の心得が記されているのです。現代にも通用する内容であり、彼の才能の豊かさが垣間見えますね。

曹丕の悲劇的な部分としては、偉大すぎる父の存在ではないでしょうか。彼は有能な人物を見抜く眼力に優れていたとされ、実際に数々の戦場で活躍した武将や智将、そして内政で活躍した将軍など多くの人間に支えられていました。

それら有能な人物が戦乱の中で次々と息絶え、それを補強しようと採用した人物が後に彼の子孫に反乱を起こして、魏の国は潰えてしまいます。

彼自身は、有能な人物であったはず。しかし偉大すぎる父の陰に隠れてしまった部分も多くあるような気がしますね。

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【三国志】魏の英雄を父に持つ「曹丕」!その一生を中国史マニアがわかりやすく解説

今日は、三國時代の魏の初代皇帝「曹丕」について勉強していこう。

父であり魏の英雄である「曹操」の勢力を受け継ぎ、後漢の献帝から禅譲を受けて王朝を開いたんです。わずか11歳で父・曹操の軍中に付き従い、文武両道の人物として育っていくんです。父の死後、皇帝として即位した頃から配下の司馬一族を重用、そこから魏は滅亡へと進んでいくこととなってしまった。そんな曹丕の一生をわかりやすくまとめておいた。

年間100冊以上を読む読書家で、中国史マニアのライターKanaと一緒に解説していきます。

ライター/Kana

年間100冊以上を読破する読書家。現在はコーチ業に就いており、わかりやすい説明が得意。中国史マニアでもあり、今回は「曹丕」について、わかりやすくまとめた。

生まれた頃は庶子、そこから嫡子になるまで

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 「曹丕」(そうひ)は、魏王であった「曹操」(そうそう)の息子です。187年に生まれ、母は「卞氏」(べんし)という曹操の妾でした。卞氏は、歌妓であった頃に曹操と出会っており、庶民の出なのです。

 そのため曹丕は、生まれた頃は嫡男ではなく、庶子という実質的には三男としての扱いを受けていました。8歳の頃には文章を書くことができ、剣術や騎射(流鏑馬のこと)を得意としていたそうです。曹丕は幼いころから文武両道の才を見せていたのですね。

 197年、嫡男として曹操の正室の丁氏が育てていた異母長兄の「曹昂」(そうこう、生母は劉氏)が、宛城の戦いで戦死してしまいます。すると、これがきっかけで丁氏が曹操と離別してしまいました。

 さらに、曹操の次男である「曹鑠」(そうしゃく)は生まれながら体が弱かったようで、若くして病死してしまうのです。実際に『三国志』には殆ど登場しません。

 すると、一介の側室でしかなかった曹丕の生母、卞氏が曹操の正室として迎えられたのです。これ以降、曹丕は曹操の嫡子として扱われるようになりました。

父・曹操の留守を任される曹丕、そして弟・曹植(そうしょく)との権力争い

 曹丕の初陣は11歳の頃と言われており、曹操も次第に自身の留守を曹丕に任せるようになっていきました。216年から217年、この頃に曹操の跡継ぎを巡って、権力争いが起きたと言われています。

 相手は、曹操の五男である曹植(そうしょく)です。曹植は、詩才に溢れていたことから、曹操に溺愛されていました。それを見た曹丕が、嫉妬心から曹植を冷遇したというのです。

 『三国志演技』では有名な『七歩の詩』というものがあります。それは「詩才あるお前ならば七歩歩くうちに、詩を詠めるであろう、出来なければ処刑する」と曹丕が曹植に迫るというもの。見事この課題を乗り切ったと共に、兄弟なのに何故いがみ合わなければいけないのか、と言う曹植に曹丕は涙したそうです。

 しかし、これは『三国志演技』での創作話、『正史』では権力争いがあった、との記述しかありません。そこでさらに調べてみると、南北朝の『宋』の時代の「世説新語」という小説集に『七歩の詩』が見つけられます。『三国志演技』の著者である「羅漢中」(らかんちゅう)が取り入れただけなのでしょう。

 また、『正史』に見られる権力争いも、最新の研究では殆ど行われなかったという説が有力です。『正史』著者の「陳寿」が執筆中は、王朝内の司馬炎と司馬攸の権力争いが行われていた時期と合致します。つまり、流石にその当時の出来事を書くことは出来ないため、曹丕と曹植の権力争いとして表現したのではないでしょうか。

父・曹操の死。曹丕は魏王に就任すると、宰相職を受け継ぐ

 220年に、父である曹操が死去します。曹丕はすぐさま魏王に就任すると、丞相職も受け継ぎました。

 ここで、魏王について勉強しましょう。当時曹操が率いていた集団は『魏』(ぎ)と呼ばれた後漢の国の一地域のようなものです。あくまで曹操は後漢の配下であり、職としては宰相(現代日本における首相のようなもの)と呼ばれるものでした。そして、当時は皇族以外には『王』の位を封じるのは不文律とされていました。しかし、曹操が『魏王』に就いたということで、いずれ皇帝の地位を狙っているのだろうと、周囲の諸侯の反発は大きかったようです。

 曹操は『魏王』の位に就いたものの、生涯で皇帝に禅譲を迫ることはありませんでした。あくまで後漢の臣として仕え、生涯の友「夏侯惇」にも同僚であれと『魏』の地位を授けることはなかったのです。

献帝から禅譲を受け、魏の初代皇帝となる

 そんな父の後を継いだ曹丕も、魏王、そして宰相職でその才を発揮するものかと思いきや、同年、後漢最後の皇帝である「献帝」(けんてい)から『禅譲』を受けました。

 献帝から禅譲(ぜんじょう・皇帝の座を譲ること、国の崩壊を意味する)を申し出たのですが、曹丕はそれ断ったのです。曹丕の配下たちは禅譲を受けるよう促し、さらに献帝は幾度も要請を出し、曹丕はそれを受け入れ即位することになりました。

 しかし、これは表向きの流れであり、実際には配下を使い献帝に禅譲を迫ったようです。これを何度も断ったのちに受け入れることで、武力で王朝を打ち破ったという印象を民衆に与えないように配慮したのでした。こうして後漢王朝は幕を閉じ、『三国時代』に突入していくのです。

 ここで『後漢』から『魏王朝』に時代が変わるのでは、と思う方も多いと思います。しかし、この曹丕の即位を受け、翌年蜀の劉備は『漢の皇帝』を称し、さらにその数年後には呉の孫権が『呉の皇帝』を称したのです。これによって『魏王朝』という呼び名は定着せず『三国時代』という時代になりました。

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