今日は、秦王朝滅亡後の中国政権をめぐった戦い『楚漢戦争』について勉強していこう。

それは西楚の覇王「項羽」と漢中の王「劉邦」との間で行われた、紀元前206年から紀元前202年の4年間の戦いです。日本では小説にもなっている「項羽と劉邦」で知っている人もいるでしょうな。この戦いがどのように起き、収束していったのかをわかりやすくまとめておいた。

年間100冊以上を読む読書家で、中国史マニアのライターKanaと一緒に解説していきます。

ライター/Kana

年間100冊以上を読破する読書家。現在はコーチ業に就いており、わかりやすい説明が得意。中国史マニアでもあり、今回は「楚漢戦争」について、わかりやすくまとめた。

始まりは「秦」王朝への大反乱から

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By JesseW900 - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, Link

 紀元前221年、春秋戦国時代を経て『秦』という国が中国をはじめて統一しました。当主は中国において最初の皇帝となる『始皇帝』です。

 始皇帝は文字の統一や郡県制の実施など、様々な改革を急速に推し進めました。『万里の長城』や『阿房宮』という宮殿の建設に受刑者や農民を何十万人と使役し、思想政策も断行したのです。

 民たちに対する過酷な労働と、極度の法治主義、さらに儒教の弾圧まで加えてしまったことで、始皇帝への不満は高まり、反乱の芽を育ててしまいました。紀元前210年、始皇帝が死去すると、身辺の世話をしていた宦官らが皇帝の血縁者を大量虐殺し、その権力をほしいままにしました。

 こういった暴政が続いたため、紀元前209年、大反乱が起きました。

 「陳勝」(ちんしょう)と「呉広」(ごこう)が蜂起したこの反乱は、中国史上において初めての農民による反乱でした。反乱軍の勢いはすさまじくあっという間に都『咸陽』に攻め入ると、陥落させてしまいました。

 これが『秦』王朝の滅亡です。建国からわずか13年でした。

楚の将軍の家に生まれた英雄の孫「項羽」

 『秦』王朝への反乱軍の中には「項羽」(こうう)の姿がありました。項羽は楚の将軍家に生を受けており、当時としては非常に高い教育を受けていたようです。

 体格に優れ、才能溢れる人物で、文字や剣術などはすぐさま身に着け学びをやめてしまいます。項羽が熱中したのが、兵法です。これには項羽も興味を惹かれましたが、しかしこれもあっというまに身につけてしまうのでした。

 項羽が9歳の時に破竹の勢いであった『秦』に、故国である『楚』を滅ぼされてしまいました。『呉』の国に亡命を果たすと、24歳で反乱を起こすまで、武将である叔父「項梁」(こうりょう)の下で過ごしました。

庶民の三男として生まれ、まともな読み書きも出来なかった「劉邦」

 一方の劉邦は、全くの庶民の出でした。教育などもないような村で育ったそうで、まともな読み書きも出来なかったといいます。さらには、中年期までろくな定職も持たずに過ごしていたのです。

 しかし、その一方で多くの人に好かれていた人望を備えてしました。劉邦のこの人徳は、まさしく彼の大きな財産といえるものでしょう。

 劉邦の幼馴染に「盧綰」(ろわん)と「樊噲」(はんかい)という人物がおり、後に共に蜂起します。特に盧綰は同じ日に生まれ、父親同士が仲が良かったことから幼少期から親しく育ったのです。親しくして育った。

 劉邦の風貌としては、鼻が高く立派な髭を蓄えており、いわゆる『龍顔』といわれました。また、太股に72の黒子があったといいます。72とは1年を五行思想の5で割った数で、当時では非常に縁起の良い数字でした。

 

「秦」侵攻の大金星は、劉邦

image by iStockphoto

 反乱軍は『楚』と名乗っており、楚の王として前王である『壊王』の孫にあたる「心」を迎え『懐王心』として即位させていました。

 この懐王心は、諸侯にとある約束をします。「咸陽(かんよう・秦の本拠地)に一番乗りを果たした者には、秦の土地をそのまま与える」というものです。

 もちろんこの話は、項羽も劉邦も知っています。秦への攻勢はいっそう激しいものとなりました。

 項羽は、道中の敵を全て討ち果たし、皆殺しにしていきます。降伏を申し出たものであっても、生き埋めにしてしまうなど凄まじい所業であったそうです。

 一方劉邦は、戦わなくとも良い場面であれば、積極的に戦いを避けていました。降伏を申し出た者も、許し自軍に組み込んでいったのです。

 行路はそれぞれ違ったのですが、咸陽に一番乗りを果たしたのは、劉邦でした。

 楚軍の勢いに押され離反者が相次ぐ秦王朝を、劉邦は咸陽と容易く落とすと、財宝には一切手を出さず、秦王もそのまま咸陽に留め置いていたのです。


 この時の項羽の怒りは計り知れません。実質的には、項羽の活躍で秦軍を降したようなもの。そんな自負がありました。しかし、壊王心の諸侯への約束は絶対。いくら敵を倒そうとも、劉邦が一番乗りであることは事実であり、此度の侵攻の大金星は劉邦だったのです。

\次のページで「怒り狂う項羽は、劉邦を打ち取ろうとする」を解説!/

怒り狂う項羽は、劉邦を打ち取ろうとする

 先に咸陽に到着していた劉邦も、項羽がどのような手に出るか予測していたのでしょう。秦王朝の財宝には一切手を出さず、近くの谷に自軍の兵を伏せていたのです。

 劉邦配下の離反者が、項羽に劉邦は財宝をひそかに蓄えている、と偽の情報で取り入ろうとしまう。その真偽はさておき、項羽はこれ幸いと劉邦討伐の準備を進めます。

 しかしそこへ、項羽軍の軍師「范増」(はんぞう)が現れ制するのです。范増は、項羽の叔父の頃から仕える重臣、流石の項羽も彼の言葉は無下に出来ず、思いとどまることになりました。

 そんな項羽の陣に、劉邦が現れます。項羽の出方を見た劉邦が、自ら赴いたのです。劉邦は陣に入ると開口一番「臣(私)は将軍(項羽)と力を合わせ秦を攻めました、図らずも臣は咸陽に到着してしまいました」と遜り、私は項羽の下である、と表明しました。

 劉邦の挨拶を受けた項羽は、毒気を抜かれ宴を始めます。しかし、劉邦は客でありながらも、北側、下座に座らされてしまいました。

 しかし、これはチャンスである、と宴の合間に暗殺を行おうとします。ですが、これものらりくらりと逃げられ、劉邦は厠に行く、と席を空けるとそのまま自陣に逃げ帰ってしまいました。

政権を握った項羽は『西楚の覇王』と名乗る

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By ShangGuan Zhou(上官周) - This image was carried on the book which is called "Wan hsiao tang-Chu chuang -Hua chuan(晩笑堂竹荘畫傳)"., パブリック・ドメイン, Link

 ここから項羽の専横が始まります。自らを『西楚の覇王』と名乗り、首都を咸陽から故郷の『彭城』に変えてしまうのです。主君であるはずの懐王心は『義帝』として楚王よりも格上げを行いますが、その実は傀儡でした。

 しかし、各地の政治に関しては中央集権体制ではなく、各国の存続を認めていたのです。一見すると独裁体制とは程遠く見えたこの支配も、自らに反乱の気配が見えた諸侯は東の端に追いやるなどしていました。そうして、中国全土に様々な王が乱立し、それは同時に諸侯の勢力を強める結果となりました。

 項羽にとっては皇帝の威光など意味のないもののように見えたのでしょうか。ついには主君『義帝』すらも手にかけてしまうのです。それは半ば強引に都から追い出し、その道中で配下に襲わせたといいます。

漢中に追いやられた劉邦は、反撃の機会を伺う

 一方の劉邦は、項羽の命によって『漢中』の端に左遷されながらも、力を蓄えていました。劉邦はその人望から非常に配下に恵まれていたといいます。その中でも特に重要な人物が「韓信」(かんしん)です。

 この韓信という者はもとは項羽の軍にいました。武力・指揮力に優れた武将であったのですが、項羽軍では重用されず、離反。劉邦に才能を見込まれ、いきなり大将軍に抜擢されたのです。

 漢中と項羽の本拠地の間には、戦いに優れた武将が配置され、簡単には反旗を翻すことは出来ないようになっていたのですが、ここで韓信が活躍します。

 項羽軍の精鋭「章邯」(しょうかん)らを撃破、関中を完全に手中に治めることに成功したのです。

項羽に対する不満が高まり、反乱が起きてしまう

 紀元前206年、項羽に対しての反乱が起きます。それは項羽がかつての主君である楚の『懐王心』を殺害したことがきっかけとなりました。『主君殺しの大罪人』討伐という大義名分を得た劉邦は、諸侯に呼びかけ反乱軍を結成します。

 これこそが楚漢戦争の始まりなのです。

 劉邦が出した号令に集まった反楚連合軍は56万もの大軍となり、項羽不在の彭城をあっという間に陥落させてしまいました。

 彭城陥落の知らせを受けた項羽は、なんとたった3万の軍で反撃に出ます。戦場においての項羽は負け知らずです。敵本拠地を陥落させたことで、すっかり油断しきっていた劉邦軍を突撃によって打ち破ると、その形成は一夜にして逆転してしまうのでした。

 

命からがら逃げだす劉邦だったが、そこには策もあった

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By User:Miuki - 投稿者自身による作品, パブリック・ドメイン, Link

 彭城での項羽の勢いはすさまじく、劉邦は命からがら脱出します。しかし、同時に項羽軍内にも不穏な動きが起き始めました。これを見抜いた劉邦は、とある策を実行します。

 まずは「鯨布」(げいふ)、彼も叔父・項梁の時代から従う重臣です。彼に使者を送ると、なんとあっさり離反に成功してしまいました。

 次は項羽の腹心・軍師「范増」です。項羽軍に、范増が二心を抱いているとの噂話を流します。これを疑った項羽は劉邦軍に使者を出し、これを受けた劉邦側は「なんだ、范増殿の使者ではないのか」と落胆してみせるのです。この報を受けた項羽は范増に疑け、彼は田舎へ隠居させることに成功したのでした。

 項羽は疑心暗鬼になっていたのでしょうか、何年も共に戦ってきた重臣ですら信じられる者がおらず、劉邦の胸中とはまさに正反対の様相だったと想像ができますね。

\次のページで「一進一退の攻防が続くも、項羽軍はだんだんと押されていく」を解説!/

一進一退の攻防が続くも、項羽軍はだんだんと押されていく

 項羽と劉邦の戦いはまさに一進一退でした。当初は完全の項羽有利と見られましたが、戦いは長引くにつれ、項羽の軍からはその強引な姿勢についていけない者たちが、相次いで離反していったのです。

 戦力も、武力も、兵法も、圧倒的有利は項羽でした。項羽はそのカリスマ性と能力でたった一人で軍を率いていたのです、しかし、劉邦はそれほどの能力はありませんが、その人望で各領域のエキスパートが配下にいたのです。

 そうして、とうとう項羽は『垓下』の地にて劉邦軍に包囲されてしまいました。しかし、やはり戦の天才である項羽の軍は精強で、中々打ち崩すことが出来ません。

劉邦は「韓信」を王と認め、共闘する

 『垓下』の地で項羽軍を包囲した劉邦は、東で『斉』の国を攻めおとし、『斉王』として認めていた韓信に増援を求めます。しかし、韓信は動きません。

 元々は劉邦配下として、『斉』を攻め落とした韓信でしたが、劉邦に対し自らを王と認めるよう迫っていたのです。もちろん劉邦は許すつもりはなかったのですが「王として認めなければ韓信は離反してしまう」という臣下の声に耳を傾け、認めていました。

 こうした経緯故に、韓信は劉邦と同等だと考えていたのでしょう。はじめの救援には応じませんでした。そうすると、再び劉邦の臣下は「韓信という男は計算高い男です、こちらから恩賞を約束しましょう」といい、これまた劉邦は耳を傾け、恩賞の確約を申し出ました。すると、韓信はあっさりと援軍を出したのです。

 韓信の軍は精強でした。到着するやいなや劉邦軍は再び猛攻をしかけ、さらに項羽軍の離反者を増やす結果となりました。

項羽を追い詰める劉邦の秘策

 完全に包囲し、見方も少ない項羽軍に勝利の色は見えません。しかし、項羽は中々降伏しなかったのです。そこで劉邦はとある秘策を実行します。

 ある晩、項羽の耳に故国『楚』の歌が聞こえてくるのです。

 それは、四面を包囲した劉邦軍から聞こえてきたものであり、元は『楚』の国の人間であることを占めるものでした。

 項羽の元々の大義は、自身の国『楚』を『秦』に攻め滅ぼされたことだったはずです。故国のために戦ってきた項羽の最後は、故国の人間の裏切りによって幕を閉じようとしていました。

 もちろん、これも劉邦軍の策です。『楚』の国の人間がどれほどいたかは定かではありませんが、劉邦軍の兵士に楚の歌を歌わせ、項羽の心を挫く作戦であったことは間違いないでしょう。

項羽の最後、戦争の終結

image by iStockphoto

 項羽は勝利は諦め、残った800騎を率いて南から脱出しました。途中数千騎という劉邦軍に追いつかれ、項羽の周りには28騎しかいませんでした。

 最後まで堂々とした英傑ぶりを発揮し、大将1人、兵士100人近くを切り伏せたのです。この時項羽が失ったのはたった2騎だったといいます。

 さらに南下した項羽は、烏紅へ至るとそこには船が用意されていました。船頭は江東に逃げるよう進言しますが、項羽はそれを断ります。馬を船頭に渡すと生き残った26の兵士と共に、劉邦軍を迎え撃ちました。

 項羽は満身創痍となりながらも、1人で数百の劉邦軍兵士を斬ったといいます。そうすると、敵軍の中に見知った顔を見つけ「劉邦は、私の首に莫大な賞金を懸けている、せめてお前にやろう」と自らの首を切って、自害しました。

 すると、何人もの劉邦軍兵士が項羽の遺体に群がり、それは死者も出るほどであったそうです。最後には「呂馬童」「王翳」「楊喜」「呂勝」「楊武」の5人が項羽の首と、それぞれ両手足を分け合い賞金を5分して受けました。

 こうして、楚漢戦争は劉邦の勝利という形で幕を閉じました。

 劉邦は項羽を丁重に葬ると、喪に服し、墓前で涙を流したといいます。さらには、項羽一族を処刑することはなく、「劉」の姓を与えて家を存続させるなど寛大な措置をとりました。

 この後に劉邦が開いた『漢王朝』は前後漢合わせて、400年も続く大きな国となったのです。

\次のページで「『漢王朝』は『秦王朝』の改良型である」を解説!/

『漢王朝』は『秦王朝』の改良型である

楚漢戦争の終結により開かれた王朝が『漢王朝』。漢は前漢後漢合わせて400年近くも続いた、世界で見ても非常に歴史の長い王朝です。

劉邦が『漢王朝』の基盤にしたのは、厳しすぎるほどの法治世を行った始皇帝の方法をかなり踏襲していたといいます。始皇帝の行った法律で支配する方法は、非常に優れた方法だったのですが、あまりにも性急すぎたため、世論がついてこれなかったのです。

その点劉邦は、既に始皇帝が初めていた方法だったため、諸侯の反発も最小限で済んだのではないかと思われます。

始皇帝と同じ時代に生きた人物として「孔子」(こうし)という思想家がいました。孔子は儒教という教えを広めており、人々を導くには必ず人徳が必要になると訴え、始皇帝を批判していたのです。

残念ながら始皇帝の思想弾圧に負けてしまうのですが、『秦王朝』が滅亡したすぐ後に開かれた『漢王朝』を開いた人物こそが人徳溢れる劉邦とは、何だかうまく行き過ぎている気がしますね。

余談ですが、この儒教とは後の世で日本にも入ってきており、徳川家康の開いた『徳川幕府』で一般的な思想として採用されることにもなりました。「目上の人を敬いましょう」などは、現代の日本にも残る、まさに儒教的な思想なのです。

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三国時代・三国志世界史中国史歴史

【中国史】秦滅亡後の政権を決定した「楚漢戦争」その戦いを中国史マニアがわかりやすく解説

今日は、秦王朝滅亡後の中国政権をめぐった戦い『楚漢戦争』について勉強していこう。

それは西楚の覇王「項羽」と漢中の王「劉邦」との間で行われた、紀元前206年から紀元前202年の4年間の戦いです。日本では小説にもなっている「項羽と劉邦」で知っている人もいるでしょうな。この戦いがどのように起き、収束していったのかをわかりやすくまとめておいた。

年間100冊以上を読む読書家で、中国史マニアのライターKanaと一緒に解説していきます。

ライター/Kana

年間100冊以上を読破する読書家。現在はコーチ業に就いており、わかりやすい説明が得意。中国史マニアでもあり、今回は「楚漢戦争」について、わかりやすくまとめた。

始まりは「秦」王朝への大反乱から

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By JesseW900投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, Link

 紀元前221年、春秋戦国時代を経て『秦』という国が中国をはじめて統一しました。当主は中国において最初の皇帝となる『始皇帝』です。

 始皇帝は文字の統一や郡県制の実施など、様々な改革を急速に推し進めました。『万里の長城』や『阿房宮』という宮殿の建設に受刑者や農民を何十万人と使役し、思想政策も断行したのです。

 民たちに対する過酷な労働と、極度の法治主義、さらに儒教の弾圧まで加えてしまったことで、始皇帝への不満は高まり、反乱の芽を育ててしまいました。紀元前210年、始皇帝が死去すると、身辺の世話をしていた宦官らが皇帝の血縁者を大量虐殺し、その権力をほしいままにしました。

 こういった暴政が続いたため、紀元前209年、大反乱が起きました。

 「陳勝」(ちんしょう)と「呉広」(ごこう)が蜂起したこの反乱は、中国史上において初めての農民による反乱でした。反乱軍の勢いはすさまじくあっという間に都『咸陽』に攻め入ると、陥落させてしまいました。

 これが『秦』王朝の滅亡です。建国からわずか13年でした。

楚の将軍の家に生まれた英雄の孫「項羽」

 『秦』王朝への反乱軍の中には「項羽」(こうう)の姿がありました。項羽は楚の将軍家に生を受けており、当時としては非常に高い教育を受けていたようです。

 体格に優れ、才能溢れる人物で、文字や剣術などはすぐさま身に着け学びをやめてしまいます。項羽が熱中したのが、兵法です。これには項羽も興味を惹かれましたが、しかしこれもあっというまに身につけてしまうのでした。

 項羽が9歳の時に破竹の勢いであった『秦』に、故国である『楚』を滅ぼされてしまいました。『呉』の国に亡命を果たすと、24歳で反乱を起こすまで、武将である叔父「項梁」(こうりょう)の下で過ごしました。

庶民の三男として生まれ、まともな読み書きも出来なかった「劉邦」

 一方の劉邦は、全くの庶民の出でした。教育などもないような村で育ったそうで、まともな読み書きも出来なかったといいます。さらには、中年期までろくな定職も持たずに過ごしていたのです。

 しかし、その一方で多くの人に好かれていた人望を備えてしました。劉邦のこの人徳は、まさしく彼の大きな財産といえるものでしょう。

 劉邦の幼馴染に「盧綰」(ろわん)と「樊噲」(はんかい)という人物がおり、後に共に蜂起します。特に盧綰は同じ日に生まれ、父親同士が仲が良かったことから幼少期から親しく育ったのです。親しくして育った。

 劉邦の風貌としては、鼻が高く立派な髭を蓄えており、いわゆる『龍顔』といわれました。また、太股に72の黒子があったといいます。72とは1年を五行思想の5で割った数で、当時では非常に縁起の良い数字でした。

 

「秦」侵攻の大金星は、劉邦

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 反乱軍は『楚』と名乗っており、楚の王として前王である『壊王』の孫にあたる「心」を迎え『懐王心』として即位させていました。

 この懐王心は、諸侯にとある約束をします。「咸陽(かんよう・秦の本拠地)に一番乗りを果たした者には、秦の土地をそのまま与える」というものです。

 もちろんこの話は、項羽も劉邦も知っています。秦への攻勢はいっそう激しいものとなりました。

 項羽は、道中の敵を全て討ち果たし、皆殺しにしていきます。降伏を申し出たものであっても、生き埋めにしてしまうなど凄まじい所業であったそうです。

 一方劉邦は、戦わなくとも良い場面であれば、積極的に戦いを避けていました。降伏を申し出た者も、許し自軍に組み込んでいったのです。

 行路はそれぞれ違ったのですが、咸陽に一番乗りを果たしたのは、劉邦でした。

 楚軍の勢いに押され離反者が相次ぐ秦王朝を、劉邦は咸陽と容易く落とすと、財宝には一切手を出さず、秦王もそのまま咸陽に留め置いていたのです。


 この時の項羽の怒りは計り知れません。実質的には、項羽の活躍で秦軍を降したようなもの。そんな自負がありました。しかし、壊王心の諸侯への約束は絶対。いくら敵を倒そうとも、劉邦が一番乗りであることは事実であり、此度の侵攻の大金星は劉邦だったのです。

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