今日は西郷隆盛について勉強します。身分の低い家に生まれた西郷隆盛ですが、やがては明治維新の功労者となり、維新の三傑の一人としてこうして歴史に名を残す人物となった。

そして、明治政府側だった西郷隆盛はなぜか西南戦争では政府と戦う薩摩側について最期の時を迎えたのです。そんな波乱万丈の人生を誕生からしっかり覚えていこう!今回、日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から西郷隆盛をわかりやすくまとめた。

西郷隆盛の誕生から庭方役になるまで

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身分の低い家に生まれた西郷隆盛

西郷隆盛は1828年、薩摩国鹿児島城下の加治屋町にて西郷九郎隆盛の長男として誕生しました。西郷氏の家格(家系における格式や評価のこと)は御小姓与であり、これは下から数えて二番目の身分となる下級藩士のことです。

ちなみに、西郷隆盛は力ではなく知恵を武器にするイメージがあるのではないでしょうか。実際に西郷隆盛は子供の頃に武術を諦めており、これは友人の喧嘩を仲裁する際に刀で神経が切れてしまったためで、一時は重症に陥ったほどでした。

さて、刀を握れない西郷隆盛は学問で身を立てることを目指します。1841年に元服すると吉之介隆永と名乗り、下加治屋町郷中の二才組に昇進したのです。郷中とは「ごじゅう」と読み、薩摩藩の武士階級子弟の教育法であり、その起源は島津義弘(しまづよしひろ)とされています。

人生の転機となった郡方書役助

1844年、西郷隆盛は迫田利済(さこたとしなり)に郡方書役助として雇われました。農村の実情調査と年貢を集める仕事ですが、「助」となっていることからアルバイトのような補助的な役割だったのでしょう。

そのためか郡方書役助は当時出世を期待できない職であり、しかし西郷隆盛はここで例外的な出世を果たします。これは西郷隆盛が農政に関係した嘆願書を提出したためで、それがきっかけとなって藩主の島津斉彬(しまづなりあきら)の目にとまったのです。

1854年には参勤交代の島津斉彬のお供として一緒に江戸に行き、そこで西郷隆盛は庭方役の役職に任命されました。庭方役は文字どおり庭の掃除が仕事ですが、島津斉彬は別の意味を込めて西郷隆盛を庭方役に任命、それは下級藩士の西郷隆盛が気軽に身分の高い人々と顔を合わせられる機会を作るためだったのです。

島津斉彬の死から月照との入水まで

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悲しみの底に突き落とした島津斉彬の死

1858年、大老となった井伊直弼(いいなおすけ)が日米修好通商条約に調印、さらには徳川家茂(とくがわいえもち)を将軍継嗣に決定したことで安政の大獄が行われました。安政の大獄とは江戸幕府が行った弾圧のことです。同じ頃、西郷隆盛は鹿児島で松平慶永(まつだいらよしなが)からの江戸と京都の情勢を記した書簡を島津斉彬にもたらしていました。

島津斉彬は鹿児島城下天保山で薩軍の大軍事調練を行いますが、そのわずか一週間後ほどに急逝してしまいます。島津斉彬の死後、島津斉彬の弟である島津久光(しまづひさみつ)の子の島津茂久(しまづもちひさ)が家督相続、島津久光は後見人になりました。ただ、藩の実権は島津斉彬の父・島津斉興(しまづなりおき)が握ります。

島津斉彬の死を聞いた西郷隆盛は悲しみに明け暮れ、その悲しみは後を追って殉死を決意させるほどのものでした。この時、西郷隆盛は月照(げっしょう)に説得されて殉死を思いとどまり、島津斉彬の遺志を継ぐことにしたのです。

入水で奇跡的に生きていた西郷隆盛

月照は幕末期の尊王攘夷派の僧侶で、西郷隆盛と親交がありました。西郷隆盛は当時安政の大獄で恐怖政治を行っていた井伊直弼を退けて幕政改革を企てますが、それは容易ではなく、また月照も危険な身となってしまったのです。月照の身を案じた西郷隆盛は、月照を有村俊斎(ありむらしゅんさい)に託して鹿児島に送らせようとします。

しかし、平野国臣(ひらのくにおみ)に伴われて月照が鹿児島にやってきたものの、藩当局は月照を東目に追放することを決定しました。これは、藩当局が幕府からの追求を怖れたための決定事項でしょう。東目への追放は道中での斬り捨てを意味しており、悲観した西郷隆盛と月照は海に身を投げて入水による自殺を試みます。

入水によって月照は死亡しますが、何と西郷隆盛は奇跡的に生きていたのです。西郷隆盛が回復した後、藩当局は西郷隆盛を死んだものとして扱って墓まで用意、さらに生き残った西郷隆盛を幕府の目から隠すため、奄美大島で潜居させることにしました。

潜居生活から鹿児島に戻るまで

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二度の島流しに遭った西郷隆盛

西郷隆盛は奄美大島では菊池源吾と改名しますが、これは潜居生活における一時的な改名です。そして、西郷隆盛は大久保利通(おおくぼとしみち)らとやりとりを繰り返して情報収集に努めます。またこの頃、日本では歴史を動かす大きな事件が発生しました。

それが1860年の桜田門外の変であり、恐怖政治を行っていた井伊直弼が殺害されたのです。また奄美大島で潜居を続けていた西郷隆盛でしたが、帰還命令が出されたことで再び鹿児島に戻ってきました。ただ、鹿児島に戻った西郷隆盛にまたも苦難が訪れます。

西郷隆盛は藩主の父である島津久光と対立してしまい、鹿児島に戻ってわずか数ヶ月で今度は徳之島、さらにその後に沖永良部島への遠島を命じられてしまいました。奄美大島の時と違い、今度は島津久光の逆鱗に触れたことによる罪による遠島……つまり流刑の処分になったのです。

西郷隆盛の力を求める薩摩藩

沖永良部島では座敷牢にも入れられた西郷隆盛でしたが、絶望することなく学問に励んでいました。そして同じ頃、日本では薩英戦争が勃発します。薩英戦争とは1863年にイギリスと薩摩藩の間に起こった戦争で、事の発端は前年……つまり1862年に発生した生麦事件でした。

生麦事件とは、島津久光の行列に複数の騎馬のイギリス人が乱入したことで、供回りについていた藩士が彼らを殺傷した事件のことを言います。この事件の解決と補償を迫るイギリス、一方実力でこれを阻止しようとする薩摩藩兵、それぞれが鹿児島湾で激突したのが薩英戦争です。

さらにクーデターとなる八月十八日の政変も起こり、薩摩藩内ではこの苦しい状況を打破するために西郷隆盛の力が必要と考えるようになりました。西郷隆盛を呼び戻すべきという意見が多くなる中、対立関係にあった島津久光もこれに同意したのです。こうして、西郷隆盛は鹿児島に戻ってきました。

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軍賦役への任命から隠居生活まで

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明治維新の立役者として活躍する西郷隆盛

1864年、沖永良部島から鹿児島に戻ってきた西郷隆盛は、島津久光に早速京都に呼び出されると軍賦役に任命されます。同年に起こった禁門の変では薩摩軍を指揮する役割をこなし、また1866年には関係悪化となっていた長州藩と薩長同盟を結びました。

西郷隆盛は王政復古の大号令でクーデターも成功、徳川慶喜を追い込んで明治維新の立役者となったのです。さらに、大政奉還後に勃発する戊辰戦争においても西郷隆盛は活躍します。東征大総督府下参謀に任命されると、その二週間後には東海道の要衝箱根を占領しました。

さらにその後は、勝海舟(かつかいしゅう)との会談を経て江戸城明け渡しの交渉も行います。新政府側は江戸城の総攻撃を予定していましたが、西郷隆盛が勝海舟と会談したことでお互い血を流すことなく江戸城明け渡しが決まり、これが江戸無血開城です。

隠居生活を望んだ西郷隆盛が再び上京

西郷隆盛は、戊辰戦争の最後の舞台となる箱館戦争にも応援のため藩兵を率いて向かいました。ただしこれについては到着した時には既に戦いが終わっており、すなわち戊辰戦争の終了となります。役割を終えた実感のあった西郷隆盛は、鹿児島に戻っての隠居生活を考えたのでしょう。

一方の新政府……つまり明治政府には困難な問題が次々と生じました。重税に苦しむ民衆らによる一揆、新政府に反対する者達による暴動、さらには新政府内でも人事における派閥争いが起こっていたのです。

この時、新政府は薩摩藩の大久保利通や長州藩の木戸孝允(きどたかよし)らが中心となっていましたが、現状打開のためには鹿児島に戻った西郷隆盛の力が再び必要だと考えます。こうして頼りにされた西郷隆盛は、新政府の力となるため今一度上京を決意したのでした。

明治政府との決別から最期まで

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明治政府と決別した西郷隆盛

再び政治の仕事に携わることになった西郷隆盛の活躍はまだ続きます。騒動が起こることなく廃藩置県を行い、また岩倉具視(いわくらともみ)をリーダーとした岩倉使節団の留守中の明治政府の最高責任者も務めました。そんな西郷隆盛の運命を一変させたのは朝鮮への対応です。

当時の朝鮮は江戸時代の日本同様に鎖国体制をとっており、これに対して明治政府内では武力行使で開国させるべきという意見もありました。ただ西郷隆盛はこれを反対、使節の派遣をすべきと提案しましたが、その西郷隆盛の提案は大久保利通や岩倉具視らに反対されて中止となったのです。

これを不服と思ってか、西郷隆盛は辞職して明治政府を離れることになります。そして、明治政府に不満を持っていた薩摩藩の士族達は西郷隆盛を支持する形になったのです。荒れる士族達の姿に反乱を危惧した西郷隆盛は、私学校を設立して士族達の教育をしようと考えます。しかし、その行動が日本史上最後の内戦となる西南戦争の勃発を招くのでした。

西南戦争と西郷隆盛の最期

西郷隆盛は士族達を教育する目的で私学校を設立しましたが、明治政府はそれを危険視、鹿児島県下の火薬や弾薬の移動やさらには西郷隆盛を暗殺計画まで立ててしまいます。それを知った士族達は明治政府との戦争を決意、あくまで話し合いを望む西郷隆盛でしたが、薩摩の士族達の高ぶる気持ちを抑えられず、自らリーダーとなって戦うのでした。

そしてついに勃発した戦争こそ、1877年日本史上最後の内戦と呼ばれる西南戦争なのです。一旦は熊本城を取り囲んで軍勢的にも優位だった薩摩軍でしたが、明治政府軍の度重なる援軍もあって難攻不落の熊本城を落とせませんでした。

田原坂の戦いなどで多く犠牲を出した薩摩軍の兵力はどんどん削がれていき、やがて追い詰められて敗北します。西郷隆盛も銃弾で重症を負い、最後は付き添いの介錯によって死亡しました。こうして西郷隆盛の人生は西南戦争の終わりとともに幕を閉じたのです。

「一生全て」ではなくポイントを絞って覚えよう

西郷隆盛は、一生の中で多くの人物や戦いと関わっています。このため、西郷隆盛の一生を細かく明記した年表を覚えようとすると正直嫌気がさすかもしれないですね。

ですから、ここではそんな一生の中で重要なポイントをピックアップしてまとめました。また、西郷隆盛は明治維新の功労者ですから、最も覚えるべきなのは明治政府が関わってきてからのことでしょう。

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幕末日本史歴史江戸時代

3分で簡単!「西郷隆盛」の波乱万丈の一生を元塾講師がわかりやすく解説

今日は西郷隆盛について勉強します。身分の低い家に生まれた西郷隆盛ですが、やがては明治維新の功労者となり、維新の三傑の一人としてこうして歴史に名を残す人物となった。

そして、明治政府側だった西郷隆盛はなぜか西南戦争では政府と戦う薩摩側について最期の時を迎えたのです。そんな波乱万丈の人生を誕生からしっかり覚えていこう!今回、日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から西郷隆盛をわかりやすくまとめた。

西郷隆盛の誕生から庭方役になるまで

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身分の低い家に生まれた西郷隆盛

西郷隆盛は1828年、薩摩国鹿児島城下の加治屋町にて西郷九郎隆盛の長男として誕生しました。西郷氏の家格(家系における格式や評価のこと)は御小姓与であり、これは下から数えて二番目の身分となる下級藩士のことです。

ちなみに、西郷隆盛は力ではなく知恵を武器にするイメージがあるのではないでしょうか。実際に西郷隆盛は子供の頃に武術を諦めており、これは友人の喧嘩を仲裁する際に刀で神経が切れてしまったためで、一時は重症に陥ったほどでした。

さて、刀を握れない西郷隆盛は学問で身を立てることを目指します。1841年に元服すると吉之介隆永と名乗り、下加治屋町郷中の二才組に昇進したのです。郷中とは「ごじゅう」と読み、薩摩藩の武士階級子弟の教育法であり、その起源は島津義弘(しまづよしひろ)とされています。

人生の転機となった郡方書役助

1844年、西郷隆盛は迫田利済(さこたとしなり)に郡方書役助として雇われました。農村の実情調査と年貢を集める仕事ですが、「助」となっていることからアルバイトのような補助的な役割だったのでしょう。

そのためか郡方書役助は当時出世を期待できない職であり、しかし西郷隆盛はここで例外的な出世を果たします。これは西郷隆盛が農政に関係した嘆願書を提出したためで、それがきっかけとなって藩主の島津斉彬(しまづなりあきら)の目にとまったのです。

1854年には参勤交代の島津斉彬のお供として一緒に江戸に行き、そこで西郷隆盛は庭方役の役職に任命されました。庭方役は文字どおり庭の掃除が仕事ですが、島津斉彬は別の意味を込めて西郷隆盛を庭方役に任命、それは下級藩士の西郷隆盛が気軽に身分の高い人々と顔を合わせられる機会を作るためだったのです。

島津斉彬の死から月照との入水まで

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