幕末日本史歴史江戸時代

幕末の四賢侯のひとり「山内容堂」個性的な土佐藩主について歴女がわかりやすく解説

今回は山内容堂を取り上げるぞ。

幕末の土佐藩主なのに、土佐出身の坂本龍馬とは無関係なのか、

その辺のところを幕末にやたら詳しいあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。幕末の人物には勤王佐幕関係なく、誰にでも興味津々。土佐の鯨海酔侯(げいかいすいこう)山内容堂について、5分でわかるようにまとめた。

1-1、山内容堂は分家の出身

山内容堂(ようどう)は文政10年(1827年)、土佐藩主山内家の分家である石高1500石の南邸家で誕生。父は土佐藩連枝の南邸山内家の山内豊著(とよあきら)で12代藩主山内豊資の弟にあたる人、母は側室で郷士の平石氏出身の瀬代、容堂は長男で妹と弟が一人ずつ。

南邸山内家は藩公の連枝(分家)である五家の中での序列は最下位。
藩主の子弟は江戸屋敷で生まれて育つものですが、容堂は一生飼い殺しの分家なので高知城下の屋敷で生まれて育ちました。

幼名は輝衛、元服して諱を豊信(とよしげ)、号は忍堂または容堂(ようどう)。鯨海酔侯(げいかいすいこう)とも。
ここでは容堂で統一。

1-2、容堂の少年時代

容堂はまるで武芸者のように、北条流の軍学、吉田流の弓術、馬術は大坪流、槍術は以心流、剣術は無外流を学び、なかでも14歳から長谷川流居合術を学んで18歳で目録に。居合の腕前は、殿はこれで飯が食えると言われたほどで、後に板垣退助が「7日7夜の間休みなしの稽古を続けた。数人の家来がこれに参加したものだが、あまりの烈(はげ)しさにみな倒れて、最後まで公のお相手をしたものは、わずか2人か、3人にすぎなかった」と回顧。また、漢詩を箕浦万次郎、文章は松岡毅軒に学んだということ。

1-3、藩主の相次ぐ急死で、土佐藩お家断絶のピンチ

嘉永元年(1848年)7月10日(実際は6月16日)、13代藩主山内豊熈(とよてる)が34歳で江戸で急死。土佐藩は急遽豊煕の弟の豊惇(とよあつ)を末期養子として幕府に届け出たのですが、その豊惇までもが、9月18日に25歳で突然急死。

豊惇の土佐藩主就任が幕府に認められたのは9月6日のことだったので、豊惇の藩主であったのは、わずか12日、将軍へのお目見えもまだなのに、またまた藩主が急死してしまい、しかも豊惇には子供がなく、3歳の弟がいるのみ。土佐藩は幕府の認めた跡継ぎなしで、お家断絶、領地没収という絶体絶命のピンチに。

2-1、容堂、22歳で土佐藩主に

image by PIXTA / 47916377

ということで、土佐藩家老たちは前藩主豊熈の正室候姫(こうひめ 島津斉興の娘で斉彬の実妹)の実家の薩摩藩島津家、それに島津斉彬の友人でもあり、こういう調停ごとが得意な宇和島藩主伊達宗城、斉彬と候姫の大叔父でもある福岡藩主黒田長溥(ながひろ)などに頼みこみ、老中首座の阿部正弘に働きかけてもらい、豊惇の死を隠し、病気のために隠居したことにして幕府に届け出て、その間に従弟である分家の容堂を養子として認めてもらうことに。

こういった周囲の努力によって、嘉永元年(1848年)12月27日、分家で当時22歳の容堂が15代土佐藩主に。

容堂は、思いもよらないことで土佐藩主になり、尽力してもらった島津斉彬(もちろんその妹の候姫にも)、伊達宗城などの恩を忘れず、幕府にも恩を感じていたそうで、その後の容堂の倒幕的行動を制限したという説も。 尚、山内 豊資(やまうち とよすけ)、土佐藩の12代藩主は隠居として存命。

2-2、容堂、藩主になって猛勉強

容堂は武術の稽古とか体育会系で、しかも大酒飲みで、あまり勉強しなかったのですが、藩主になってからは家臣が昌平黌の試験でも受けるのかと呆れるほど猛勉強したということ。

2-3、容堂、藩政改革に乗り出す

藩主の座に就いた容堂は、門閥、旧臣による藩政を嫌い、革新派の「新おこぜ組」の中心人物であった吉田東洋を起用。

嘉永6年(1853年)、東洋を新設の参政に任命して、西洋軍備採用、海防強化、財政改革、藩士の長崎遊学、身分制度改革、文武官設立などの藩政改革を。
安政元年(1854年)6月、東洋は山内家姻戚に当たる旗本の松下嘉兵衛(秀吉が最初に仕えた人の子孫)との間に酒を読んでいさかいをおこして失脚、謹慎の身になったが、3年後の安政4年(1857年)再登用され、東洋は後に藩の参政となる後藤象二郎、福岡孝弟らを起用法律書『海南政典』を定めて、門閥打破、殖産興業、軍制改革、開国貿易等、富国強兵を目的に革新的な改革を断行。

また、安政の大獄では、藩主容堂の蟄居謹慎は免れなかったが、越前藩では橋本左内、長州藩の吉田松陰などが断罪されたのにくらべ、土佐藩は容堂の側近、小南五郎右衛門が永の国許永押込程度だったのは、吉田東洋の手腕という話も。

2-4、容堂、4賢侯と呼ばれ、将軍継嗣問題に首を突っ込むように

image by PIXTA / 38389581

容堂は、福井藩主の松平春嶽、宇和島藩主の伊達宗城、薩摩藩主の島津斉彬、水戸藩主徳川斉昭らと交流、幕末の4賢侯と称されるように
ペリーの黒船来航後、老中が広く意見を求めたとはいえ、今までの大名が禁じられていたこと、幕政にも積極的に口を挟むようになり、老中阿部正弘に幕政改革を訴えるまでに。

そして阿部正弘の死後、大老に就いた井伊直弼と将軍継嗣問題で真っ向から対立。
13代将軍家定が病弱で嗣子が無かったため、容堂ほか4賢侯、水戸藩主斉昭らは、このややこしい時代にしっかりした次期将軍でなくてはと、英邁の評判が高かった一橋慶喜を大プッシュ。一方、井伊は将軍と血筋が近いという理由で幼年の紀州藩主慶福(よしとみ)を推挙。

容堂は公家の三条実万(さねつむ)の養女と結婚していたので、三条家と姻戚なのを利用して密書を送り、朝廷を動かして井伊の暴走を止めようとしたのですね。
京都には志士が集まっていて公家を動かしているところに、4賢侯も加わったという感じで、いっそう朝廷(公家)の勢いがついたわけで、これにより京都と江戸の勢力の二重構造になったのは容堂の影響と「酔って候」司馬遼太郎著に。
しかし井伊は大老の権力を笠に4賢侯を排除するために、安政の大獄が勃発、慶福が14代将軍家茂に。
容堂は憤慨して、安政6年(1859年)2月、隠居願いを幕府に提出、しかし10月には斉昭、春嶽、宗城らと共に、幕府から蟄居謹慎に。

容堂の隠居で、前藩主の弟である養子豊範(とよのり)が16代土佐藩主に。

3-1、容堂、江戸では藤田東湖や志士と語らう

Yamanouti Yōdō.jpg
By 内田九一 – 高知県立歴史民俗資料館所蔵品。, パブリック・ドメイン, Link

容堂は隠居後、忍堂と号したが、藤田東湖のすすめで容堂に改名。
藩主時代も江戸の三道場と言われた千葉周作、斎藤屋弥九郎、桃井春蔵と門人たちを招き、「土佐の大寄せ」と言われる大試合を開催したと言われていますが、隠居後も屋敷に有名な志士や学者らを招いてお酒を飲んで懇談し、話の分かる大名としてもてはやされたということ。

また容堂は、思想的には4賢侯共通の公武合体派だったが、藩内の勤皇志士を弾圧する一方で朝廷に奉仕、幕府にも良かれという感じで主張するため、幕末の政局に混乱をもたらしたうえに、「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」といわれたり、のちには政敵となった西郷隆盛には、単純な佐幕派の方が始末がいいのにと言われたそう。
容堂は学識もあり、たいていの論客は論破してしまったといわれていますが、どうも気持ちが先に立つのと酒好きすぎるのとで、人を引き付けるカリスマ的な魅力はあったようでも、なにをしたのかわからないところが。

3-2、容堂謹慎中に国元でクーデター勃発

桜田門外の変以降は、全国的に尊王攘夷が主流になりカオスの時代に突中。
土佐藩でも、武市半平太瑞山を首領とする土佐勤王党が台頭、吉田東洋の改革は、保守的な門閥勢力、尊皇攘夷を唱える土佐勤王党との政治的対立が嵩じ、文久2年4月8日(1862年5月6日)、東洋は藩主豊範に「日本外史」の本能寺の変の進講後の帰邸途中に、武市半平太の指令を受けたという土佐勤王党の那須信吾、大石団蔵、安岡嘉助によって暗殺。

吉田東洋はかなり癖のある人物で、容堂はこの人物を使いこなせるのは自分だけと自分に酔っていたところも。
武市半平太瑞山は、門閥家老らと結んで藩政を掌握。

3-3、容堂、郷士出身の志士には無関心

容堂の母は郷士の出だったはずなのですが、容堂は山内家の藩主として、長宗我部侍である坂本龍馬、武市半平太、中岡慎太郎などには関心がないというよりも、蔑視していたそう。

司馬遼太郎氏によると、土佐における郷士の長宗我部侍と上士は、アメリカでのネイティブ・アメリカンとヨーロッパからの開拓民との関係と酷似しているとまで。
なので、容堂は幕臣の勝海舟とは知り合いで、勝が自分の弟子の坂本龍馬の話をしても「そんな奴は知らん」の一点張りだったのは、なんとも残念な対応ですよね。

\次のページで「3-5、容堂、謹慎をとかれて土佐に帰国、藩政を掌握して弾圧を」を解説!/

次のページを読む
1 2
Share: