今回は山内容堂を取り上げるぞ。

幕末の土佐藩主なのに、土佐出身の坂本龍馬とは無関係なのか、

その辺のところを幕末にやたら詳しいあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。幕末の人物には勤王佐幕関係なく、誰にでも興味津々。土佐の鯨海酔侯(げいかいすいこう)山内容堂について、5分でわかるようにまとめた。

1-1、山内容堂は分家の出身

山内容堂(ようどう)は文政10年(1827年)、土佐藩主山内家の分家である石高1500石の南邸家で誕生。父は土佐藩連枝の南邸山内家の山内豊著(とよあきら)で12代藩主山内豊資の弟にあたる人、母は側室で郷士の平石氏出身の瀬代、容堂は長男で妹と弟が一人ずつ。

南邸山内家は藩公の連枝(分家)である五家の中での序列は最下位。
藩主の子弟は江戸屋敷で生まれて育つものですが、容堂は一生飼い殺しの分家なので高知城下の屋敷で生まれて育ちました。

幼名は輝衛、元服して諱を豊信(とよしげ)、号は忍堂または容堂(ようどう)。鯨海酔侯(げいかいすいこう)とも。
ここでは容堂で統一。

1-2、容堂の少年時代

容堂はまるで武芸者のように、北条流の軍学、吉田流の弓術、馬術は大坪流、槍術は以心流、剣術は無外流を学び、なかでも14歳から長谷川流居合術を学んで18歳で目録に。居合の腕前は、殿はこれで飯が食えると言われたほどで、後に板垣退助が「7日7夜の間休みなしの稽古を続けた。数人の家来がこれに参加したものだが、あまりの烈(はげ)しさにみな倒れて、最後まで公のお相手をしたものは、わずか2人か、3人にすぎなかった」と回顧。また、漢詩を箕浦万次郎、文章は松岡毅軒に学んだということ。

1-3、藩主の相次ぐ急死で、土佐藩お家断絶のピンチ

嘉永元年(1848年)7月10日(実際は6月16日)、13代藩主山内豊熈(とよてる)が34歳で江戸で急死。土佐藩は急遽豊煕の弟の豊惇(とよあつ)を末期養子として幕府に届け出たのですが、その豊惇までもが、9月18日に25歳で突然急死。

豊惇の土佐藩主就任が幕府に認められたのは9月6日のことだったので、豊惇の藩主であったのは、わずか12日、将軍へのお目見えもまだなのに、またまた藩主が急死してしまい、しかも豊惇には子供がなく、3歳の弟がいるのみ。土佐藩は幕府の認めた跡継ぎなしで、お家断絶、領地没収という絶体絶命のピンチに。

2-1、容堂、22歳で土佐藩主に

image by PIXTA / 47916377

ということで、土佐藩家老たちは前藩主豊熈の正室候姫(こうひめ 島津斉興の娘で斉彬の実妹)の実家の薩摩藩島津家、それに島津斉彬の友人でもあり、こういう調停ごとが得意な宇和島藩主伊達宗城、斉彬と候姫の大叔父でもある福岡藩主黒田長溥(ながひろ)などに頼みこみ、老中首座の阿部正弘に働きかけてもらい、豊惇の死を隠し、病気のために隠居したことにして幕府に届け出て、その間に従弟である分家の容堂を養子として認めてもらうことに。

こういった周囲の努力によって、嘉永元年(1848年)12月27日、分家で当時22歳の容堂が15代土佐藩主に。

容堂は、思いもよらないことで土佐藩主になり、尽力してもらった島津斉彬(もちろんその妹の候姫にも)、伊達宗城などの恩を忘れず、幕府にも恩を感じていたそうで、その後の容堂の倒幕的行動を制限したという説も。 尚、山内 豊資(やまうち とよすけ)、土佐藩の12代藩主は隠居として存命。

2-2、容堂、藩主になって猛勉強

容堂は武術の稽古とか体育会系で、しかも大酒飲みで、あまり勉強しなかったのですが、藩主になってからは家臣が昌平黌の試験でも受けるのかと呆れるほど猛勉強したということ。

2-3、容堂、藩政改革に乗り出す

藩主の座に就いた容堂は、門閥、旧臣による藩政を嫌い、革新派の「新おこぜ組」の中心人物であった吉田東洋を起用。

嘉永6年(1853年)、東洋を新設の参政に任命して、西洋軍備採用、海防強化、財政改革、藩士の長崎遊学、身分制度改革、文武官設立などの藩政改革を。
安政元年(1854年)6月、東洋は山内家姻戚に当たる旗本の松下嘉兵衛(秀吉が最初に仕えた人の子孫)との間に酒を読んでいさかいをおこして失脚、謹慎の身になったが、3年後の安政4年(1857年)再登用され、東洋は後に藩の参政となる後藤象二郎、福岡孝弟らを起用法律書『海南政典』を定めて、門閥打破、殖産興業、軍制改革、開国貿易等、富国強兵を目的に革新的な改革を断行。

また、安政の大獄では、藩主容堂の蟄居謹慎は免れなかったが、越前藩では橋本左内、長州藩の吉田松陰などが断罪されたのにくらべ、土佐藩は容堂の側近、小南五郎右衛門が永の国許永押込程度だったのは、吉田東洋の手腕という話も。

2-4、容堂、4賢侯と呼ばれ、将軍継嗣問題に首を突っ込むように

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容堂は、福井藩主の松平春嶽、宇和島藩主の伊達宗城、薩摩藩主の島津斉彬、水戸藩主徳川斉昭らと交流、幕末の4賢侯と称されるように
ペリーの黒船来航後、老中が広く意見を求めたとはいえ、今までの大名が禁じられていたこと、幕政にも積極的に口を挟むようになり、老中阿部正弘に幕政改革を訴えるまでに。

そして阿部正弘の死後、大老に就いた井伊直弼と将軍継嗣問題で真っ向から対立。
13代将軍家定が病弱で嗣子が無かったため、容堂ほか4賢侯、水戸藩主斉昭らは、このややこしい時代にしっかりした次期将軍でなくてはと、英邁の評判が高かった一橋慶喜を大プッシュ。一方、井伊は将軍と血筋が近いという理由で幼年の紀州藩主慶福(よしとみ)を推挙。

容堂は公家の三条実万(さねつむ)の養女と結婚していたので、三条家と姻戚なのを利用して密書を送り、朝廷を動かして井伊の暴走を止めようとしたのですね。
京都には志士が集まっていて公家を動かしているところに、4賢侯も加わったという感じで、いっそう朝廷(公家)の勢いがついたわけで、これにより京都と江戸の勢力の二重構造になったのは容堂の影響と「酔って候」司馬遼太郎著に。
しかし井伊は大老の権力を笠に4賢侯を排除するために、安政の大獄が勃発、慶福が14代将軍家茂に。
容堂は憤慨して、安政6年(1859年)2月、隠居願いを幕府に提出、しかし10月には斉昭、春嶽、宗城らと共に、幕府から蟄居謹慎に。

容堂の隠居で、前藩主の弟である養子豊範(とよのり)が16代土佐藩主に。

3-1、容堂、江戸では藤田東湖や志士と語らう

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By 内田九一 - 高知県立歴史民俗資料館所蔵品。, パブリック・ドメイン, Link

容堂は隠居後、忍堂と号したが、藤田東湖のすすめで容堂に改名。
藩主時代も江戸の三道場と言われた千葉周作、斎藤屋弥九郎、桃井春蔵と門人たちを招き、「土佐の大寄せ」と言われる大試合を開催したと言われていますが、隠居後も屋敷に有名な志士や学者らを招いてお酒を飲んで懇談し、話の分かる大名としてもてはやされたということ。

また容堂は、思想的には4賢侯共通の公武合体派だったが、藩内の勤皇志士を弾圧する一方で朝廷に奉仕、幕府にも良かれという感じで主張するため、幕末の政局に混乱をもたらしたうえに、「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」といわれたり、のちには政敵となった西郷隆盛には、単純な佐幕派の方が始末がいいのにと言われたそう。
容堂は学識もあり、たいていの論客は論破してしまったといわれていますが、どうも気持ちが先に立つのと酒好きすぎるのとで、人を引き付けるカリスマ的な魅力はあったようでも、なにをしたのかわからないところが。

3-2、容堂謹慎中に国元でクーデター勃発

桜田門外の変以降は、全国的に尊王攘夷が主流になりカオスの時代に突中。
土佐藩でも、武市半平太瑞山を首領とする土佐勤王党が台頭、吉田東洋の改革は、保守的な門閥勢力、尊皇攘夷を唱える土佐勤王党との政治的対立が嵩じ、文久2年4月8日(1862年5月6日)、東洋は藩主豊範に「日本外史」の本能寺の変の進講後の帰邸途中に、武市半平太の指令を受けたという土佐勤王党の那須信吾、大石団蔵、安岡嘉助によって暗殺。

吉田東洋はかなり癖のある人物で、容堂はこの人物を使いこなせるのは自分だけと自分に酔っていたところも。
武市半平太瑞山は、門閥家老らと結んで藩政を掌握。

3-3、容堂、郷士出身の志士には無関心

容堂の母は郷士の出だったはずなのですが、容堂は山内家の藩主として、長宗我部侍である坂本龍馬、武市半平太、中岡慎太郎などには関心がないというよりも、蔑視していたそう。

司馬遼太郎氏によると、土佐における郷士の長宗我部侍と上士は、アメリカでのネイティブ・アメリカンとヨーロッパからの開拓民との関係と酷似しているとまで。
なので、容堂は幕臣の勝海舟とは知り合いで、勝が自分の弟子の坂本龍馬の話をしても「そんな奴は知らん」の一点張りだったのは、なんとも残念な対応ですよね。

\次のページで「3-5、容堂、謹慎をとかれて土佐に帰国、藩政を掌握して弾圧を」を解説!/

3-5、容堂、謹慎をとかれて土佐に帰国、藩政を掌握して弾圧を

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By 武市瑞山 - 京都大学付属図書館所蔵品, パブリック・ドメイン, Link

文久3年8月18日(1863年9月30日)、京都では会津藩と薩摩藩による長州藩を追い落としの八月十八日の政変が勃発、長州側の勢力は京都から一掃されて佐幕派が復活、容堂も謹慎を解かれて、土佐に帰国し藩政を掌握。

さっそく東洋を暗殺した土佐勤王党の大弾圧を敢行、党員を片っ端から捕縛して投獄。岡田以蔵らを拷問にかけて自白させ、首領の武市半平太瑞山は切腹、他の党員も死罪などに処し、残りは脱藩したりで、土佐勤王党は壊滅。

3-6、容堂、参預会議に参加するが、水面下では薩長同盟が

文久3年(1863年)末、容堂は上京し、朝廷から参預に任ぜられ国政の諮問機関の参預会議に参加するが、容堂自身は病と称して欠席が多く、参預会議は短期間で崩壊。
水面下では吉田東洋暗殺の直前に脱藩した土佐の志士、坂本龍馬、中岡慎太郎、土方久元の仲介で、慶応2年(1866年)1月22日 薩長同盟が成立し、時代が明治維新へと大きく動き出すことに。

3-7、容堂、四侯会議などに参加、水面下では薩土密約が

容堂は、慶応3年(1867年)5月、薩摩藩主導で設置された四侯会議に参加するが、幕府権力の削減を図る薩摩藩の主導を嫌い、欠席を続けたため、この会議は短期間で崩壊。

しかし同5月21日には、薩摩藩家老小松帯刀(たてわき)の京都邸で、中岡慎太郎の仲介で、土佐藩の乾退助(板垣退助)、谷干城と、薩摩藩の西郷隆盛、吉井友実らが武力討幕を議して薩土密約を締結。翌22日に乾(板垣)によって密約の内容が容堂に報告されたということ。 そして容堂、乾の帰国後に上洛した坂本龍馬、後藤象二郎らにより、薩土密約から約1か月後に、大久保利通、西郷隆盛と土佐藩の後藤、福岡孝弟、寺村左膳、真辺栄三郎が合議して、大政奉還による王政復古を目標に掲げた薩土盟約を締結。

しかし薩土盟約は約2か月半で早々に瓦解、乾と西郷が結んだ薩土密約が次第に重視されていき、土佐藩全体として討幕路線に。

3-8、容堂、龍馬の船中八策を慶喜に建白

容堂は、山内家先祖一豊が関ケ原の戦功ではなく、石田三成の密書をいちはやく家康に手渡したことが、他大名たちが徳川方につくきっかけになったことが評価されて、土佐の国をもらった恩と、また自分の藩主就任のときの恩情的処置を受けたことで、徳川家と幕府を擁護し続けていました。

そして幕府が政権を朝廷に返還するなどを含んだ坂本龍馬の「船中八策」案を後藤象二郎が自分の案として容堂に進言。容堂はこれを老中板倉勝静らを通して15代将軍慶喜に建白し、慶応3年10月14日(1867年11月9日)、慶喜は大政奉還を。

3-9、容堂、小御所会議に出席、泥酔状態で吠えるが不発に

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その後明治政府樹立までの動きは終始、薩摩、長州勢が主導権を握っていたのですが、慶応4年12月9日(1868年1月3日)小御所会議には、薩摩、尾張、越前、芸州の各藩代表と、泥酔状態で遅参した容堂も会議に参加。
容堂は、王政復古の大号令が持論の徳川宗家温存路線と反するために、岩倉具視ら一部公卿による陰謀と決めつけ、大政奉還の功労者の慶喜が会議に呼ばれていないのは不当などと主張。また、なぜ徳川宗家だけに領地を返納させるのかと徳川宗家擁護を行って、徳川家中心の列侯会議の政府を要求。

これは正論なので松平春嶽が同調したが、勢いに乗った容堂はさらに「2、3の公卿が幼沖の天子を擁し、権威をほしいままにしようとしている」と発言。明治天皇は当時16歳、もちろんご本人の意志ではなく容堂の言う通りなんですが、岩倉が「天子を捉まえて幼沖とは何事か」と揚げ足取りで面罵。

その後の会議では容堂は黙ってしまい、討幕強行派のペースに。

3-10、鳥羽伏見の戦い勃発

そして慶応4年(1868年)1月3日、 旧幕府側の発砲で鳥羽伏見の戦いが勃発、薩摩藩はこれに加わらなければ朝敵になると脅したが、容堂は土佐藩兵には戦闘に加わるなと厳命。しかし土佐藩兵らは、容堂の制止をふりきって薩土密約に基づき自発的に官軍側に就いて戦闘に参加。同1月7日、西郷から密書を受け取り、さらに開戦したことを土佐在国中に谷干城から報告を受けた乾退助(板垣)は、薩土密約に基づき迅衝隊を率いて上洛。

容堂は、その後の戊辰戦争で、朝廷から土佐藩兵の東山道への先鋒を命じられたが、資金不足で断ろうとする藩の役人に対し、「まず先発せよ、金は後から送る」と出発させて、乾(板垣退助)率いる土佐迅衝隊に、「天なお寒し、自愛せよ」と言葉をかけたそう。

3-11、堺港事件勃発

鳥羽伏見の戦いのあと、和泉国堺港は土佐藩の管理下に入っていたのですが、慶応4年2月15日(1868年3月8日)にフランス軍艦の水兵が上陸し、不届きな行為をして住人が迷惑していたので、土佐藩兵が水兵11人を殺害した事件が勃発、フランス公使ロッシュは激怒、新政府に賠償を迫ったのですが、フランス艦長や水兵の見守るなか、土佐藩士20名が切腹を命じられて、水兵と同じ11人が切腹したところで中止に。

4、明治後の容堂

慶応3年(1867年)12月9日、新政府の議定に就任し、内国事務総裁に就任。
しかしかつての家臣や領民であった身分の者と馴染めず明治2年(1869年)辞職。

隠居生活は、当時は別荘地だった橋場(東京都台東区)の別邸(綾瀬草堂)で、妾を10数人も囲い、酒と女と作詩に溺れた晩年を送ったということ。
また、連日のように両国、柳橋などの酒楼で豪遊するもので、破産してしまうと家令が諌めると、容堂は「昔から大名が倒産したためしがないので、俺が先鞭をつけてやろう」と豪語した、手が付けられないやんちゃであったそう。

そして武市半平太を殺してしまったため、薩長に対抗できる人物が土佐にいないことで新政府の実権を奪われたと後悔したのか、飲み過ぎると「半平太、許せ」とうわごとのように言った話は有名。

明治5年(1872年)、積年の飲酒が元で脳溢血に倒れ、46歳(数え年)で死去。
幕末の火消しで侠客の相模屋政五郎が容堂が死ぬと殉死しようとしたが、板垣退助に説得されて思い止まったという話があり、妙にその筋の人が惹かれるものを持っていた人だったらしいです。

5-1、容堂の逸話

酒飲みで女好き、漢詩を好み、自分を英傑だと思っていた人なので色々な話が伝わっています。

5-2、酔擁美人楼

容堂の隠居部屋の欄間に掲げた「酔擁美人楼」という額が大名仲間の間で評判だったということで、毛利敬親に関する記録「涙余集」や松平慶永の「逸事史補」にもこの額偏の話が登場。

長州藩主の毛利敬親は、近侍に対して「24万石の大名なのだから美酒でも佳人でも好きなだけ得られるではないか。そういう身分にありながらあえてこの額偏を掲げているのは、自ら豪傑をよそおうものだ」と微笑して言ったそう。毛利の殿様はなかなかの慧眼かも。

5-3、イギリス外交官ミットフォードによる容堂評

容堂は長年の暴飲暴食で、高血圧だったのか、瀉血(しゃけつ、血を抜く治療法)をしたり、また歯槽膿漏もひどく、胃も悪かったということですが、鳥羽伏見の戦い後、京都にいた容堂が重体だということで、イギリス公使館員で有能な外科医でもあるウィリアム・ウィリスと、書記官のA・B・ミットフォードが京都の容堂の屋敷を訪問、容堂がウィリスの治療を受けたときの様子が、「ある英国外交官の明治維新」ヒュー・コータッツィ著に。

ミットフォードによれば、容堂が「47歳とは思えないほど老けていたのは、50年ほど前のイギリスの放埓な政治家のような放縦な道楽者であった」と酒飲みであることにさりげなく触れていて、容堂は「きわめて洗練された優雅な態度で礼儀正しく応対してくれた」ということ。「日本の身分の高い家柄のものには、このような礼儀作法は天性のように身についていた」そして、容堂は「あきらかに人を引き付ける魅力を備えていて、それによって、諸侯に影響力を及ぼすことが出来たのだ」そう。容堂はミットフォードらにはきちんと挨拶し、起こったばかりの堺港の事件が土佐藩兵によって行われたことについても謝罪し、ミットフォードは感動するほど立派だと容堂をベタ褒め。

5-4、木戸孝允とは仲が良かった

明治元年(1868年)9月16日の孝允の日記によれば、明治天皇の御前で酒肴を賜り、そのまま容堂と飲みながら話し込んで大酔、数十杯を重ねた挙句、そのまま江戸城内の御廊下に倒れ込んで前後不覚になったということ。
このせいで容堂は孝允と意気投合したのか、孝允を自邸に招いては明治政府の将来などについて語り合ったそう。

幕末に奔走したけれど、地元の志士は無視

容堂は4賢侯と持ち上げられて幕政に口を出したり、鯨海酔侯と称し、大名の時代も隠居後も、著名な学者や志士を先生と呼んで酒を酌み交わし激論を戦わせ、激動の幕末において京都の朝廷でも大名仲間と政局を動かす存在でした。

しかし肝心の国元のキラ星のような勤王志士たち、坂本龍馬や中岡慎太郎、武市半平太らが長宗我部侍だからと無視し弾圧したというのは、なんとももったいない理不尽なことでは。

そして結局は龍馬の提案の船中八策を後藤象二郎が自分の案として容堂に言上し、慶喜が了承して大政奉還となったというのは、皮肉なことだと思います。

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幕末日本史歴史江戸時代

幕末の四賢侯のひとり「山内容堂」個性的な土佐藩主について歴女がわかりやすく解説

今回は山内容堂を取り上げるぞ。

幕末の土佐藩主なのに、土佐出身の坂本龍馬とは無関係なのか、

その辺のところを幕末にやたら詳しいあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。幕末の人物には勤王佐幕関係なく、誰にでも興味津々。土佐の鯨海酔侯(げいかいすいこう)山内容堂について、5分でわかるようにまとめた。

1-1、山内容堂は分家の出身

山内容堂(ようどう)は文政10年(1827年)、土佐藩主山内家の分家である石高1500石の南邸家で誕生。父は土佐藩連枝の南邸山内家の山内豊著(とよあきら)で12代藩主山内豊資の弟にあたる人、母は側室で郷士の平石氏出身の瀬代、容堂は長男で妹と弟が一人ずつ。

南邸山内家は藩公の連枝(分家)である五家の中での序列は最下位。
藩主の子弟は江戸屋敷で生まれて育つものですが、容堂は一生飼い殺しの分家なので高知城下の屋敷で生まれて育ちました。

幼名は輝衛、元服して諱を豊信(とよしげ)、号は忍堂または容堂(ようどう)。鯨海酔侯(げいかいすいこう)とも。
ここでは容堂で統一。

1-2、容堂の少年時代

容堂はまるで武芸者のように、北条流の軍学、吉田流の弓術、馬術は大坪流、槍術は以心流、剣術は無外流を学び、なかでも14歳から長谷川流居合術を学んで18歳で目録に。居合の腕前は、殿はこれで飯が食えると言われたほどで、後に板垣退助が「7日7夜の間休みなしの稽古を続けた。数人の家来がこれに参加したものだが、あまりの烈(はげ)しさにみな倒れて、最後まで公のお相手をしたものは、わずか2人か、3人にすぎなかった」と回顧。また、漢詩を箕浦万次郎、文章は松岡毅軒に学んだということ。

1-3、藩主の相次ぐ急死で、土佐藩お家断絶のピンチ

嘉永元年(1848年)7月10日(実際は6月16日)、13代藩主山内豊熈(とよてる)が34歳で江戸で急死。土佐藩は急遽豊煕の弟の豊惇(とよあつ)を末期養子として幕府に届け出たのですが、その豊惇までもが、9月18日に25歳で突然急死。

豊惇の土佐藩主就任が幕府に認められたのは9月6日のことだったので、豊惇の藩主であったのは、わずか12日、将軍へのお目見えもまだなのに、またまた藩主が急死してしまい、しかも豊惇には子供がなく、3歳の弟がいるのみ。土佐藩は幕府の認めた跡継ぎなしで、お家断絶、領地没収という絶体絶命のピンチに。

2-1、容堂、22歳で土佐藩主に

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ということで、土佐藩家老たちは前藩主豊熈の正室候姫(こうひめ 島津斉興の娘で斉彬の実妹)の実家の薩摩藩島津家、それに島津斉彬の友人でもあり、こういう調停ごとが得意な宇和島藩主伊達宗城、斉彬と候姫の大叔父でもある福岡藩主黒田長溥(ながひろ)などに頼みこみ、老中首座の阿部正弘に働きかけてもらい、豊惇の死を隠し、病気のために隠居したことにして幕府に届け出て、その間に従弟である分家の容堂を養子として認めてもらうことに。

こういった周囲の努力によって、嘉永元年(1848年)12月27日、分家で当時22歳の容堂が15代土佐藩主に。

容堂は、思いもよらないことで土佐藩主になり、尽力してもらった島津斉彬(もちろんその妹の候姫にも)、伊達宗城などの恩を忘れず、幕府にも恩を感じていたそうで、その後の容堂の倒幕的行動を制限したという説も。 尚、山内 豊資(やまうち とよすけ)、土佐藩の12代藩主は隠居として存命。

2-2、容堂、藩主になって猛勉強

容堂は武術の稽古とか体育会系で、しかも大酒飲みで、あまり勉強しなかったのですが、藩主になってからは家臣が昌平黌の試験でも受けるのかと呆れるほど猛勉強したということ。

2-3、容堂、藩政改革に乗り出す

藩主の座に就いた容堂は、門閥、旧臣による藩政を嫌い、革新派の「新おこぜ組」の中心人物であった吉田東洋を起用。

嘉永6年(1853年)、東洋を新設の参政に任命して、西洋軍備採用、海防強化、財政改革、藩士の長崎遊学、身分制度改革、文武官設立などの藩政改革を。
安政元年(1854年)6月、東洋は山内家姻戚に当たる旗本の松下嘉兵衛(秀吉が最初に仕えた人の子孫)との間に酒を読んでいさかいをおこして失脚、謹慎の身になったが、3年後の安政4年(1857年)再登用され、東洋は後に藩の参政となる後藤象二郎、福岡孝弟らを起用法律書『海南政典』を定めて、門閥打破、殖産興業、軍制改革、開国貿易等、富国強兵を目的に革新的な改革を断行。

また、安政の大獄では、藩主容堂の蟄居謹慎は免れなかったが、越前藩では橋本左内、長州藩の吉田松陰などが断罪されたのにくらべ、土佐藩は容堂の側近、小南五郎右衛門が永の国許永押込程度だったのは、吉田東洋の手腕という話も。

2-4、容堂、4賢侯と呼ばれ、将軍継嗣問題に首を突っ込むように

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容堂は、福井藩主の松平春嶽、宇和島藩主の伊達宗城、薩摩藩主の島津斉彬、水戸藩主徳川斉昭らと交流、幕末の4賢侯と称されるように
ペリーの黒船来航後、老中が広く意見を求めたとはいえ、今までの大名が禁じられていたこと、幕政にも積極的に口を挟むようになり、老中阿部正弘に幕政改革を訴えるまでに。

そして阿部正弘の死後、大老に就いた井伊直弼と将軍継嗣問題で真っ向から対立。
13代将軍家定が病弱で嗣子が無かったため、容堂ほか4賢侯、水戸藩主斉昭らは、このややこしい時代にしっかりした次期将軍でなくてはと、英邁の評判が高かった一橋慶喜を大プッシュ。一方、井伊は将軍と血筋が近いという理由で幼年の紀州藩主慶福(よしとみ)を推挙。

容堂は公家の三条実万(さねつむ)の養女と結婚していたので、三条家と姻戚なのを利用して密書を送り、朝廷を動かして井伊の暴走を止めようとしたのですね。
京都には志士が集まっていて公家を動かしているところに、4賢侯も加わったという感じで、いっそう朝廷(公家)の勢いがついたわけで、これにより京都と江戸の勢力の二重構造になったのは容堂の影響と「酔って候」司馬遼太郎著に。
しかし井伊は大老の権力を笠に4賢侯を排除するために、安政の大獄が勃発、慶福が14代将軍家茂に。
容堂は憤慨して、安政6年(1859年)2月、隠居願いを幕府に提出、しかし10月には斉昭、春嶽、宗城らと共に、幕府から蟄居謹慎に。

容堂の隠居で、前藩主の弟である養子豊範(とよのり)が16代土佐藩主に。

3-1、容堂、江戸では藤田東湖や志士と語らう

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By 内田九一 – 高知県立歴史民俗資料館所蔵品。, パブリック・ドメイン, Link

容堂は隠居後、忍堂と号したが、藤田東湖のすすめで容堂に改名。
藩主時代も江戸の三道場と言われた千葉周作、斎藤屋弥九郎、桃井春蔵と門人たちを招き、「土佐の大寄せ」と言われる大試合を開催したと言われていますが、隠居後も屋敷に有名な志士や学者らを招いてお酒を飲んで懇談し、話の分かる大名としてもてはやされたということ。

また容堂は、思想的には4賢侯共通の公武合体派だったが、藩内の勤皇志士を弾圧する一方で朝廷に奉仕、幕府にも良かれという感じで主張するため、幕末の政局に混乱をもたらしたうえに、「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」といわれたり、のちには政敵となった西郷隆盛には、単純な佐幕派の方が始末がいいのにと言われたそう。
容堂は学識もあり、たいていの論客は論破してしまったといわれていますが、どうも気持ちが先に立つのと酒好きすぎるのとで、人を引き付けるカリスマ的な魅力はあったようでも、なにをしたのかわからないところが。

3-2、容堂謹慎中に国元でクーデター勃発

桜田門外の変以降は、全国的に尊王攘夷が主流になりカオスの時代に突中。
土佐藩でも、武市半平太瑞山を首領とする土佐勤王党が台頭、吉田東洋の改革は、保守的な門閥勢力、尊皇攘夷を唱える土佐勤王党との政治的対立が嵩じ、文久2年4月8日(1862年5月6日)、東洋は藩主豊範に「日本外史」の本能寺の変の進講後の帰邸途中に、武市半平太の指令を受けたという土佐勤王党の那須信吾、大石団蔵、安岡嘉助によって暗殺。

吉田東洋はかなり癖のある人物で、容堂はこの人物を使いこなせるのは自分だけと自分に酔っていたところも。
武市半平太瑞山は、門閥家老らと結んで藩政を掌握。

3-3、容堂、郷士出身の志士には無関心

容堂の母は郷士の出だったはずなのですが、容堂は山内家の藩主として、長宗我部侍である坂本龍馬、武市半平太、中岡慎太郎などには関心がないというよりも、蔑視していたそう。

司馬遼太郎氏によると、土佐における郷士の長宗我部侍と上士は、アメリカでのネイティブ・アメリカンとヨーロッパからの開拓民との関係と酷似しているとまで。
なので、容堂は幕臣の勝海舟とは知り合いで、勝が自分の弟子の坂本龍馬の話をしても「そんな奴は知らん」の一点張りだったのは、なんとも残念な対応ですよね。

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