幕末日本史歴史江戸時代

幕末に活躍した「小松帯刀」薩摩藩の若き家老について歴女がわかりやすく解説

よぉ、桜木健二だ、今回は小松帯刀を取り上げるぞ。

あまり知られていないが、幕末の薩摩藩家老で明治維新でもかなり重要な働きをしたんだよな。

その辺のところを幕末にやたら詳しいあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。幕末の人物には勤王佐幕関係なく、誰にでも興味津々。外国人外交官にも評判が高かった薩摩藩家老小松帯刀について、5分でわかるようにまとめた。

1-1、小松帯刀は薩摩藩上士の生まれ

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By 不明。 – 個人所蔵品。, パブリック・ドメイン, Link

帯刀(たてわき)は、天保6年(1835年)10月14日、薩摩国鹿児島城下山下町の喜入屋敷で誕生。父は喜入領主で5500石の肝付兼善(きもつきかねよし)で、母は島津久貫(又左衛門)の娘。

帯刀は男ばかりの7人兄弟(ひとり早世)の3男(または4男)、通称は尚五郎(なおごろう)のちに帯刀、諱は清廉(きよかど)で、前名は肝付兼戈。帯刀と言うのは百官名(ひゃっかんな)のひとつで、監物(けんもつ)、弾正(だんじょう)、主馬(しゅめ)のように家系や親、本人の官職名を通称として用いた名前です。

帯刀は西郷隆盛よりも8歳年下ですが、下士の西郷とは比べ物にならないほどの良家の出。

1-2、帯刀の子供時代

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両親は次男の要之介を溺愛し、乳母も怒りっぽい人だったので、子供の頃は愛情に恵まれなかったということ。

帯刀は13、4歳頃になると才覚を発揮、儒学者横山安容のもとで学び、3人の弟にも教えたので御付の守役が勉強を教える必要がないほどだったということ。しかし虚弱体質と、昼夜問わずの猛勉強が災いして17歳頃から病気がちに。帯刀は好奇心旺盛で、湯治に行っても、その地域や身分の異なる様々な人々から知識や考えを吸収したそう。その他、歌道を八田知紀に学び、観瀾、香雪齋という号を。また、病弱ながらも演武館で示現流(じげんりゅう)を学びました。

そして母親が勉強のしすぎを大変心配したので、帯刀は琵琶を弾くようになり、今度は琵琶にのめりこむように。やはり昼夜を問わずの熱中に執事が心配、先祖の例をひいて琵琶に溺れるものでないと進言、帯刀は涙を流して琵琶の糸をかなぐり捨て、二度と琵琶を手にしないようになったという話。なんというか集中力のある、ひとつのことに没頭しがちの性格のよう。

また、若手下級藩士の集まりの精忠組とも交流をもったということ。

2-1、帯刀、名君斉彬に見出される

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名君との呼び声高い11代薩摩藩主島津斉彬は、人材登用のために、儒学者の横山安容に優秀な人材がいないか相談したところ、教え子の帯刀と西郷隆盛を推薦、斉彬は自ら帯刀を検分して採用したということ
帯刀は、安政2年(1855年)正月に21歳で奥小姓、近習番勤めに任命され、5月に江戸詰めに。しかし在府わずか2ヶ月で帰国を命じられ10月8日には鹿児島へ帰着。道中、旅日記を書き、歌も作ったそう。

安政3年(1856年)帯刀は、吉利領主で2600石の小松清猷の跡目養子となって家督を継承、宮之原主計の養女となっていた清猷の妹の近(千賀)と結婚。帯刀は名門肝付家の出身ではあるが3男のために、琉球交易関係の家柄でもある小松家を継がせて藩に出仕させているわけで、斉彬に見込まれていたことがわかりますね。

2-2、帯刀、篤姫の大奥入りに奔走

篤姫は島津家分家の今泉家の出身ですが、帯刀の生家肝付家のご近所で、篤姫の兄たちと帯刀の兄弟は一緒に勉強したということ。帯刀と篤姫が親しかったかは不明ですが、とにかく帯刀は斉彬の命令で13代将軍家定に嫁ぐことになった篤姫のために奔走。

斉彬は帯刀に西郷隆盛という近習をつけ、帯刀の指示で西郷が働くことに
斉彬は篤姫を自分の養女としたうえ、さらに斉彬の姉が近衛忠煕に嫁していた姻戚の近衛家の協力を取り付けて、近衛家の養女にと身分的にランクアップを考えましたが、帯刀は西郷を指図して斉彬の思惑通りになるように交渉役を務め、篤姫は近衛家の養女として大奥入りすることに。

帯刀はその後、斉彬が別の養女を近衛家に嫁がせるときにも奔走し、その功で京都の近衛家の別邸の「お花畑」(第2の薩摩藩京都藩邸、帯刀の私邸として使用され、後に薩長同盟が締結されたところ)を使用させてもらえることになったということ。

2-3、帯刀、斉彬死後も藩主に重用される

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斉彬は帯刀が下級武士で組織された誠忠組に信頼されているため、青壮年の下級武士の統率役を命じたそう。安政5年(1858年)7月に藩主の島津斉彬が死去、島津忠義が藩主になると帯刀は当番頭兼奏者番に任命されて、集成館の管理や貨幣鋳造(贋金作り)を職務に。

2-4、帯刀、出世街道まっしぐら、若くして家老職に

万延元年(1860年)に、伊勢雅楽、北郷作左衛門らとともに弁天波止場受持を命じられ、文久元年(1861年)には北郷作左衛門とともに長崎出張、1月17日に藩の蒸気船「天佑丸」に乗船して前之浜を出立。長崎では通詞を雇ってオランダ軍艦に乗船、軍艦操作についてや破裂弾、水雷砲術学などを修学し、八木玄悦、石河正龍らと研究したということ。帰藩して、石河が藩主忠義の臨席のもとで、電気伝導で水雷爆発を実演、帯刀は長崎出張の成果を挙げたという功績で、藩主の父島津久光の側役に抜擢。

また、10月には大幅な人事異動で久光体制が確立、帯刀は御改革御内用掛に任命、大久保利通を配下に藩政改革に取り組むことに。そして文久2年(1862年)、久光が軍勢を率いての上洛に随行し、帰国後に28歳で家老職に就任

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