今回は小松帯刀を取り上げるぞ。

あまり知られていないが、幕末の薩摩藩家老で明治維新でもかなり重要な働きをしたんですね。

その辺のところを幕末にやたら詳しいあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。幕末の人物には勤王佐幕関係なく、誰にでも興味津々。外国人外交官にも評判が高かった薩摩藩家老小松帯刀について、5分でわかるようにまとめた。

1-1、小松帯刀は薩摩藩上士の生まれ

Komatu Tatewaki.jpg
By 不明。 - 個人所蔵品。, パブリック・ドメイン, Link

帯刀(たてわき)は、天保6年(1835年)10月14日、薩摩国鹿児島城下山下町の喜入屋敷で誕生。父は喜入領主で5500石の肝付兼善(きもつきかねよし)で、母は島津久貫(又左衛門)の娘。

帯刀は男ばかりの7人兄弟(ひとり早世)の3男(または4男)、通称は尚五郎(なおごろう)のちに帯刀、諱は清廉(きよかど)で、前名は肝付兼戈。帯刀と言うのは百官名(ひゃっかんな)のひとつで、監物(けんもつ)、弾正(だんじょう)、主馬(しゅめ)のように家系や親、本人の官職名を通称として用いた名前です。

帯刀は西郷隆盛よりも8歳年下ですが、下士の西郷とは比べ物にならないほどの良家の出。

1-2、帯刀の子供時代

image by PIXTA / 50588220

両親は次男の要之介を溺愛し、乳母も怒りっぽい人だったので、子供の頃は愛情に恵まれなかったということ。

帯刀は13、4歳頃になると才覚を発揮、儒学者横山安容のもとで学び、3人の弟にも教えたので御付の守役が勉強を教える必要がないほどだったということ。しかし虚弱体質と、昼夜問わずの猛勉強が災いして17歳頃から病気がちに。帯刀は好奇心旺盛で、湯治に行っても、その地域や身分の異なる様々な人々から知識や考えを吸収したそう。その他、歌道を八田知紀に学び、観瀾、香雪齋という号を。また、病弱ながらも演武館で示現流(じげんりゅう)を学びました。

そして母親が勉強のしすぎを大変心配したので、帯刀は琵琶を弾くようになり、今度は琵琶にのめりこむように。やはり昼夜を問わずの熱中に執事が心配、先祖の例をひいて琵琶に溺れるものでないと進言、帯刀は涙を流して琵琶の糸をかなぐり捨て、二度と琵琶を手にしないようになったという話。なんというか集中力のある、ひとつのことに没頭しがちの性格のよう。

また、若手下級藩士の集まりの精忠組とも交流をもったということ。

2-1、帯刀、名君斉彬に見出される

Nariakira Shimazu.png
By Nariakira_Shimazu.jpg: published by 東洋文化協會 (The Eastern Culture Association) derivative work: Beao - Nariakira_Shimazu.jpg, パブリック・ドメイン, Link

名君との呼び声高い11代薩摩藩主島津斉彬は、人材登用のために、儒学者の横山安容に優秀な人材がいないか相談したところ、教え子の帯刀と西郷隆盛を推薦、斉彬は自ら帯刀を検分して採用したということ
帯刀は、安政2年(1855年)正月に21歳で奥小姓、近習番勤めに任命され、5月に江戸詰めに。しかし在府わずか2ヶ月で帰国を命じられ10月8日には鹿児島へ帰着。道中、旅日記を書き、歌も作ったそう。

安政3年(1856年)帯刀は、吉利領主で2600石の小松清猷の跡目養子となって家督を継承、宮之原主計の養女となっていた清猷の妹の近(千賀)と結婚。帯刀は名門肝付家の出身ではあるが3男のために、琉球交易関係の家柄でもある小松家を継がせて藩に出仕させているわけで、斉彬に見込まれていたことがわかりますね。

2-2、帯刀、篤姫の大奥入りに奔走

篤姫は島津家分家の今泉家の出身ですが、帯刀の生家肝付家のご近所で、篤姫の兄たちと帯刀の兄弟は一緒に勉強したということ。帯刀と篤姫が親しかったかは不明ですが、とにかく帯刀は斉彬の命令で13代将軍家定に嫁ぐことになった篤姫のために奔走。

斉彬は帯刀に西郷隆盛という近習をつけ、帯刀の指示で西郷が働くことに
斉彬は篤姫を自分の養女としたうえ、さらに斉彬の姉が近衛忠煕に嫁していた姻戚の近衛家の協力を取り付けて、近衛家の養女にと身分的にランクアップを考えましたが、帯刀は西郷を指図して斉彬の思惑通りになるように交渉役を務め、篤姫は近衛家の養女として大奥入りすることに。

帯刀はその後、斉彬が別の養女を近衛家に嫁がせるときにも奔走し、その功で京都の近衛家の別邸の「お花畑」(第2の薩摩藩京都藩邸、帯刀の私邸として使用され、後に薩長同盟が締結されたところ)を使用させてもらえることになったということ。

2-3、帯刀、斉彬死後も藩主に重用される

image by PIXTA / 38592691

斉彬は帯刀が下級武士で組織された誠忠組に信頼されているため、青壮年の下級武士の統率役を命じたそう。安政5年(1858年)7月に藩主の島津斉彬が死去、島津忠義が藩主になると帯刀は当番頭兼奏者番に任命されて、集成館の管理や貨幣鋳造(贋金作り)を職務に。

2-4、帯刀、出世街道まっしぐら、若くして家老職に

万延元年(1860年)に、伊勢雅楽、北郷作左衛門らとともに弁天波止場受持を命じられ、文久元年(1861年)には北郷作左衛門とともに長崎出張、1月17日に藩の蒸気船「天佑丸」に乗船して前之浜を出立。長崎では通詞を雇ってオランダ軍艦に乗船、軍艦操作についてや破裂弾、水雷砲術学などを修学し、八木玄悦、石河正龍らと研究したということ。帰藩して、石河が藩主忠義の臨席のもとで、電気伝導で水雷爆発を実演、帯刀は長崎出張の成果を挙げたという功績で、藩主の父島津久光の側役に抜擢。

また、10月には大幅な人事異動で久光体制が確立、帯刀は御改革御内用掛に任命、大久保利通を配下に藩政改革に取り組むことに。そして文久2年(1862年)、久光が軍勢を率いての上洛に随行し、帰国後に28歳で家老職に就任

\次のページで「3-1、帯刀、筆頭家老として藩政の全権掌握」を解説!/

3-1、帯刀、筆頭家老として藩政の全権掌握

帯刀は、藩のなかで10以上の部署ひとつひとつに最適任者をおいて藩政を切り回すことに。琉球、清国はじめ諸藩とも交易を盛んに行い、それから得た莫大な資金を教育、軍備の近代化に使うようにしました。

帯刀の一存で、西郷や大久保らの活動資金、その他の資金が藩から出せたわけですね。

3-2、生麦事件そして薩英戦争勃発

文久2年(1862年)、江戸から薩摩への帰り、旧東海道の生麦村を通りかかった島津久光の大名行列を、イギリス人の生糸商人含む男女4名が乗馬で横切ったために、薩摩藩士が無礼討ちで斬りつけ、1名死亡2名重傷を負わせたのが生麦事件。
事件後、イギリス公使館は幕府の外国奉行に対して、犯人の引き渡しなどと幕府の謝罪と10万ポンドの賠償金を要求。幕府は謝罪して賠償金を支払ったので、イギリスは薩摩藩にも治外法権を盾に犯人の引き渡しと賠償金2万5千ポンドを要求。これに対して、家老帯刀は拒否。

そして、文久3年7月(1863年8月)薩英戦争になり、イギリスの東洋艦隊の軍艦七隻が谷山沖に来航、帯刀は旗艦ユーリアラス号のジョスリング大佐に上陸して交渉を要求したが応諾なく、交渉決裂と判断して、帯刀を総指揮官として交戦開始。

この戦いでは、帯刀の行った軍備増強と練兵の効果が発揮され、旗艦ユーリアラス号に島津の砲弾が数発命中、艦長、副艦長が即死。世界最強のイギリス海軍が大打撃を受け、戦死者は薩摩兵21名に対して、イギリス軍は戦死13名、負傷者68名に。イギリス艦隊は最新兵器のアームストロング砲がうまく稼働せず、砲撃をやめて撤退したので、なんと薩摩藩の勝利。

しかし藩首脳は、人的被害は少なかったものの、鹿児島市内の物的被害や、徹底的に破壊された砲台の無力さにショックを受けたために敗北気分が濃厚で、やはり戦力の差は歴然としているため、英国との和議の方針となったが、開国策を前提にして和議を主張した中心は、帯刀だったそう。

3-3、帯刀、たくみな戦後処理でイギリス外交官と信頼関係を築くまでに

帯刀はイギリス代理公使ニール大佐に対して、生麦事件での大名行列の通行の通達を忘れた幕府の不行届を謝り、被害者家族に対して賠償金を払うことで合意。
そして帯刀はイギリス公使に講和を提案、長崎のグラバー商会を通じて、イギリス製の軍艦購入、最新の武器、大砲および弾薬などの供給を約束し、薩摩藩からのイギリスへの留学生の派遣、と言った方針を出すと、イギリス側は軟化して交渉成立。

このことでイギリス外交官たちと信頼関係を築き、その後の薩英関係が緊密になっていく下地を作っただけでなく、最新式の武器を購入して薩摩藩の武備をととのえるという一石二鳥の効果をもたらしたということ。

尚、生麦事件賠償金を薩摩藩も支払うことで合意したものの、帯刀が老中板倉勝静に掛け合って、幕府から借りる形としたが、返済はしなかったそう。

3-4、帯刀、京都政局でも活躍

帯刀は、薩英戦争で被害を被った集成館を再興し、特に蒸気船機械鉄工所の設置に尽力。藩政の中心として御軍役掛や御勝手掛、蒸気船掛、御改革御内用掛、琉球産物方掛、唐物取締掛などを兼務、さらに大久保利通や町田久成とともに、洋学校「開成所」を設置したということ。

また、10月藩主の父久光が軍勢を率いて上洛したときに同行し、8月18日の政変後の朝廷や幕府、諸藩との連絡、交渉役も務めて、参預会議等にも陪席と大活躍。

3-5、帯刀、坂本龍馬と出会う

元治元年(1864年)、当時、坂本龍馬は勝海舟の下で神戸海軍操練所の塾生でしたが、池田屋事件で自刃した土佐脱藩の望月亀弥太が海軍操練所の塾生だったために塾長の勝海舟が責任を問われて軍艦奉行を罷免、廃塾に。
勝は龍馬以下の塾生の身の振り方を西郷に相談したのですが、西郷からその話を聞いた帯刀が龍馬らを大坂の薩摩藩邸に受け入れ、さらに帯刀は、龍馬たちを薩摩に連れて行き、集成館事業を披露。竜馬は軍艦や大砲を間近で見てショックを受けたそうで、帯刀はその帰路に長崎へ向かい、龍馬らに薩摩藩の費用で給料を払って薩摩の交易船を任せたのが、亀山社中。

帯刀は後に海援隊の支援も行ったということで、龍馬は帯刀への感謝について姉の乙女に書いた手紙は有名。

3-6、禁門の変でも活躍

元治元年7月19日(1864年8月20日)の禁門の変では、京都御所での薩摩藩兵を率いたのは西郷で、帯刀は消極的な態度と言われたけれど、天竜寺の長州本陣を攻め落とし、長州藩が残した兵糧米を戦災で焼け出された京都市民に配り、避難民に感謝されたということです。その後の第一次長州征伐では、長州藩の謝罪降伏に尽力。

3-7、帯刀、薩長同盟に尽力

小松帯刀寓居跡石碑.jpg
By Kokoron78 - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, Link

慶応元年(1865年)には、藩命で五代友厚、寺島宗則、森有礼らを薩摩藩遣英使節団をイギリスへ送り、欧州各地を巡歴させています。

帯刀は、同年(1865年)4月に一時薩摩に帰国。長崎貿易を立案して海軍の充実を図るなどの薩摩藩の国力を高める努力をし、その後、長崎の薩摩藩邸へ行ったとき、亀山社中の近藤長次郎に伴われ、長州の伊藤俊輔(博文)と井上聞多(馨)が「薩摩名義で武器や艦船を買いたい」と訪問。帯刀は、長州から「米」をもらうことを条件に引き受けたことで、龍馬を仲立ちに長州と関係が深まったそう。
そして、慶応2年(1866年1月)龍馬の勧めで長州の桂小五郎(木戸孝允)が上京、薩摩藩代表として帯刀が出席し京都の小松帯刀邸(島津家の姻戚の近衛家から借りたお花畑と呼ばれる別邸で第2の薩摩藩邸、帯刀の私邸とも)で薩長同盟が締結
また帯刀は、慶応2年(1866年)第2次長州征伐に薩摩藩は協力しない方針に。

そしてイギリス公使パークスが1866年(慶応2年)、グラバーの仲介で薩摩を訪問して、薩摩藩主島津茂久(島津忠義)と父島津久光、西郷隆盛、寺島宗則らと会見しています。そして兵庫が開港されると、大和交易コンパニーという株式会社を設立、貿易拡大を目指したということ。

3-8、徳川慶喜と薩摩藩の間で融和路線の推進と大政奉還

帯刀は、慶応3年(1867年)、それまで裏では対立していた将軍慶喜と薩摩藩の融和路線を推進。しかし、松平慶永、伊達宗城、山内容堂、島津久光らによる四侯会議での、兵庫開港問題、長州藩処分問題の優先順位で、長州藩処分問題を先に解決するべきという主張が慶喜に棚上げにされたことで、西郷隆盛、大久保利通が武力行使のための計画を。

帯刀は、9月に芸州藩家老の辻将曹と交渉、薩摩藩、長州藩、芸州藩の京都への出兵が約束されたことで、大政奉還の実現に尽力しようとし、10月に「討幕の密勅」の署名もしているものの、二条城では藩代表として徳川慶喜に将軍辞職を献策、速やかに実現させるべきと、朝廷に対しても摂政・二条斉敬に大政奉還の上奏を受理するよう交渉したということ。

帯刀は、西郷、大久保を率いて薩摩に戻り、藩主島津忠義に兵とともに上洛を要請、上洛の随行が命じられるも、病により断念。

3-9、明治後の帯刀

帯刀は、明治新政府でも、総裁局顧問、徴士参与、外国事務掛、外国官副知官事、玄蕃頭などの要職を歴任。そしてフランスから借りた江戸幕府の借金を、新政府が返済しないなら横須賀造船所を差し押さえるとフランス公使が主張した際、帯刀と大隈重信が、イギリスから資金を借りてフランスに返済したということ。

他にも土佐藩兵がフランス人水兵を殺傷した堺事件や浦上四番崩れなどの事件の交渉で発言を行ったそう。またグラバーや五代友厚とともに、日本初の西洋式ドックを備えた小菅修船場を建設。

明治2年(1869年)1月11日には大久保に版籍奉還の申し出を催促し、1月20日に吉井友実とともに鹿児島に帰藩。
版籍奉還では、久光を説得し、率先して自らの領地を返上して範を示したということです。

3-10、帯刀、病状が悪化

明治2年(1869年)1月8日付の大久保宛の書状では、帯刀はオランダ人医師のアントニウス・F・ボードウィンの診察を受けたということで、帯刀は、万延元年頃から、足痛を患っていて、たびたび入湯による治療を行い、明治元年(1868年)10月8日には胸痛を訴えて12月8日には肺病と記され、9月中旬には左下腹部の腫瘍が見つかったが、ボードウィンは切除困難と診断。9月には下腹部の腫瘍が悪化し、大阪薩摩掘(大阪市西区立売堀)に借宅。

明治3年(1870年)1月には大久保や木戸らが帯刀を見舞うも、7月20日に35歳で病死。

4-1、帯刀の逸話

短い生涯ながら、魅力的な人物で、偉業を成し遂げたこともあり、色々な逸話を残しています。

4-2、風来坊的でお付きの家臣が困ったが世情に通じていた

帯刀くらいの家格では、お供を連れて行動するのが普通ですが、帯刀は乗馬が得意のせいもあって、どこへでも一人で ふらっと出かけてしまうし、また誰にでも身分を明かさずに話しかけたり、温泉でも身分を明かさずに人と付き合ったそうで、お付きのお供は四六時中目が離せず、お護りが大変だったということ。
また、娯楽として相撲を開催したりして、領地の農民たちとも無礼講で酒を飲んで語らい、「小松家の名若君」と慕われ、家臣よりも領地の世情に詳しく、地元の役人ですら逆に帯刀から教えてもらうほどだったそう。

\次のページで「4-3、日本初の新婚旅行かも」を解説!/

4-3、日本初の新婚旅行かも

帯刀は婿養子ですが、愛妻家として知られていて、新婚の安政3年4月23日から5月6日(1856年5月26日から6月8日)にかけて、夫婦での旅行で霧島の栄之尾温泉に滞在した記録が存在。この滞在には千賀の父も同行したのですが、一説によれば父の保養に娘が付き添ったのを、婿の帯刀が追いかけて行ったという説もあり、日本初の新婚旅行を行ったとされている坂本龍馬とおりょう夫妻の旅行が、寺田屋事件直後の慶応2年(1866年)なので、実際は帯刀のほうが10年早いといわれることも。

4-4、西郷との初対面で試される

帯刀は、西郷隆盛よりも身分がかなり上だが8つ年下だったので、西郷はあまりに若い帯刀の度量を試そうとして、わざと失礼な態度を取り、初対面の前に部屋で横になって待っていたということ。すると帯刀は、部屋に入って横になった西郷を見て、振り返って従者に向かって、枕をとって来るようにと命令したということで、西郷は帯刀の態度にびっくり、さすがに起き上がって謝罪したということでした。
西郷さんより一枚上だなんてなかなかじゃないですか。

というわけで西郷隆盛、大久保利通も、薩摩藩最高責任者の帯刀の理解があったからこそ、京都でも働けたということでしょう。

4-5、同時代人の評価が高い

坂本龍馬の考えた新政府の人事構想では、帯刀は西郷や大久保、桂らを抑えて、筆頭に挙げられていたのは有名。
また、イギリス外交官で日本語ペラペラの通訳官アーネスト・サトウは、回想録でも帯刀のことを激賞し、「私の知っている日本人の中で最も魅力的な人物で、家老の家柄だが、そういう階級の人間に似合わず、政治的才能があり、態度が人にすぐれ、それに友情が厚く、そんな点で人々に傑出していた」また、「顔の色も普通よりきれいだが、口の大きいのが美貌を損なっていた」ということ。

4-6、帯刀の功績で、子孫が品川駅営業権を

大正11年(1922年)、時の鉄道大臣は、帯刀の子孫の小松重春伯爵に品川駅立売営業権を許可。これは帯刀が慶応3年(1867年)に鉄道敷設建白書を呈上した功績を考慮してのことだそう。これによって小松家は「株式会社常盤軒」として、省線(現JR)品川駅で駅弁などの販売を開始。しかし2010年(平成22年)の品川駅改装を機に、駅ビルのルミネ・ザ・キッチンに移ったが程なく閉店、駅蕎麦屋や仕出し弁当などは引き続き営業中。

幻の宰相といわれ、辣腕の交渉上手だった

帯刀は、幕末には珍しく家老級の家柄の出身なのに抜群の有能さを発揮し、薩英戦争の後の処理とか薩長同盟などにも尽力し、しかも斉彬と久光両方に重用されるくらいなので敵もいなかったよう。

そのうえに外国人外交官にも人柄と有能さが伝わるという、何で病気になっちゃったの、もう少し長生きできなかったのか、帯刀が生きていれば西南戦争も起きなかったかもと残念でたまらない人物、今後もっとスポットライトが当たるべきではと思うのでありました。

" /> 幕末に活躍した「小松帯刀」薩摩藩の若き家老について歴女がわかりやすく解説 – Study-Z
幕末日本史歴史江戸時代

幕末に活躍した「小松帯刀」薩摩藩の若き家老について歴女がわかりやすく解説

今回は小松帯刀を取り上げるぞ。

あまり知られていないが、幕末の薩摩藩家老で明治維新でもかなり重要な働きをしたんですね。

その辺のところを幕末にやたら詳しいあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。幕末の人物には勤王佐幕関係なく、誰にでも興味津々。外国人外交官にも評判が高かった薩摩藩家老小松帯刀について、5分でわかるようにまとめた。

1-1、小松帯刀は薩摩藩上士の生まれ

Komatu Tatewaki.jpg
By 不明。 – 個人所蔵品。, パブリック・ドメイン, Link

帯刀(たてわき)は、天保6年(1835年)10月14日、薩摩国鹿児島城下山下町の喜入屋敷で誕生。父は喜入領主で5500石の肝付兼善(きもつきかねよし)で、母は島津久貫(又左衛門)の娘。

帯刀は男ばかりの7人兄弟(ひとり早世)の3男(または4男)、通称は尚五郎(なおごろう)のちに帯刀、諱は清廉(きよかど)で、前名は肝付兼戈。帯刀と言うのは百官名(ひゃっかんな)のひとつで、監物(けんもつ)、弾正(だんじょう)、主馬(しゅめ)のように家系や親、本人の官職名を通称として用いた名前です。

帯刀は西郷隆盛よりも8歳年下ですが、下士の西郷とは比べ物にならないほどの良家の出。

1-2、帯刀の子供時代

image by PIXTA / 50588220

両親は次男の要之介を溺愛し、乳母も怒りっぽい人だったので、子供の頃は愛情に恵まれなかったということ。

帯刀は13、4歳頃になると才覚を発揮、儒学者横山安容のもとで学び、3人の弟にも教えたので御付の守役が勉強を教える必要がないほどだったということ。しかし虚弱体質と、昼夜問わずの猛勉強が災いして17歳頃から病気がちに。帯刀は好奇心旺盛で、湯治に行っても、その地域や身分の異なる様々な人々から知識や考えを吸収したそう。その他、歌道を八田知紀に学び、観瀾、香雪齋という号を。また、病弱ながらも演武館で示現流(じげんりゅう)を学びました。

そして母親が勉強のしすぎを大変心配したので、帯刀は琵琶を弾くようになり、今度は琵琶にのめりこむように。やはり昼夜を問わずの熱中に執事が心配、先祖の例をひいて琵琶に溺れるものでないと進言、帯刀は涙を流して琵琶の糸をかなぐり捨て、二度と琵琶を手にしないようになったという話。なんというか集中力のある、ひとつのことに没頭しがちの性格のよう。

また、若手下級藩士の集まりの精忠組とも交流をもったということ。

2-1、帯刀、名君斉彬に見出される

Nariakira Shimazu.png
By Nariakira_Shimazu.jpg: published by 東洋文化協會 (The Eastern Culture Association) derivative work: BeaoNariakira_Shimazu.jpg, パブリック・ドメイン, Link

名君との呼び声高い11代薩摩藩主島津斉彬は、人材登用のために、儒学者の横山安容に優秀な人材がいないか相談したところ、教え子の帯刀と西郷隆盛を推薦、斉彬は自ら帯刀を検分して採用したということ
帯刀は、安政2年(1855年)正月に21歳で奥小姓、近習番勤めに任命され、5月に江戸詰めに。しかし在府わずか2ヶ月で帰国を命じられ10月8日には鹿児島へ帰着。道中、旅日記を書き、歌も作ったそう。

安政3年(1856年)帯刀は、吉利領主で2600石の小松清猷の跡目養子となって家督を継承、宮之原主計の養女となっていた清猷の妹の近(千賀)と結婚。帯刀は名門肝付家の出身ではあるが3男のために、琉球交易関係の家柄でもある小松家を継がせて藩に出仕させているわけで、斉彬に見込まれていたことがわかりますね。

2-2、帯刀、篤姫の大奥入りに奔走

篤姫は島津家分家の今泉家の出身ですが、帯刀の生家肝付家のご近所で、篤姫の兄たちと帯刀の兄弟は一緒に勉強したということ。帯刀と篤姫が親しかったかは不明ですが、とにかく帯刀は斉彬の命令で13代将軍家定に嫁ぐことになった篤姫のために奔走。

斉彬は帯刀に西郷隆盛という近習をつけ、帯刀の指示で西郷が働くことに
斉彬は篤姫を自分の養女としたうえ、さらに斉彬の姉が近衛忠煕に嫁していた姻戚の近衛家の協力を取り付けて、近衛家の養女にと身分的にランクアップを考えましたが、帯刀は西郷を指図して斉彬の思惑通りになるように交渉役を務め、篤姫は近衛家の養女として大奥入りすることに。

帯刀はその後、斉彬が別の養女を近衛家に嫁がせるときにも奔走し、その功で京都の近衛家の別邸の「お花畑」(第2の薩摩藩京都藩邸、帯刀の私邸として使用され、後に薩長同盟が締結されたところ)を使用させてもらえることになったということ。

2-3、帯刀、斉彬死後も藩主に重用される

image by PIXTA / 38592691

斉彬は帯刀が下級武士で組織された誠忠組に信頼されているため、青壮年の下級武士の統率役を命じたそう。安政5年(1858年)7月に藩主の島津斉彬が死去、島津忠義が藩主になると帯刀は当番頭兼奏者番に任命されて、集成館の管理や貨幣鋳造(贋金作り)を職務に。

2-4、帯刀、出世街道まっしぐら、若くして家老職に

万延元年(1860年)に、伊勢雅楽、北郷作左衛門らとともに弁天波止場受持を命じられ、文久元年(1861年)には北郷作左衛門とともに長崎出張、1月17日に藩の蒸気船「天佑丸」に乗船して前之浜を出立。長崎では通詞を雇ってオランダ軍艦に乗船、軍艦操作についてや破裂弾、水雷砲術学などを修学し、八木玄悦、石河正龍らと研究したということ。帰藩して、石河が藩主忠義の臨席のもとで、電気伝導で水雷爆発を実演、帯刀は長崎出張の成果を挙げたという功績で、藩主の父島津久光の側役に抜擢。

また、10月には大幅な人事異動で久光体制が確立、帯刀は御改革御内用掛に任命、大久保利通を配下に藩政改革に取り組むことに。そして文久2年(1862年)、久光が軍勢を率いての上洛に随行し、帰国後に28歳で家老職に就任

\次のページで「3-1、帯刀、筆頭家老として藩政の全権掌握」を解説!/

次のページを読む
1 2 3
Share: