今回は鍋島直正を取り上げるぞ。

幕末で薩長土肥というが、他の藩と違って幕末明治維新に派手に登場しないからすごさがピンとこないのですが、どういう人でどんなことをしたのか知りたいよな。

その辺のところを幕末が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。幕末の殿様たちにも昔から興味津々。妖怪と言われた鍋島直正について、5分でわかるようにまとめた。

1-1、鍋島直正は佐賀藩9代藩主の17男

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鍋島直正(なべしま なおまさ)は、文化11年12月7日(1815年1月16日)に江戸で誕生。父は9代藩主鍋島斉直、母は正室で鳥取藩主池田治道の娘幸姫(姚姫)。幼名は貞丸 、元服して斉正、隠居して号は閑叟(かんそう)、明治後に直正。直正は17男ですが、生母が正室のため、兄たちを差し置いて生まれたときから跡継ぎに決定。尚、直正の母は、薩摩藩主島津斉彬の母の異母妹になので、直正と斉彬はいとこ同士。

また、鍋島家はなぜか名君と暗君がかわりばんこに出現するというジンクスがあり、父斉直が浪費家だったので、直正は子供の頃から名君だと期待されたということ。

1-2、直正の子供時代

司馬遼太郎著「肥後の妖怪」によれば、殿様の若君で将来藩主決定の直正は、数人の選ばれた御学友と育ちました(そのなかでも古川与一は、直正が亡くなるまで側に仕え、直正の葬儀を仕切った後に殉死した人)。彼ら御学友は直正と遊びと勉強も一緒で、直正が悪さをすれば、直正ではなく御学友が乳母にお灸をすえられていたそうで、将来の殿様はそれを見るのが罰、自分の咎が家臣に及ぶことを身をもって学ぶということに。

それに直正は、やたらと手を洗う癖があり、胃が弱くて不安神経症みたいな面もあったそう。

1-3、久米邦武が御性替だった

また同い年の小姓として、「御性替(おしょうがえ)」という役目の者がいました。世子の直正と同居し、同じ服を着て同じものを食べて一緒に勉強するのですが、世子に降りかかる病気や悪いことが全部その「御性替」の子が身代わりになるようにと祈祷されていたという存在だったということ。

直正の場合、この「御性替」が、明治後、高名な歴史学者となった久米邦武、この人も優秀だったが、直正の優秀さには及ばなかった、晩年に至るまで「超凡にましました」と述懐。

1-4、直正、9歳のときに将軍家斉の娘と結婚

直正は、将軍家斉の18女盛姫と結婚、盛姫亡き後、田安家の徳川 斉匡(とくがわ なりまさ)の19女筆姫を継室に。はっきりいって将軍の息女を嫁にもらうと、御守殿を建てる、奥女中は増えるなどで莫大な経費がかさむうえに、なぜか殿さまは将軍息女を笠にきた奥女中に見下されるという悲惨なコンボになってしまうのですね。

2-1、直正、15歳で藩主に

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By 川崎道民 - (財)鍋島報效会 [1], パブリック・ドメイン, Link

天保元年(1830年)、父が隠居、直正は15歳で第10代藩主に。
元服して将軍家斉の偏諱を与えられて斉正。

当時の佐賀藩は、フェートン号事件以来長崎警備等の負担が重く、さらには先代藩主斉直の贅沢三昧、その2年前に起こったシーボルト台風の甚大な被害で財政は破綻状況だったということ。

2-2、直正、借金取りのせいで国元へ出発できず

直正は、藩主になって2年後、初のお国入りのために江戸藩邸を佐賀に向けて出発、品川宿でお昼をとったが、藩に貸付のある商人たちが藩邸に押し寄せてきて借財返済を申し立てて座り込みを開始したために、行列が進行出来ない状態に。かろうじて出発した後直正は、屈辱で籠の中で大泣きしたということ。

これがきっかけで直正は経済に目を向けてなにがなんでも藩の財政改革を行い、「そろばん大名」との異名まで

\次のページで「2-3、直正、藩政改革を断行」を解説!/

2-3、直正、藩政改革を断行

その後、直正は粗衣粗食令を出して倹約に勤めたのはむろんのこと、借金の8割を放棄、2割の50年割賦を認めさせて(それでも商人たちは少しでも取り返せたと喜んだそう)、大がかりなリストラを行って役人を5分の1に削減、農民の保護育成や、有田焼などの陶器、茶、石炭などの産業育成や交易(密貿易説が濃厚)に力を注ぎ、藩財政は改善。ここで得た余剰金を軍備や近代化にまわしたのですね。

2-4、直正、家臣の義務教育を徹底

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By Pekachu - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, Link

また、自分が優秀だと家臣にも勉強を強制したくなるもので、藩校の弘道館に藩士の子弟全員を6歳か7歳で就学させて、25歳か26歳で卒業させる完全義務教育を実施、試験に合格しなければ家禄の8割没収を実行したそう。司馬遼太郎著の「肥前の妖怪」では、藩士たちには佐賀藩に伝わる「葉隠」に基づいた教育を施したので、激動の幕末に至っても藩主に逆らう藩士が出てきにくかっただろうということです。

尚、佐賀藩出身の大隈重信は、一律に全員に同じ教育を施すなどバカげているとして、後に早稲田大学を創立しました。

もちろん優秀な人材を育成したら身分にかかわらず有能な家臣を登用するように藩政機構も改革、また小作料の支払免除など、農村復興のための諸改革も。

「葉隠れ」とは
江戸時代中期(1716年頃)に佐賀藩士山本常朝が武士としての心得を口述、田代陣基(つらもと)が筆録した書物で全11巻あり、「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」の文言は有名。

3-1、直正、藩の近代化を促進

直正は知識欲旺盛で、自身も色々な書を読んでいたが、姉の夫で義兄にあたる佐賀藩の請役の武雄領主鍋島茂義(しげよし)の影響もかなり大きかったよう。
茂義は、天保5年(1834年)、日本の封建領主初、高島秋帆に弟子入りして西洋式砲術や科学技術を究めたという立派な蘭癖大名で、オランダから雨天でも大丈夫な火打ち式銃を輸入したり、オランダ通詞と独自のパイプを持っていたそう。しかも直正父の前藩主時代、武雄家を継ぐ前に本家の請役として、藩主の怒りを買うほどかなり強引な財政改革を断行したり、直正と将軍息女の婚礼を仕切ったり、直正の教育にも関わったということで、直正は藩主になった後も義兄茂義に色々と助言を求めたということです。

また、フェートン号事件での屈辱的な思いも近代化推進に弾みがかかったはず。

フェートン号事件
文化5年8月(1808年10月)、佐賀藩が警備を務めていたときに長崎港で起きたイギリス軍艦侵入事件のこと。
オランダ船拿捕を目的とするイギリス海軍のフリゲート艦フェートン号が、オランダ国旗を掲げて長崎へ入港、オランダ船と誤認した出島のオラン商館員2名が小舟で派遣された後に船に連行、同時に船はオランダ国旗を降ろしてイギリス国旗を掲げて武装ボートで長崎港内のオランダ船を捜索。

長崎奉行所はフェートン号に対し、オランダ商館員を解放するよう書状で要求、フェートン号側からは水と食料を要求。このとき長崎警衛当番の佐賀藩が、経費削減のため守備兵を無断で減らしたせいで本来の10分の1ほどの100名しか在番兵がいなかったので、長崎奉行はやむなく要求を受け入れたのでした。

フェートン号は人質を釈放してさっさと逃げ去り、けが人もなかったとはいえ、手持ちの兵力不足で相手の要求通りに屈して国威を辱めたと長崎奉行は切腹、佐賀藩も勝手に兵力を減らしたことが罪に問われて家老数人が詰め腹を切らされ、当時の藩主直正父も100日の閉門蟄居にという事件。

その後もイギリス船が度々出没し、幕府は1825年に異国船打払令を発令。

3-2、科学技術の研究機関、精錬方を創設

直正は、嘉永5年(1852年)精錬方という科学技術の研究機関を創設して、鉄鋼、加工技術、大砲、蒸気機関、電信、ガラスなどの研究、開発、生産を行いました。
そして藩士たちを積極的に他藩へ留学させたり、他藩の優秀な人材を呼び寄せて、技術の開発と向上に勤しんだということ。中村奇輔、石黒寛次、からくり儀右衛門でおなじみの田中久重(のちの東芝創設者)を招聘。

佐賀藩は鎖国の中の鎖国「二重鎖国」を行っていたので、他国の技術者を招くのは珍しく、また内部でも反発が強かったそうですが、結果として佐賀藩士の士気を高めて技術の向上にもなったということ。

また、この研究はなかなか成果が出ないうえにお金がかかるので、佐賀藩内でも精錬方廃止論が出るのですが直正は「これは自分の道楽」と退けた話は有名。

3-3、種痘を行って天然痘予防

長崎警備を共にしていた福岡藩と牛痘ワクチンを輸入、嫡子の直大(なおひろ)に種痘を施して普及に努めて、当時は不治の病であった天然痘根絶を成し遂げる先駆けに。

3-4、直正、製鉄所を作り、蒸気船から大砲まで佐賀藩で自作

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嘉永2年(1849年)には、日本最初の製鉄所が完成。
嘉永3年(1850年)には佐賀藩は独自に長崎砲台の大工事を開始。
ペリーの黒船来航の前年の嘉永5年(1852年)には、築地反射炉を本格的に稼動。
黒船来航の半年前、プチャーチン率いるロシアの使節団が長崎に寄港し、模型蒸気機関車を披露したときに得た情報を元に、精錬方の石黒寛次、中村奇輔、田中久重らが蒸気機関車と蒸気船の製造を試みて成功。

尚、プチャーチンは佐賀藩の築いた長崎の砲台をかなり本格的なものという感想を。
嘉永6年(1853年)に幕府が大船建造の禁を緩和後、オランダに軍艦を発注。また佐賀藩領内に三重津海軍所を設置して、安政年間には西洋式蒸気船の建造を計画。
慶応元年(1865年)に日本最初の実用蒸気船「凌風丸」を進水、有明海内の要人輸送に活用したそう。
安政5年(1855年)に長崎海軍伝習所が作られると、学生を派遣。
慶応2年(1866年)には当時の最新兵器の大砲アームストロング砲をほぼ自力で完成させて、藩の洋式軍に配備。四斤砲の製造と実用化に成功、後に品川台場の砲台にも利用。

\次のページで「3-5、ペリーの黒船来航時には攘夷論を」を解説!/

3-5、ペリーの黒船来航時には攘夷論を

嘉永6年(1853年)、ペリーの黒船が来航し、江戸幕府老中の阿部正弘が各大名に意見を募った時、直正はアメリカの武力外交に対して強く攘夷論を主張。そして品川のお台場建設に佐賀藩の技術を提供して砲台を建設し、老中阿部正弘の信頼を得、同時に佐賀藩の近代化が他国にも知られるようになったのですね。

尚、直正は攘夷論を述べる一方で、開国以前から密貿易で利益を上げていたくらいなので貿易の重要性を知っているわけで、イギリスの親善外交に対して開国論を主張するなど、一筋縄ではいかないところが。

4-1、直正、48歳で隠居

文久元年(1861年)、48歳のときに家督を長男直大(なおひろ)に譲って隠居、閑叟(かんそう)と号しましたが、これは引退と言う意味ではなく、藩主では色々制限があり、自由な立場で藩を率いたかったからだそう。

もともと佐賀藩は江戸時代を通じて他の藩との交流をしない主義で2重の鎖国状態だったのですが、直正は技術や学問では交流はしても、基本的には藩士たちに他の藩士との付き合いを許さず。また直正自体も、百日大名といい、長崎警護のせいで江戸にいる期間が短く済んだせいもあって大名との付き合いはなく、病弱ということになっていたし、黒船来航以来の尊王攘夷運動には無関心、それよりも佐賀藩で独自に蒸気船や大砲などを作ることに夢中だったようです。

4-2、直正、上洛して京都守護職任命を要請するも実らず

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By published by 東洋文化協會 (The Eastern Culture Association) - The Japanese book "幕末・明治・大正 回顧八十年史" (Memories for 80 years, Bakumatsu, Meiji, Taisho), パブリック・ドメイン, Link

直正は、この時期になっても京都屋敷にはわざと無能な家老を置き、薩摩や長州などとの付き合いもほとんどなし。しかしこの頃になるとさすがに佐賀藩の近代化が知られるようになり、京都でも直正がどういう人物かと噂になり始め、姉婿の公卿久世通熙を通して招待が来たということ。

直正の方も、一時的に脱藩し、京都の様子を見て来た江藤新平が戻ってきたとき、罪を咎めずに、薩摩や長州が京都でどれくらいお金をばらまいているかなどを聞き、側近の古川与一を京都に先発させた後、直正自身も招待を受けて、文久2年(1862年)12月25日、艦隊を組み近代化した佐賀兵を率いて上洛、孝明天皇に拝謁後、薩摩派の関白近衛忠煕に面会し、京都守護職への任命を要請。
直正は「長崎警備は他大名でも担当できるが、大坂、京都の警備には実力が必要、もう古い武器を用いた藩の時代ではない、佐賀藩ならば足軽30人と兵士20人の兵力で現状の薩摩や長州の警備を打ち破れる」旨の発言をして、最先端の技術の佐賀藩の軍備をアピールしたのですが、公家はんにはこれが通じず、また近衛関白から薩摩の大久保利通に話が筒抜けになって、大久保利通も激怒、この件はもちろん立ち消えになり、直正は京都はつまらんと帰国したということ。
藩の近代化を成し遂げて、軍備は海軍も兵器も最新型を揃え、軍隊も西洋式にしてバッチリだった直正が、意気揚々と上洛したのは、やはり実力を認めてもらい、最新式の軍備で京都政界のトップに躍り出ようとしたのでしょうか。

4-3、パリ万博に出展

慶応3年(1867年)に行われたパリ万国博覧会は、日本が初めて正式参加した万博。このとき日本からは、幕府(日本大君政府)と薩摩藩(薩摩大守政府)と佐賀藩(肥前大守政府)の3政府が出展。

佐賀藩使節団は、有田焼、伊万里焼の陶磁器、白蝋、和紙、茶など、佐賀藩領内の特産品を多数出品して売込みを行い、もちろん欧米の技術や制度などの西洋文明についても勉強したということ。

この佐賀藩使節団には、適塾でも学んだ佐野常民(つねたみ)がいて、万博会場で国際赤十字の組織と活動を見聞し、さらにオランダに行き日進丸の建造を発注。そして西欧諸国の軍事、産業、造船術などを視察して翌1868年(明治元年)に帰国。後に日本赤十字社を創始。

4-4、直正、幕末の動乱でも日和見を貫く

佐賀藩は日本有数の軍事力と技術力を誇っていたのですが、直正の意向で倒幕運動にも参加せず、かといって幕府よりでもないと、藩として姿勢を明確にすることなく、大政奉還、王政復古まで静観

直正は、文久3年(1863)8月18日の政変後、薩摩藩から上洛要請があっても断り、木戸孝允が四国艦隊下関砲撃事件のときに、大砲を貸してもらえないかと密かに潜入して家臣に頼んできたときも、「長州はすぐに降伏するから貸す必要はない」と断り、元治元年(1864)幕府から諸侯としては最高の「宰相」に推すと言って来ても断り、第二次長州征伐のときに、将軍家茂が親書を遣わせて佐賀藩の軍事力を持って助けてほしいと言って来ても「痔で」と、さらっと断ったということ。

こういう理由で直正は「肥前の妖怪」と警戒されて、参預会議や小御所会議などに参加させてもらえず、政治力、軍事力ともに発揮できなかったが、逆に考えると佐賀藩では幕末の動乱期に犠牲者がなかったとも。

4-5、直正、木戸孝允に出会い、佐賀兵と武器を官軍へ

直正は、慶応4年1月(1868年1月)の鳥羽伏見の戦いの時には長崎で軍艦とアームストロング砲を買い付けている最中で、その後買ったばかりの軍艦とアームストロング砲と佐賀兵を積み込んだ艦隊を率いて上洛。

司馬遼太郎著「肥前の妖怪」によると、京都に着いた後、たまたま直正がお忍びで嵐山に花見に行ったところ、木戸孝允らと遭遇、舟で花見酒を楽しみつつ木戸が交渉して直正が新政府軍に佐賀藩が加わることを承諾、ここに薩長土肥が成立したということ。

佐賀藩は、戊辰戦争における上野彰義隊との戦いから五稜郭の戦いまで、新政府軍の弱味であった海軍もカバーし、最新式の兵器とアームストロング砲が大活躍、その功績のおかげで明治新政府でも佐賀藩から直正が育てた、副島種臣、江藤新平、大隈重信、大木喬任、佐野常民ら、多数の人物が活躍するように。

\次のページで「4-6、明治後の直正」を解説!/

4-6、明治後の直正

明治元年(1868年)に直正と改名。議定に就任。
廃藩置県には知藩事(大政奉還後の藩主)として最初に賛同。
明治2年(1869年)6月6日、蝦夷開拓総督となり旧藩士島義勇らを開拓御用掛に登用、7月13日には初代開拓使長官に就任したが、直正は蝦夷地へ赴任せずに8月16日に岩倉具視と同じ大納言に転任。

直正は、財政基盤の弱い新政府に代わって旧幕府軍との戦いの褒賞を開拓費用に当て、他藩に先んじて佐賀藩民を蝦夷地に移住させたほか、満州の開拓、オーストラリアでの鉱山開発などを提言。

しかし実現を見ることなく、明治4年(1871年)1月18日、江戸藩邸にて58歳で病没。直正の子供の頃からの御学友で、もはや親友のようだった家臣の古川与一(松根)が葬儀を取り仕切った後に殉死。

直正の子孫
直正の嫡子直大は外交官になり、正室梅渓駒姫との間に長女と長男直映(なおみつ)が生まれた後死別、公卿広橋家の娘榮子(ながこ)と再婚して1男4女が誕生。

そのなかで有名なのが直正の孫娘らで、
次女伊都子(いつこ)は梨本宮守正王妃となり、長女方子(まさこ)は大韓帝国高宗第7男子李王李垠妃。

4女信子(のぶこ)は、松平容保の6男で外交官の松平恒雄夫人で長女が秩父宮勢津子妃。
貞明皇后に仕えて信頼を得、宮廷内に大きな発言権を有し、学習院の同窓会組織常磐会会長を務め、正田美智子嬢の皇太子妃大反対の先鋒に立ち、昭和30年代には東宮内で御教育参与として仕え、現上皇妃を大変厳しくご指導したことで有名。

完璧主義で藩を自分の理想的に近代化したが、政治の世界は避けた

直正は、明治の文明開化のずっと前に佐賀藩の文明開化と富国強兵を着々と進めました。が、佐賀藩内で文明の利器を作ることに熱中して蒸気船も作り、武器も揃えて軍隊を西洋式にし、直正自身も色々な知識を持ち世界情勢の情報も持っていたのに、尊王攘夷運動、幕府存続か倒幕かに乗り出していこうとはしなかったのは、不気味なほどでした。

直正、潔癖症だったとか、大名仲間と付き合いをせず、藩士にも交流させなかったので、他藩のような犠牲者が出なかったとみることも出来ますが、文久2年に近衛関白に京都守護職にせよと迫るところや、家臣の言を用いるよりもトップダウン、独裁体制だったことが、コミュニケーション障害っぽくもあり、アスペルガー症候群の疑いが。自分が戦国時代に生まれていればもっとおもしろかったろうに、という亡くなる間際の言葉をちょっとかみしめるのでありました。

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幕末日本史歴史江戸時代

静かに藩の近代化を推進した「鍋島直正」幕末佐賀藩主について歴女がわかりやすく解説

今回は鍋島直正を取り上げるぞ。

幕末で薩長土肥というが、他の藩と違って幕末明治維新に派手に登場しないからすごさがピンとこないのですが、どういう人でどんなことをしたのか知りたいよな。

その辺のところを幕末が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。幕末の殿様たちにも昔から興味津々。妖怪と言われた鍋島直正について、5分でわかるようにまとめた。

1-1、鍋島直正は佐賀藩9代藩主の17男

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鍋島直正(なべしま なおまさ)は、文化11年12月7日(1815年1月16日)に江戸で誕生。父は9代藩主鍋島斉直、母は正室で鳥取藩主池田治道の娘幸姫(姚姫)。幼名は貞丸 、元服して斉正、隠居して号は閑叟(かんそう)、明治後に直正。直正は17男ですが、生母が正室のため、兄たちを差し置いて生まれたときから跡継ぎに決定。尚、直正の母は、薩摩藩主島津斉彬の母の異母妹になので、直正と斉彬はいとこ同士。

また、鍋島家はなぜか名君と暗君がかわりばんこに出現するというジンクスがあり、父斉直が浪費家だったので、直正は子供の頃から名君だと期待されたということ。

1-2、直正の子供時代

司馬遼太郎著「肥後の妖怪」によれば、殿様の若君で将来藩主決定の直正は、数人の選ばれた御学友と育ちました(そのなかでも古川与一は、直正が亡くなるまで側に仕え、直正の葬儀を仕切った後に殉死した人)。彼ら御学友は直正と遊びと勉強も一緒で、直正が悪さをすれば、直正ではなく御学友が乳母にお灸をすえられていたそうで、将来の殿様はそれを見るのが罰、自分の咎が家臣に及ぶことを身をもって学ぶということに。

それに直正は、やたらと手を洗う癖があり、胃が弱くて不安神経症みたいな面もあったそう。

1-3、久米邦武が御性替だった

また同い年の小姓として、「御性替(おしょうがえ)」という役目の者がいました。世子の直正と同居し、同じ服を着て同じものを食べて一緒に勉強するのですが、世子に降りかかる病気や悪いことが全部その「御性替」の子が身代わりになるようにと祈祷されていたという存在だったということ。

直正の場合、この「御性替」が、明治後、高名な歴史学者となった久米邦武、この人も優秀だったが、直正の優秀さには及ばなかった、晩年に至るまで「超凡にましました」と述懐。

1-4、直正、9歳のときに将軍家斉の娘と結婚

直正は、将軍家斉の18女盛姫と結婚、盛姫亡き後、田安家の徳川 斉匡(とくがわ なりまさ)の19女筆姫を継室に。はっきりいって将軍の息女を嫁にもらうと、御守殿を建てる、奥女中は増えるなどで莫大な経費がかさむうえに、なぜか殿さまは将軍息女を笠にきた奥女中に見下されるという悲惨なコンボになってしまうのですね。

2-1、直正、15歳で藩主に

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By 川崎道民 – (財)鍋島報效会 [1], パブリック・ドメイン, Link

天保元年(1830年)、父が隠居、直正は15歳で第10代藩主に。
元服して将軍家斉の偏諱を与えられて斉正。

当時の佐賀藩は、フェートン号事件以来長崎警備等の負担が重く、さらには先代藩主斉直の贅沢三昧、その2年前に起こったシーボルト台風の甚大な被害で財政は破綻状況だったということ。

2-2、直正、借金取りのせいで国元へ出発できず

直正は、藩主になって2年後、初のお国入りのために江戸藩邸を佐賀に向けて出発、品川宿でお昼をとったが、藩に貸付のある商人たちが藩邸に押し寄せてきて借財返済を申し立てて座り込みを開始したために、行列が進行出来ない状態に。かろうじて出発した後直正は、屈辱で籠の中で大泣きしたということ。

これがきっかけで直正は経済に目を向けてなにがなんでも藩の財政改革を行い、「そろばん大名」との異名まで

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