今回は、オーストリア継承戦争についてです。

この継承戦争は、オーストリア・ハプスブルク家のカール6世に息子の後継者がいなかったため起こった問題です。カール6世は、長女マリア・テレジアがハプスブルク家の家督を継げるように先手を打っていた。ところが彼女の継承に反対したバイエルン公など、各国の君主らがハプスブルク家を断絶させようと戦争に発展していくことになったんです。

それじゃあここからは、ハプスブルク家に詳しいまぁこと一緒に解説していきます。

ライター/まぁこ

ヨーロッパ史が好きなアラサー女子。特にハプスブルク家に関する本を愛読中。今回は、名門オーストリア・ハプスブルク家の世継ぎ問題のきっかけとなったマリア・テレジアを中心にオーストリア継承戦争を解説していく。

1 オーストリア・ハプスブルク家の継承問題

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オーストリア継承戦争とは、息子に恵まれなかったカール6世が自分の後継者に長女マリア・テレジアとしたことで起こった戦争でした。オーストリア・ハプスブルク家の宿敵フランスは、この機会にハプスブルク家の断朝を目論みます。それではより詳しく見ていきましょう。

1-1 カール6世の世継ぎ問題

カール6世は、後継者となる男児に恵まれませんでした。このため、長女マリア・テレジアに継承させることを決意。彼女が継承できるように、長子相続法を制定します。そしてマリア・テレジアの相続が承認されるように、イギリスやフランスなど各国に承認を取り付けることに成功。カール6世としては、19歳で恋愛結婚したマリア・テレジアが男児を産んでくれることを願っていたそうですが、男児の孫を見る前にカールは亡くなりました。

1-2 マリア・テレジアが継承したが…

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By Andreas Møller - Kunsthistorisches Museum Wien, Bilddatenbank., パブリック・ドメイン, Link

父カール6世が亡くなり、オーストリア・ハプスブルク家を継承したマリア・テレジア。ところが、承認していたはずのフランス、プロイセン、バイエルンらが彼女の相続に異議を唱えることに。この時ヨーゼフを妊娠していたマリア・テレジアは23歳。しかも彼女は父から帝王学を学んでおらず、政治に関しては全くの素人。そのためフランスやプロイセン、バイエルンなどの国々はマリア・テレジアが当主となったため侮っていたのです。

1-3 フランスが主導したオーストリア分割案

反ハプスブルク家を掲げた各国の思惑はどうだったのでしょうか。フランスは宿敵ハプスブルク家からネーデルラントを、バイエルンは神聖ローマ皇帝の冠を、ザクセンはチェコ南部のモラヴィアを、プロイセンは豊かな土地シュレジエンを得ようと考えていました。そしてマリア・テレジアへはハンガリー女王のみ承認しようと企てたのです。

2 オーストリア継承戦争勃発!

\次のページで「2-1 悪魔によって奪われたシュレジエン」を解説!/

2-1 悪魔によって奪われたシュレジエン

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まず真っ先に動いたのが、プロイセン王フリードリヒ2世。彼は宣戦布告なくオーストリア領のシュレジエンを占領してしまいます。カール6世が亡くなってわずか2か月のこと。フリードリヒの行動から第一次シュレジエン戦争が勃発することに。

しかしなぜフリードリヒはシュレジエンを狙ったのでしょうか。シュレジエンは人口100万人の都市で工業が盛んな地域。一方プロイセンは寒冷地だったため、シュレジエンはフリードリヒが喉から手が出るほど欲しかったのです。ハプスブルク家にとってもシュレジエンは4分の1の収入を占める重要な地域。そのためマリア・テレジアは奪回することに躍起になりました。しかし第一次シュレジエン戦争では多くの軍資金のある近代化されたプロイセン軍の圧勝。ここから次々にフランス、バイエルンなどが参戦することに。

2-2 助言を求めるマリア・テレジアでしたが…

しかしマリア・テレジアは屈しませんでした。彼女は父から受け継いだ領土を少したりとも手放す気はなかったのです。マリア・テレジアは国内の大臣らを緊急招集し、顧問に助言をこうことに。ところが保身ばかりの老臣たちは彼女の力になりませんでした。その上唯一手を差し伸べてくれたイギリスはプロセインへシュレジエンを割譲することを勧めてくる始末。このためマリア・テレジアは次の手を打つことに。

2-3 マリア・テレジア、ハンガリーへ助けを求める!

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By Unidentified painter - http://www.dorotheum.com, パブリック・ドメイン, Link

なんとマリア・テレジアはハンガリーへ乗り込んだのです。もともとハンガリーはハプスブルク家領。しかしハンガリーはハプスブルク家からの支配を嫌がり、またオーストリア人からするとハンガリー人は異教徒の先兵と憎まれている関係。普通ならば協力を得られるとは到底思えないことでした。しかしそれは彼女も想定の範囲内。

ハンガリーはハプスブルク家の領土であったため、マリア・テレジアは戴冠式を行いハンガリー女王となりました。そして生まれたばかりのヨーゼフを連れ、涙ながらに協力を求めることに。マリア・テレジアは5か月もの粘り強い交渉の末、ハンガリーから兵と軍資金の援助を得ることに成功。マリア・テレジアの宿敵フリードリヒも彼女がここまでやるとは思っておらず、マリア・テレジアがハンガリーへ乗り込んだという報を聞いた時はゾッとしたそう。

2-4 マリア・テレジアの反撃!バイエルンとフランス軍を撃退

プロセインの勝利から、継承戦争に参戦したフランスとバイエルン。1741年からオーストリア・バイエルン戦争が展開されることに。戦争の最中、バイエルン公はフランスの支援で強引に神聖ローマ皇帝カール7世として冠を被ることになりました。これによって300年ぶりに代々続いていたハプスブルク家の世襲が途絶えることに。このまま各国に追い詰められるのかと思いきや、マリア・テレジアがハンガリーから兵士3万(一説には10万とも言われる)と資金援助を受け反撃。そして1745年にはカール7世は病死したため、皇帝の冠はマリア・テレジアの夫フランツの手に渡りました。

フリードリヒ2世は第一次シュレジエン戦争から戦況を見守っていましたが、オーストリア側が戦況有利となると焦りが生じました。手に入れたシュレジエンを奪われると思ったのですね。1744年にカール7世を助けるという名目で第二次シュレジエン戦争を仕掛け、ドレスデンの条約で再びオーストリアにシュレジエンの領有を認めさせることに。(シュレジエンの領有が正式に認められたのは、アーヘンの和約から)

\次のページで「2-5 イギリスの外交戦略」を解説!/

2-5 イギリスの外交戦略

オーストリア継承戦争は、マリア・テレジアがオーストリア継承に異議を唱えて起こった戦争でしたが、実はイギリスとフランスの植民地を巡る争いでもありました。

イギリスはフランスとジョージ王戦争カーナティック戦争を行い、戦いを有利に進めます。そしてスペイン(スペイン継承戦争から君主がハプスブルク家からフランス・ブルボン家となる)とはジェンキンズの耳戦争でこちらも同様に優勢。イギリスはオーストリアに経済的な支援をしたため、優勢となったオーストリアは1748年にアーヘンの和約を結ぶことになったのです。

2-6 アーヘンの和約

8年にも及ぶ継承戦争が幕を閉じました。この戦争後のアーヘンの条約では、次のことが決定することに。まずマリア・テレジアはシュレジエンをプロイセンへ割譲することを認めることとなりました。代わりに彼女のハプスブルク家の家督継承が承認されることに。神聖ローマ皇帝の座はオーストリア継承戦争中にバイエルン公がカール7世として就くことになりましたが、カール7世が病死したためわずか3年間の在位に終わります。後の皇帝へはマリア・テレジアの夫、フランツが就いたため神聖ローマ皇帝の座を取り戻すことに。

2-7 イギリスとフランスの外交戦争でもあった継承戦争

アーヘンの和約において、当初考えていたフランスの分割案とは程遠い結果となりました。そればかりかフランスはこの戦争によって何も得ることができなかったのです。一方イギリスはバックアップしていたオーストリアが家督を相続し神聖ローマ皇帝の座も維持させることに。この結果から、イギリスがフランスに勝利した戦争だったことが分かりますね。

3 シュレジエン奪回に燃えるマリア・テレジア

オーストリア継承戦争でマリア・テレジアはシュレジエンを失ったものの、多くの領土を守り晴れてハプスブルク家の家督を相続することになりました。しかし地下資源に冨み、工業地帯だったシュレジエンは憎きフリードリヒ2世に奪われてしまうことに。ここからマリア・テレジアはシュレジエン奪回を目指し、国内改革に乗り出すことに。それでは詳しく見ていきましょう。

3-1 マリア・テレジアのオーストリア改革

マリア・テレジアは数々の改革を行っています。人材登用では保身ばかり気にする老臣らから、家柄に捉われず実力のある人物を次々と起用していくことに。その中に後にマリア・テレジアの改革の重要な補佐を務めるハウグヴィッツも。また中央集権化の強化を図ったり、医療面では衛生制度を整えます。これによってオーストリアの死亡率が低下。そして祝日の削減や修道院の新設を禁じました。

とりわけマリア・テレジアが力を注いだのが、軍隊の養成。先のオーストリア継承戦争ではフリードリヒ2世の近代的な軍隊に対してなす術がなかったオーストリア軍。そこで彼女はウィーンの南部になるノイシュタットに陸軍養成所を造り、軍の技術向上を図りました。そして功績のある人物たちにマリア・テレジア勲章を授けることに。

3-2 マリア・テレジア、外交革命を起こす

マリア・テレジアは外交革命を起こしました。これまで宿敵だったフランスのブルボン家とハプスブルク家がなんと手を組むことに。そしてロシアのエリザヴェータ女帝を誘い、フリードリヒ大王を追い詰めることに。この同盟は女性たち(マリア・テレジア、公式寵姫ポンパドゥール夫人、エリザヴェータ)による同盟だったため、「3枚のペチコート作戦」と呼ばれています。またブルボン家と手を組んだ友好の証として、マリア・テレジアの末娘マリー・アントワネットがフランスのルイ16世の元へ嫁ぐことに。こうしてオーストリアとプロイセンは再び刃を交えることとなるのでした。

\次のページで「4 マリア・テレジアの素顔」を解説!/

4 マリア・テレジアの素顔

父カール6世から家督を継いだマリア・テレジア。彼女は一体どんな人物だったのでしょうか。ここではマリア・テレジアの素顔について紹介していきます。

4-1 恋愛結婚だったテレジア

この時代では珍しい恋愛結婚だったマリア・テレジアと夫フランツ。マリア・テレジアはフランツのことをとても愛していたそう。中でも有名なエピソードの1つに食事の話があります。毎日3回も朝食を摂ったと言われているマリア・テレジア。1度目は閣僚らと、2度目は子どもたちと。そして3回目に夫フランツとの食事を楽しんだそう。

4-2 生涯で16人もの子宝に恵まれたテレジア

Maria Theresia Familie.jpg
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マリア・テレジアは20年間もの間に16人もの子どもを授かりました。オーストリア継承戦争が起こった際には息子ヨーゼフを妊娠していたマリア・テレジア。彼女は女帝としてオーストリアを統治している間ずっと妊娠や出産を繰り返したことになりますね。現代人の感覚からするとあり得ないことで、かなりパワフルな女性だったようですね。

ちなみにマリア・テレジア自身についてですが、彼女は「女帝」ではありません。正式には神聖ローマ皇帝の皇妃。これは女性であったため皇帝となることができなかったのです。しかし実際の政治を動かしていたのはマリア・テレジアだったため、「女帝」と呼ばれるように。

4-3 母というよりも政治家だったテレジア

マリア・テレジアは政治的な判断がとても優れた女性でした。彼女自身は恋愛結婚で幸せな結婚生活を過ごしたのに対し、娘たちを政治のカードとして利用することに。16人の子どもたちで成人まで成長した娘たちの嫁ぎ先はどうなったのかというと…。

最も溺愛した四女のマリア・クリスティーネは恋愛結婚を認め小国へ嫁がせます。しかし体が弱かったり天然痘などの病気になった娘たちには女学校へ追い込むことに。六女のマリア・アマーリエに対しては領土を維持するために嫌がる彼女をパルマ公へ嫁がせることに。そして九女マリア・ヨーゼファが結婚直前に亡くなったため、十女マリア・カロリーネがナポリ王の元へ嫁ぎます。こうしてフランス、ルイ16世の元へ末娘マリー・アントワネットは嫁ぐことに。

オーストリア・ハプスブルク家の危機を乗り越えた才女

マリア・テレジアのオーストリア継承をきっかけに起こったオーストリア継承戦争。生前カール6世の尽力も空しく、マリア・テレジアが家督を継いだ時から各国はオーストリアの領土や神聖ローマ皇帝の座を狙うことに。フランス、プロイセン、バイエルン、ザクセンなどがマリア・テレジアを襲います。普通ならばイギリスが味方してくれているとはいえ、勝ち目のない状況ですよね。ところがこの逆境の中をマリア・テレジアは打開していきました。これはひとえに彼女の政治的なセンスが抜群だったからでしょう。

そして私生活では、16人もの子どもに恵まれ恋愛結婚した夫フランツと仲睦まじく暮らしたマリア・テレジア。そして彼女が亡くなるまで気にかけていたのは、末娘マリー・アントワネット。彼女がギロチンにかけられる前にマリア・テレジアは世を去っていることが救いでしょうか。

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ヨーロッパの歴史世界史歴史神聖ローマ帝国

「オーストリア継承戦争」をハプスブルク家大好き歴女が5分でわかりやすく解説!

今回は、オーストリア継承戦争についてです。

この継承戦争は、オーストリア・ハプスブルク家のカール6世に息子の後継者がいなかったため起こった問題です。カール6世は、長女マリア・テレジアがハプスブルク家の家督を継げるように先手を打っていた。ところが彼女の継承に反対したバイエルン公など、各国の君主らがハプスブルク家を断絶させようと戦争に発展していくことになったんです。

それじゃあここからは、ハプスブルク家に詳しいまぁこと一緒に解説していきます。

ライター/まぁこ

ヨーロッパ史が好きなアラサー女子。特にハプスブルク家に関する本を愛読中。今回は、名門オーストリア・ハプスブルク家の世継ぎ問題のきっかけとなったマリア・テレジアを中心にオーストリア継承戦争を解説していく。

1 オーストリア・ハプスブルク家の継承問題

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オーストリア継承戦争とは、息子に恵まれなかったカール6世が自分の後継者に長女マリア・テレジアとしたことで起こった戦争でした。オーストリア・ハプスブルク家の宿敵フランスは、この機会にハプスブルク家の断朝を目論みます。それではより詳しく見ていきましょう。

1-1 カール6世の世継ぎ問題

カール6世は、後継者となる男児に恵まれませんでした。このため、長女マリア・テレジアに継承させることを決意。彼女が継承できるように、長子相続法を制定します。そしてマリア・テレジアの相続が承認されるように、イギリスやフランスなど各国に承認を取り付けることに成功。カール6世としては、19歳で恋愛結婚したマリア・テレジアが男児を産んでくれることを願っていたそうですが、男児の孫を見る前にカールは亡くなりました。

1-2 マリア・テレジアが継承したが…

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By Andreas MøllerKunsthistorisches Museum Wien, Bilddatenbank., パブリック・ドメイン, Link

父カール6世が亡くなり、オーストリア・ハプスブルク家を継承したマリア・テレジア。ところが、承認していたはずのフランス、プロイセン、バイエルンらが彼女の相続に異議を唱えることに。この時ヨーゼフを妊娠していたマリア・テレジアは23歳。しかも彼女は父から帝王学を学んでおらず、政治に関しては全くの素人。そのためフランスやプロイセン、バイエルンなどの国々はマリア・テレジアが当主となったため侮っていたのです。

1-3 フランスが主導したオーストリア分割案

反ハプスブルク家を掲げた各国の思惑はどうだったのでしょうか。フランスは宿敵ハプスブルク家からネーデルラントを、バイエルンは神聖ローマ皇帝の冠を、ザクセンはチェコ南部のモラヴィアを、プロイセンは豊かな土地シュレジエンを得ようと考えていました。そしてマリア・テレジアへはハンガリー女王のみ承認しようと企てたのです。

2 オーストリア継承戦争勃発!

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