幕末日本史歴史江戸時代

幕末四賢侯の一人「伊達宗城」新しいもの好きの宇和島藩主を歴女がわかりやすく解説

2-8、隠居後の宗城

尚、第9代藩主には宗紀の3男で宗城の養子の宗徳(むねえ)が就任。
しかし藩政の実権は宗城が握り、老公宗紀がそれを補佐していたということ。
しかし3代の藩主の妻子に家臣と奥女中という3世帯のために藩財政は逼迫(ちなみに宗紀は寛政4年(1792年)9月16日生まれだが、それ以前の生まれ説があり、明治22年(1889年)98歳までご存命)。

そして桜田門外の変で直弼が倒された後、宗城は謹慎を解かれて再び幕政に関与するように。

3-1、宗城、上洛して政治活動

宗城は文久2年11月、「上洛して協力せよ」という勅命を受けて300人の兵を率いて上洛し、春嶽らと連絡をとりあって、公武合体のための活動を。同じく文久2年(1862年)には、生麦事件の賠償金を幕府が支払うことに反対する一方、生麦事件の張本人の島津久光とは交友関係を持って、公武合体を推進。

宗城は文久3年(1863年)末に参預会議に、慶応3年(1867年)には四侯会議に参加するも、短期間で成果なし。 元治元年(1864年)4月には宇和島に帰国。

3-2、宗城、イギリス艦をお忍びで訪問

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慶応2年(1866年)、イギリス公使ハリー・パークスがプリンセス・ロイヤルで宇和島を訪れた際、お忍びで同艦を訪問、パークス一行上陸時は、閲兵式に続き純和風の宴で接待し、宇和島を離れる際には藩の旗印と英国国旗を交換。そして同年後日に、イギリス公使の通訳官アーネスト・サトウが宇和島訪問したときは、日本の将来について、天皇を中心とした連邦国家にすべしという意見交換をしたということ。

サトウの回顧録「一外交官の見た明治維新」によれば、宇和島訪問の際、まずオペラグラスでイギリス船を観察していた藩主宗徳が乗船、愛想良く応対。明日は父を連れてくると言い、翌日宗城を連れて再来訪、宗城は「顔立ちのきつい、鼻の大きな背の高い人物」で、宗徳とは、父上、倅と呼び合い、藩主宗徳が宗城を尊敬している様子がよくわかったとか、その後、彼らの奥方や側室、子供たちも見学に訪れたということ。
返礼に招かれたサトウらは、ご馳走になって宗城らと会談したが、宗城はサトウの論文である「英国策論」を「おお、それは私も読みましたよ」とご機嫌で色々な話をしたということです。また、自分は病気ということになっているので、ここに来たことは京都の連中には内緒と念を押したそう。宴会は楽しいものだったようで、酔っぱらった宗城と松根家老はイギリス士官たちと一緒にダンスを

外国人の見聞録は見たまま書いてあるので、このとき49歳、意外にお茶目な宗城の様子がおもしろいです。

3-3、宗城、薩長の武力倒幕に反対

この頃には公武合体ではなく倒幕に傾いてきましたが、宗城は土佐藩の大政奉還論のほうに同調したということ。

慶応4年(1867)同年10月、15代慶喜の大政奉還のあとに、12月9日には王政復古の大号令を発して新政府が樹立、中心メンバーを集めて開催された小御所会議で、慶喜に辞官納地(朝廷の官職の返上と領地の一部返還)要求が決定。
宗城はこの会議に参加しておらず、薩摩藩の大久保利通や公家の岩倉具視など倒幕派が主導権を握り、山内容堂や松平慶永など、慶喜を新政府に参画させようという公議政体派は押し切られたかたちに。

土佐の山内容堂は、宗城に松根図書紀茂とともに上洛要請の手紙を送り、宗城は上洛後に新政府から議定に任命。

明治元年(1868年)戊辰戦争が勃発後、官軍と敵対する奥羽列藩同盟の盟主は仙台伊達家で宗城の宗家に。仙台伊達家には宗城の次男宗敦が養子に行っていたせいもあり、宗城は仙台藩主伊達義邦の説得に行きたいと訴えたが、戦争が始まってしまい、仙台行きは中止。
宗城は戦争にも中立の立場をとって新政府参謀を辞任、宇和島藩は戊辰戦争に参戦しなかったためもあり、以後宇和島藩の人材は新政府の重要ポストにつけず

4-1、宗城、外国とのトラブル解決に奔走

宗城は議定の辞職は許されず、外国通を買われて外国事務掛を兼務することに。
その後職制が改正で外国事務総督、外務事務局補となったが、宗城は神戸事件や堺事件などの解決に奔走。

神戸事件(備前事件)とは、慶応4年1月11日(1868年2月4日)に神戸(現・神戸市)三宮神社前で、備前岡山藩の兵が、隊列を横切ったフランス人水兵らを負傷させたうえに銃撃戦に発展、居留地予定地を検分中の欧米諸国公使らに水平射撃を加えた事件のことで、明治政府初の外交問題として、宗城は外交責任者として交渉。宗城は助命に奔走したが、結局は問題を起こした隊の責任者の滝善三郎が切腹する事で解決に。

堺事件は、慶応4年2月15日(1868年3月8日)に和泉国堺町内で起きた土佐藩士によるフランス帝国水兵殺傷事件のこと。堺を警備していた土佐藩兵が、上陸した数十人のフランス水兵に迷惑した住人のため帰艦させようとしたが、言葉が通じずに捕縛しようとして銃撃戦に発展、11名のフランス人が戦死。フランス公使ロッシュは、外国事務総督の宗城に対し、15万ドルの賠償金と土佐藩兵の処刑を要求。宗城はロッシュを訪ねて陳謝し、要求をすべて受け入れることに。土佐藩士の切腹は犠牲者のフランス人と同じ11人となったところで中止、残り9名は助命に。

また、2月30日には列国の公使を京都の朝廷に招き、明治天皇との謁見が予定されたが、当日、過激な攘夷主義者が宮中へ向うイギリス公使パークスを襲撃。パークスは難を免れたが、政府は謝罪使として宗城を派遣して謝罪。
パークスはこのとき犯人の処刑を要求して、新政府は犯人を吊るし刑に。

宗城はまだ固まっていない新政府の外務大臣補佐として、大事件の後始末と謝ってばかりいたみたいですね。

4-2、宗城、新政府の要職を歴任

宗城は、同年閏四月、外国知官事(現在の外務大臣)、さらに翌5月に参議に。
宗城は、外国知官事と参議を辞退したが、許されず。
そして明治2年5月、宗城は外国知官事の職を解任、7月には他の元大名とともに麝香間詰(じゃこうのまづめ、政府の功労者が明治天皇の相談役として出仕する名誉職)に。

しかし2カ月後には、新設の大蔵省と民部省を兼ねた民部卿兼大蔵卿に就任し、鉄道敷設のためにイギリスからの借款を取り付けたということ。
明治4年4月、宗城は、欽差全権大臣(天皇に全権委任された臨時大臣)に任命され清国へ派遣、清国の全権大臣、李鴻章と補佐役の署理天津海関道陳欽らと日清修好条規の締結に尽力

宗城が承諾した清国の案による日清修好条規の内容は、日清両国にとって完全に対等なものであり、互いに領事裁判権も認め合ったが、清国に不平等条項を押しつけようとした一部の日本政府高官からは不評で、ドイツとアメリカの公使からも、日清修好条規第一条に「他国より軽藐の事あらば彼此相助」という文言が、「他国が日本と清国を見下し愚弄した場合、両国は互いに助け合う」という意味で、「攻守同盟ではないか」とクレームがつき、外務卿の岩倉具視は、宗城を含む日本全権団を召喚、諸外国からの批判の責任をとるかたちで、宗城は免職、麝香間祗候に。

4-3、宗城、外国要人の接待役を

宗城は明治天皇の信頼も篤く、明治6年12月、明治天皇が浅草今戸にある宗城の屋敷に行幸、御製の和歌も。

そして宗城は、その後は政府の要職につかなかったとはいえ、明治5年のロシアのアレクセイ大公(アレクサンドル2世皇帝の3男)からイタリアの王子、ドイツ皇族、ハワイの国王などの外国要人の接待役を任されたということ。

また、宗城は、この時期から将来的に国会開会を念頭に置き、上院の構成は旧大名や公家などの華族と考えて、西村茂樹の上院設立構想に賛意を示したうえで、中山忠能、松平慶永、大原重徳らとともにその実現のための華族の組織の設立に助力、華族会館として実現。

宗城は明治17年(1884年)華族令によって伯爵に、明治25年(1892年)東京の今戸屋敷で75歳で病没。

大正2年(1913年)に創建された宇和島鎮座の鶴島神社(現在の南予護国神社)の御祭神として祀られています。

4賢候の中では明治政府でもたったひとり活躍

伊達宗城は10万石の大名ながら、新しいもの好きで学究肌、蘭学者を雇って蒸気船や砲台を作らせ西洋式の軍隊で国防をはかるなど富国強兵を行い、自分が旗本出身で思いがけず大名になったせいか、土佐藩や薩摩藩の跡継ぎ問題の解決にも世話を焼いたりするうちに、大名ネットワークが出来て将軍継嗣問題に口出しするまでに。

明治後は大名出身者の出る幕がほとんどなかったのに、宗城だけは外国通で優れた調停能力を買われて外務大臣的役割を果たしました。

宇和島藩は他の藩のような過激な志士も出ず壮絶な内紛もなかったかわりに、殿さまひとりが傑出していたということなのでしょうか。

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