幕末日本史歴史江戸時代

幕末四賢侯の一人「伊達宗城」新しいもの好きの宇和島藩主を歴女がわかりやすく解説

2-3、宗城は黒船来航以前から国防の必要性を

嘉永6年(1853年)に突然ペリーの黒船が来航し、日本中が大騒ぎになったようですが、実はすでに日本にはアヘン戦争(1840年~42年)の情報も伝わっていて、アメリカの艦隊がやってくることも、前年にオランダから幕府に報告が伝わっていました。それに黒船来航以前から、日本沿岸には盛んにアメリカ船やイギリス船が来航していたので、瀬戸内海、太平洋に面する宇和島では、黒船来航以前から海防意識が高かったのですね

そういう理由で、前藩主宗紀の時代から、藩として農学のほか兵学などにも詳しい佐藤信淵の助言をもらったり、家臣を江戸の西洋砲術家に弟子入りさせたりしていたということ。

佐藤信淵は、「日本は絶対的な権力をもった国家をつくり、世界に植民地を持つべきだ」と言い、天保10年(1839年)に宗城のために「上宇和島藩世子封事」として、宇和島藩にぴったりの殖産興業策、特産物の開発、物産の輸出を提言しました。

宗城は信淵に影響を受けたせいか、「ロシア誌」「トルコ志」「西洋列国史」などを読破、世界情勢に詳しくなったそう

2-4、宗城、蘭学者高野長英らを招く

高野長英は、シーボルトの弟子、シーボルト事件では罪を免れたが、その後の天保10年(1839年)、蛮社の獄(蛮社とは蘭学のことで、モリソン号事件や鎖国など幕府の政策批判を行った蘭学者の高野長英、渡辺崋山などが処罰された事件)で投獄された後脱獄して幕府から追われ、江戸で潜伏していたのですが、鳴滝塾時代の同門で宇和島出身の蘭方医二宮敬作の手引きで宇和島に来て宗城に庇護されました。

長英は、宗城のもとで約1年ほど潜伏、その間に兵法書など蘭学書の翻訳、砲台を作るなどして宇和島藩の兵備の洋式化に貢献。

2-5、ペリー来航で老中阿部正弘に意見を

嘉永6年(1853年)いよいよペリーの黒船が来航、老中阿部正弘は、大名たちにも広く意見を求めたのですが、それに対し宗城は「イギリスは5大州に属国のないところなく、戦闘の術にすぐれ中国の次には我が国を狙っている。アメリカは大統領制、三権分立の国であるが、万国併合の意気盛んで我が国を狙っており、軍艦数100隻、各艦に大砲40~50門を有する。したがって今戦えば勝算なし」と提言、我が国が列強の植民地にならないために、軍艦と大砲を一刻も早く装備すべきと主張、幕府に軍艦建造の許可を求めたということ。

2-6、村田蔵六と嘉蔵に蒸気船作りを命令

宗城は、重用していた宇和島在住の蘭方医二宮敬作に頼み、緒方洪庵の紹介で長州の村田蔵六(大村益次郎)を200石で招聘、オランダ語の専門書を翻訳して、砲台や船を設計の研究をさせる一方、和船に大砲を積んで砲撃実験を開始し、黒船に似た外輪を持つ人力の和船を取り寄せて研究させたり、城下の提灯張替え業の何でも屋でおそろしく器用な嘉蔵(のちの前原巧山)を抜擢、蒸気機関の製作を任せました。嘉蔵を長崎に留学させたりした結果、ペリー来航から3年後、日本人だけで実験的な蒸気船が完成。一般には薩摩藩制作の蒸気船が日本初とされているが、外国人技師を雇っていたため、宇和島藩の船は日本人だけの政策蒸気船第1号に。

2-7、宗城、安政の大獄で隠居謹慎に

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宗城は、福井藩主の松平春嶽、土佐藩主の山内容堂、薩摩藩主の島津斉彬、水戸の斉昭ら大名たちと交流し、「四賢侯」と言われるように。彼らは幕政に積極的に意見を述べて、老中首座の阿部正弘に幕政改革を訴えるなどしていたのですが、阿部正弘の死後、安政5年(1858年)に大老となった井伊直弼と将軍継嗣問題で対立。
13代将軍家定が病弱で嗣子が期待できなかったことで、宗城らは次期将軍に斉昭の息子である一橋慶喜を強力に推薦、しかし直弼は、将軍に血縁が近いことなどを理由に、まだ幼い紀州藩主徳川慶福(よしとみ)と譲らず。
ついに直弼は大老強権を発動し、慶福が14代将軍家茂となり、一橋派は排除され、安政の大獄に。宗城は春嶽、容堂、斉昭らと共に隠居謹慎に

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