幕末日本史歴史江戸時代

幕末四賢侯の一人「伊達宗城」新しいもの好きの宇和島藩主を歴女がわかりやすく解説

よぉ、桜木健二だ、今回は伊達宗城を取り上げるぞ。

伊達というからには伊達政宗の子孫なのか、四国の宇和島10万石で幕末に活躍した藩主ってのもおもしろい、どんな人だったのか知りたいよな。

その辺のところを幕末が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。幕末については佐幕も勤王もなく興味津々。あまり知られていない4賢候のひとり四国の宇和島藩主伊達宗城について、5分でわかるようにまとめた。

1-1、伊達宗城(だてむねなり)は、旗本の生まれ

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宗城は文政元年(1818年)、父で大身旗本の山口直勝と、母、旗本蒔田広朝の娘の長男として、江戸で誕生。幼名は亀三郎または兵五郎、元服して宗城。

宗城の祖父山口直清は、宇和島藩5代藩主伊達村候(むらとき)の次男で徳川家の旗本3千石の山口家の養嗣子となった人で、宇和島藩主の親戚筋。

文政10年(1827年)4月、宗城は9歳で宇和島藩主8代目の伊達宗紀の仮養子に、次いで文政11年(1828年)10月、宇和島藩家臣伊達寿光(伊達村候の孫なので宗城の従兄)の養子となったが、翌年の文政12年(1829年)4月11日、嗣子に恵まれなかった藩主宗紀(むねただ)の養子に。尚、宗城は宗紀の5女貞と婚約して婿養子になるはずが、貞の早世で婚姻は出来ず。

宇和島藩伊達家は伊達政宗の子孫
宇和島藩伊達家の初代は伊達政宗の長男秀宗。最初は跡取りだったが、秀吉の養子だったこと、政宗と正室愛姫との間に忠宗が生まれたことなどで、相続が微妙な立場となったのですが、大坂冬の陣での徳川方としての働きを認めた2代将軍徳川秀忠が、政宗の戦功と秀宗の忠義に報いるとして、秀宗は宇和島藩を与えられたそう。

そういうわけで宇和島藩伊達家は、仙台藩の支藩ではなく別の国主格大名として取り立てられたが、仙台の伊達家本家との仲はあまり良くなかったそう。

尚、宗紀には宗城が養子になった後、文政13年(1830年)息子が生まれたので、宗城の養子となって9代藩主伊達 宗徳( むねえ)として後継ぎに。
また、宗城の息子は仙台伊達家本家へ養子に

1-2、宗城の少年時代

宗城は江戸での18歳の頃、水戸斉昭に可愛がってもらい、水戸屋敷にもしょっちゅう遊びに行って弟子のような存在だったそうで、斉昭の娘賢姫(佐加子)と婚約したが、結婚直前に病死してしまったということ。
また、宇和島伊達家の養子となったとき、藩士の岡野助左衛門と松根図書壽恭が教育係に。松根は代々家老の家柄で、宗城の信頼も篤く息子と2代にわたり家老として宗城に仕えたということ。

宗城は読書家で、資治通鑑を読み通したという話も。

2-1、宗城、26歳で宇和島藩主に

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By 不明。 – 福井市郷土歴史博物館所蔵品。, パブリック・ドメイン, Link

天保15年(1844年)、宗城は26歳で養父の隠居で藩主に就任。

前藩主宗紀は、それ以前に藩の財政悪化のため、改革を断行していて、大坂商人からの借金を無利息200年賦返還、脅迫で一部の借金を放棄と強引なことから、ハゼ蝋の藩の専売化や質素倹約を推奨のほか、塩やスルメなどの宇和島の特産品を保護、検地などを行い、藩士の小池九蔵、若松総兵衛を、農学者でもある佐藤信淵に入門させて、農業の技術改良などを学ばせたということ。

そして融通会所を設立し物価の統制を図るなどした結果、藩財政改革に成功、宗城に家督を譲るまでに6万両の貯蓄が。そして宗城も養父宗紀の殖産興業を中心にさらに藩政改革を発展、木蝋の専売化や石炭の埋蔵調査などを実施。

2-2、宗城、土佐藩の継承問題など調停能力を発揮

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By published by 東洋文化協會 (The Eastern Culture Association) – The Japanese book “幕末・明治・大正 回顧八十年史” (Memories for 80 years, Bakumatsu, Meiji, Taisho), パブリック・ドメイン, Link

嘉永元年(1848年)7月10日(実際は6月16日)、土佐藩主山内豊熈(とよてる)が34歳で江戸で急死。その数か月後に新藩主も急死、残された実弟は3歳、という土佐藩断絶のピンチが勃発。事実を隠し、新藩主が病気で隠居したことにして、分家の豊信(とよしげ)後の容堂を藩主にしてお家断絶を逃れたい土佐藩の家老たちの運動に、世話好きの宗城は亡き豊熈の正室(斉彬実妹)を通じて島津斉彬からの要請もあり、老中阿部正弘に上手に働きかけて成功。藩主となった山内容堂は宗城には恩を感じていたということ。

また、長年父が藩主を譲ってくれず、お由羅騒動まで起こった薩摩藩の40歳の世子島津斉彬についても、宗城が斉彬の大叔父の福岡藩主黒田斉溥らとともに老中阿部正弘を動かして斉彬父の斉興を隠居させ、やっとこさ斉彬が藩主になれたという話。

また嘉永2年(1849年)、肥前鍋島藩と福岡黒田藩との間で砲台建設がもとでもめたときも、宗城は正室が鍋島藩主直正の妹である縁もあり、老中阿部正弘の要請で間に入り円満解決に。このとき、蘭癖大名でもある黒田 長溥から、ヨーロッパで発明されて間もないマッチをもらい、新しもの好きの宗城は大喜びしたそう。
宗城はこういう交渉ごとに長けた人だったんですね。

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なるほど、お世話好きな人なんだな、これで4賢侯の大名ネットワークが出来たわけなのか。

\次のページで「2-3、宗城は黒船来航以前から国防の必要性を」を解説!/

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