今回は伊達宗城を取り上げるぞ。

伊達というからには伊達政宗の子孫なのか、四国の宇和島10万石で幕末に活躍した藩主ってのもおもしろい、どんな人だったのか知りたいよな。

その辺のところを幕末が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。幕末については佐幕も勤王もなく興味津々。あまり知られていない4賢候のひとり四国の宇和島藩主伊達宗城について、5分でわかるようにまとめた。

1-1、伊達宗城(だてむねなり)は、旗本の生まれ

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宗城は文政元年(1818年)、父で大身旗本の山口直勝と、母、旗本蒔田広朝の娘の長男として、江戸で誕生。幼名は亀三郎または兵五郎、元服して宗城。

宗城の祖父山口直清は、宇和島藩5代藩主伊達村候(むらとき)の次男で徳川家の旗本3千石の山口家の養嗣子となった人で、宇和島藩主の親戚筋。

文政10年(1827年)4月、宗城は9歳で宇和島藩主8代目の伊達宗紀の仮養子に、次いで文政11年(1828年)10月、宇和島藩家臣伊達寿光(伊達村候の孫なので宗城の従兄)の養子となったが、翌年の文政12年(1829年)4月11日、嗣子に恵まれなかった藩主宗紀(むねただ)の養子に。尚、宗城は宗紀の5女貞と婚約して婿養子になるはずが、貞の早世で婚姻は出来ず。

宇和島藩伊達家は伊達政宗の子孫
宇和島藩伊達家の初代は伊達政宗の長男秀宗。最初は跡取りだったが、秀吉の養子だったこと、政宗と正室愛姫との間に忠宗が生まれたことなどで、相続が微妙な立場となったのですが、大坂冬の陣での徳川方としての働きを認めた2代将軍徳川秀忠が、政宗の戦功と秀宗の忠義に報いるとして、秀宗は宇和島藩を与えられたそう。

そういうわけで宇和島藩伊達家は、仙台藩の支藩ではなく別の国主格大名として取り立てられたが、仙台の伊達家本家との仲はあまり良くなかったそう。

尚、宗紀には宗城が養子になった後、文政13年(1830年)息子が生まれたので、宗城の養子となって9代藩主伊達 宗徳( むねえ)として後継ぎに。
また、宗城の息子は仙台伊達家本家へ養子に

1-2、宗城の少年時代

宗城は江戸での18歳の頃、水戸斉昭に可愛がってもらい、水戸屋敷にもしょっちゅう遊びに行って弟子のような存在だったそうで、斉昭の娘賢姫(佐加子)と婚約したが、結婚直前に病死してしまったということ。
また、宇和島伊達家の養子となったとき、藩士の岡野助左衛門と松根図書壽恭が教育係に。松根は代々家老の家柄で、宗城の信頼も篤く息子と2代にわたり家老として宗城に仕えたということ。

宗城は読書家で、資治通鑑を読み通したという話も。

2-1、宗城、26歳で宇和島藩主に

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By 不明。 - 福井市郷土歴史博物館所蔵品。, パブリック・ドメイン, Link

天保15年(1844年)、宗城は26歳で養父の隠居で藩主に就任。

前藩主宗紀は、それ以前に藩の財政悪化のため、改革を断行していて、大坂商人からの借金を無利息200年賦返還、脅迫で一部の借金を放棄と強引なことから、ハゼ蝋の藩の専売化や質素倹約を推奨のほか、塩やスルメなどの宇和島の特産品を保護、検地などを行い、藩士の小池九蔵、若松総兵衛を、農学者でもある佐藤信淵に入門させて、農業の技術改良などを学ばせたということ。

そして融通会所を設立し物価の統制を図るなどした結果、藩財政改革に成功、宗城に家督を譲るまでに6万両の貯蓄が。そして宗城も養父宗紀の殖産興業を中心にさらに藩政改革を発展、木蝋の専売化や石炭の埋蔵調査などを実施。

2-2、宗城、土佐藩の継承問題など調停能力を発揮

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By published by 東洋文化協會 (The Eastern Culture Association) - The Japanese book "幕末・明治・大正 回顧八十年史" (Memories for 80 years, Bakumatsu, Meiji, Taisho), パブリック・ドメイン, Link

嘉永元年(1848年)7月10日(実際は6月16日)、土佐藩主山内豊熈(とよてる)が34歳で江戸で急死。その数か月後に新藩主も急死、残された実弟は3歳、という土佐藩断絶のピンチが勃発。事実を隠し、新藩主が病気で隠居したことにして、分家の豊信(とよしげ)後の容堂を藩主にしてお家断絶を逃れたい土佐藩の家老たちの運動に、世話好きの宗城は亡き豊熈の正室(斉彬実妹)を通じて島津斉彬からの要請もあり、老中阿部正弘に上手に働きかけて成功。藩主となった山内容堂は宗城には恩を感じていたということ。

また、長年父が藩主を譲ってくれず、お由羅騒動まで起こった薩摩藩の40歳の世子島津斉彬についても、宗城が斉彬の大叔父の福岡藩主黒田斉溥らとともに老中阿部正弘を動かして斉彬父の斉興を隠居させ、やっとこさ斉彬が藩主になれたという話。

また嘉永2年(1849年)、肥前鍋島藩と福岡黒田藩との間で砲台建設がもとでもめたときも、宗城は正室が鍋島藩主直正の妹である縁もあり、老中阿部正弘の要請で間に入り円満解決に。このとき、蘭癖大名でもある黒田 長溥から、ヨーロッパで発明されて間もないマッチをもらい、新しもの好きの宗城は大喜びしたそう。
宗城はこういう交渉ごとに長けた人だったんですね。

\次のページで「2-3、宗城は黒船来航以前から国防の必要性を」を解説!/

2-3、宗城は黒船来航以前から国防の必要性を

嘉永6年(1853年)に突然ペリーの黒船が来航し、日本中が大騒ぎになったようですが、実はすでに日本にはアヘン戦争(1840年~42年)の情報も伝わっていて、アメリカの艦隊がやってくることも、前年にオランダから幕府に報告が伝わっていました。それに黒船来航以前から、日本沿岸には盛んにアメリカ船やイギリス船が来航していたので、瀬戸内海、太平洋に面する宇和島では、黒船来航以前から海防意識が高かったのですね

そういう理由で、前藩主宗紀の時代から、藩として農学のほか兵学などにも詳しい佐藤信淵の助言をもらったり、家臣を江戸の西洋砲術家に弟子入りさせたりしていたということ。

佐藤信淵は、「日本は絶対的な権力をもった国家をつくり、世界に植民地を持つべきだ」と言い、天保10年(1839年)に宗城のために「上宇和島藩世子封事」として、宇和島藩にぴったりの殖産興業策、特産物の開発、物産の輸出を提言しました。

宗城は信淵に影響を受けたせいか、「ロシア誌」「トルコ志」「西洋列国史」などを読破、世界情勢に詳しくなったそう

2-4、宗城、蘭学者高野長英らを招く

高野長英は、シーボルトの弟子、シーボルト事件では罪を免れたが、その後の天保10年(1839年)、蛮社の獄(蛮社とは蘭学のことで、モリソン号事件や鎖国など幕府の政策批判を行った蘭学者の高野長英、渡辺崋山などが処罰された事件)で投獄された後脱獄して幕府から追われ、江戸で潜伏していたのですが、鳴滝塾時代の同門で宇和島出身の蘭方医二宮敬作の手引きで宇和島に来て宗城に庇護されました。

長英は、宗城のもとで約1年ほど潜伏、その間に兵法書など蘭学書の翻訳、砲台を作るなどして宇和島藩の兵備の洋式化に貢献。

2-5、ペリー来航で老中阿部正弘に意見を

嘉永6年(1853年)いよいよペリーの黒船が来航、老中阿部正弘は、大名たちにも広く意見を求めたのですが、それに対し宗城は「イギリスは5大州に属国のないところなく、戦闘の術にすぐれ中国の次には我が国を狙っている。アメリカは大統領制、三権分立の国であるが、万国併合の意気盛んで我が国を狙っており、軍艦数100隻、各艦に大砲40~50門を有する。したがって今戦えば勝算なし」と提言、我が国が列強の植民地にならないために、軍艦と大砲を一刻も早く装備すべきと主張、幕府に軍艦建造の許可を求めたということ。

2-6、村田蔵六と嘉蔵に蒸気船作りを命令

宗城は、重用していた宇和島在住の蘭方医二宮敬作に頼み、緒方洪庵の紹介で長州の村田蔵六(大村益次郎)を200石で招聘、オランダ語の専門書を翻訳して、砲台や船を設計の研究をさせる一方、和船に大砲を積んで砲撃実験を開始し、黒船に似た外輪を持つ人力の和船を取り寄せて研究させたり、城下の提灯張替え業の何でも屋でおそろしく器用な嘉蔵(のちの前原巧山)を抜擢、蒸気機関の製作を任せました。嘉蔵を長崎に留学させたりした結果、ペリー来航から3年後、日本人だけで実験的な蒸気船が完成。一般には薩摩藩制作の蒸気船が日本初とされているが、外国人技師を雇っていたため、宇和島藩の船は日本人だけの政策蒸気船第1号に。

2-7、宗城、安政の大獄で隠居謹慎に

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宗城は、福井藩主の松平春嶽、土佐藩主の山内容堂、薩摩藩主の島津斉彬、水戸の斉昭ら大名たちと交流し、「四賢侯」と言われるように。彼らは幕政に積極的に意見を述べて、老中首座の阿部正弘に幕政改革を訴えるなどしていたのですが、阿部正弘の死後、安政5年(1858年)に大老となった井伊直弼と将軍継嗣問題で対立。
13代将軍家定が病弱で嗣子が期待できなかったことで、宗城らは次期将軍に斉昭の息子である一橋慶喜を強力に推薦、しかし直弼は、将軍に血縁が近いことなどを理由に、まだ幼い紀州藩主徳川慶福(よしとみ)と譲らず。
ついに直弼は大老強権を発動し、慶福が14代将軍家茂となり、一橋派は排除され、安政の大獄に。宗城は春嶽、容堂、斉昭らと共に隠居謹慎に

\次のページで「2-8、隠居後の宗城」を解説!/

2-8、隠居後の宗城

尚、第9代藩主には宗紀の3男で宗城の養子の宗徳(むねえ)が就任。
しかし藩政の実権は宗城が握り、老公宗紀がそれを補佐していたということ。
しかし3代の藩主の妻子に家臣と奥女中という3世帯のために藩財政は逼迫(ちなみに宗紀は寛政4年(1792年)9月16日生まれだが、それ以前の生まれ説があり、明治22年(1889年)98歳までご存命)。

そして桜田門外の変で直弼が倒された後、宗城は謹慎を解かれて再び幕政に関与するように。

3-1、宗城、上洛して政治活動

宗城は文久2年11月、「上洛して協力せよ」という勅命を受けて300人の兵を率いて上洛し、春嶽らと連絡をとりあって、公武合体のための活動を。同じく文久2年(1862年)には、生麦事件の賠償金を幕府が支払うことに反対する一方、生麦事件の張本人の島津久光とは交友関係を持って、公武合体を推進。

宗城は文久3年(1863年)末に参預会議に、慶応3年(1867年)には四侯会議に参加するも、短期間で成果なし。 元治元年(1864年)4月には宇和島に帰国。

3-2、宗城、イギリス艦をお忍びで訪問

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慶応2年(1866年)、イギリス公使ハリー・パークスがプリンセス・ロイヤルで宇和島を訪れた際、お忍びで同艦を訪問、パークス一行上陸時は、閲兵式に続き純和風の宴で接待し、宇和島を離れる際には藩の旗印と英国国旗を交換。そして同年後日に、イギリス公使の通訳官アーネスト・サトウが宇和島訪問したときは、日本の将来について、天皇を中心とした連邦国家にすべしという意見交換をしたということ。

サトウの回顧録「一外交官の見た明治維新」によれば、宇和島訪問の際、まずオペラグラスでイギリス船を観察していた藩主宗徳が乗船、愛想良く応対。明日は父を連れてくると言い、翌日宗城を連れて再来訪、宗城は「顔立ちのきつい、鼻の大きな背の高い人物」で、宗徳とは、父上、倅と呼び合い、藩主宗徳が宗城を尊敬している様子がよくわかったとか、その後、彼らの奥方や側室、子供たちも見学に訪れたということ。
返礼に招かれたサトウらは、ご馳走になって宗城らと会談したが、宗城はサトウの論文である「英国策論」を「おお、それは私も読みましたよ」とご機嫌で色々な話をしたということです。また、自分は病気ということになっているので、ここに来たことは京都の連中には内緒と念を押したそう。宴会は楽しいものだったようで、酔っぱらった宗城と松根家老はイギリス士官たちと一緒にダンスを

外国人の見聞録は見たまま書いてあるので、このとき49歳、意外にお茶目な宗城の様子がおもしろいです。

3-3、宗城、薩長の武力倒幕に反対

この頃には公武合体ではなく倒幕に傾いてきましたが、宗城は土佐藩の大政奉還論のほうに同調したということ。

慶応4年(1867)同年10月、15代慶喜の大政奉還のあとに、12月9日には王政復古の大号令を発して新政府が樹立、中心メンバーを集めて開催された小御所会議で、慶喜に辞官納地(朝廷の官職の返上と領地の一部返還)要求が決定。
宗城はこの会議に参加しておらず、薩摩藩の大久保利通や公家の岩倉具視など倒幕派が主導権を握り、山内容堂や松平慶永など、慶喜を新政府に参画させようという公議政体派は押し切られたかたちに。

土佐の山内容堂は、宗城に松根図書紀茂とともに上洛要請の手紙を送り、宗城は上洛後に新政府から議定に任命。

明治元年(1868年)戊辰戦争が勃発後、官軍と敵対する奥羽列藩同盟の盟主は仙台伊達家で宗城の宗家に。仙台伊達家には宗城の次男宗敦が養子に行っていたせいもあり、宗城は仙台藩主伊達義邦の説得に行きたいと訴えたが、戦争が始まってしまい、仙台行きは中止。
宗城は戦争にも中立の立場をとって新政府参謀を辞任、宇和島藩は戊辰戦争に参戦しなかったためもあり、以後宇和島藩の人材は新政府の重要ポストにつけず

4-1、宗城、外国とのトラブル解決に奔走

宗城は議定の辞職は許されず、外国通を買われて外国事務掛を兼務することに。
その後職制が改正で外国事務総督、外務事務局補となったが、宗城は神戸事件や堺事件などの解決に奔走。

神戸事件(備前事件)とは、慶応4年1月11日(1868年2月4日)に神戸(現・神戸市)三宮神社前で、備前岡山藩の兵が、隊列を横切ったフランス人水兵らを負傷させたうえに銃撃戦に発展、居留地予定地を検分中の欧米諸国公使らに水平射撃を加えた事件のことで、明治政府初の外交問題として、宗城は外交責任者として交渉。宗城は助命に奔走したが、結局は問題を起こした隊の責任者の滝善三郎が切腹する事で解決に。

堺事件は、慶応4年2月15日(1868年3月8日)に和泉国堺町内で起きた土佐藩士によるフランス帝国水兵殺傷事件のこと。堺を警備していた土佐藩兵が、上陸した数十人のフランス水兵に迷惑した住人のため帰艦させようとしたが、言葉が通じずに捕縛しようとして銃撃戦に発展、11名のフランス人が戦死。フランス公使ロッシュは、外国事務総督の宗城に対し、15万ドルの賠償金と土佐藩兵の処刑を要求。宗城はロッシュを訪ねて陳謝し、要求をすべて受け入れることに。土佐藩士の切腹は犠牲者のフランス人と同じ11人となったところで中止、残り9名は助命に。

また、2月30日には列国の公使を京都の朝廷に招き、明治天皇との謁見が予定されたが、当日、過激な攘夷主義者が宮中へ向うイギリス公使パークスを襲撃。パークスは難を免れたが、政府は謝罪使として宗城を派遣して謝罪。
パークスはこのとき犯人の処刑を要求して、新政府は犯人を吊るし刑に。

宗城はまだ固まっていない新政府の外務大臣補佐として、大事件の後始末と謝ってばかりいたみたいですね。

4-2、宗城、新政府の要職を歴任

宗城は、同年閏四月、外国知官事(現在の外務大臣)、さらに翌5月に参議に。
宗城は、外国知官事と参議を辞退したが、許されず。
そして明治2年5月、宗城は外国知官事の職を解任、7月には他の元大名とともに麝香間詰(じゃこうのまづめ、政府の功労者が明治天皇の相談役として出仕する名誉職)に。

しかし2カ月後には、新設の大蔵省と民部省を兼ねた民部卿兼大蔵卿に就任し、鉄道敷設のためにイギリスからの借款を取り付けたということ。
明治4年4月、宗城は、欽差全権大臣(天皇に全権委任された臨時大臣)に任命され清国へ派遣、清国の全権大臣、李鴻章と補佐役の署理天津海関道陳欽らと日清修好条規の締結に尽力

宗城が承諾した清国の案による日清修好条規の内容は、日清両国にとって完全に対等なものであり、互いに領事裁判権も認め合ったが、清国に不平等条項を押しつけようとした一部の日本政府高官からは不評で、ドイツとアメリカの公使からも、日清修好条規第一条に「他国より軽藐の事あらば彼此相助」という文言が、「他国が日本と清国を見下し愚弄した場合、両国は互いに助け合う」という意味で、「攻守同盟ではないか」とクレームがつき、外務卿の岩倉具視は、宗城を含む日本全権団を召喚、諸外国からの批判の責任をとるかたちで、宗城は免職、麝香間祗候に。

4-3、宗城、外国要人の接待役を

宗城は明治天皇の信頼も篤く、明治6年12月、明治天皇が浅草今戸にある宗城の屋敷に行幸、御製の和歌も。

そして宗城は、その後は政府の要職につかなかったとはいえ、明治5年のロシアのアレクセイ大公(アレクサンドル2世皇帝の3男)からイタリアの王子、ドイツ皇族、ハワイの国王などの外国要人の接待役を任されたということ。

また、宗城は、この時期から将来的に国会開会を念頭に置き、上院の構成は旧大名や公家などの華族と考えて、西村茂樹の上院設立構想に賛意を示したうえで、中山忠能、松平慶永、大原重徳らとともにその実現のための華族の組織の設立に助力、華族会館として実現。

宗城は明治17年(1884年)華族令によって伯爵に、明治25年(1892年)東京の今戸屋敷で75歳で病没。

大正2年(1913年)に創建された宇和島鎮座の鶴島神社(現在の南予護国神社)の御祭神として祀られています。

4賢候の中では明治政府でもたったひとり活躍

伊達宗城は10万石の大名ながら、新しいもの好きで学究肌、蘭学者を雇って蒸気船や砲台を作らせ西洋式の軍隊で国防をはかるなど富国強兵を行い、自分が旗本出身で思いがけず大名になったせいか、土佐藩や薩摩藩の跡継ぎ問題の解決にも世話を焼いたりするうちに、大名ネットワークが出来て将軍継嗣問題に口出しするまでに。

明治後は大名出身者の出る幕がほとんどなかったのに、宗城だけは外国通で優れた調停能力を買われて外務大臣的役割を果たしました。

宇和島藩は他の藩のような過激な志士も出ず壮絶な内紛もなかったかわりに、殿さまひとりが傑出していたということなのでしょうか。

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幕末日本史歴史江戸時代

幕末四賢侯の一人「伊達宗城」新しいもの好きの宇和島藩主を歴女がわかりやすく解説

今回は伊達宗城を取り上げるぞ。

伊達というからには伊達政宗の子孫なのか、四国の宇和島10万石で幕末に活躍した藩主ってのもおもしろい、どんな人だったのか知りたいよな。

その辺のところを幕末が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。幕末については佐幕も勤王もなく興味津々。あまり知られていない4賢候のひとり四国の宇和島藩主伊達宗城について、5分でわかるようにまとめた。

1-1、伊達宗城(だてむねなり)は、旗本の生まれ

image by PIXTA / 33072533

宗城は文政元年(1818年)、父で大身旗本の山口直勝と、母、旗本蒔田広朝の娘の長男として、江戸で誕生。幼名は亀三郎または兵五郎、元服して宗城。

宗城の祖父山口直清は、宇和島藩5代藩主伊達村候(むらとき)の次男で徳川家の旗本3千石の山口家の養嗣子となった人で、宇和島藩主の親戚筋。

文政10年(1827年)4月、宗城は9歳で宇和島藩主8代目の伊達宗紀の仮養子に、次いで文政11年(1828年)10月、宇和島藩家臣伊達寿光(伊達村候の孫なので宗城の従兄)の養子となったが、翌年の文政12年(1829年)4月11日、嗣子に恵まれなかった藩主宗紀(むねただ)の養子に。尚、宗城は宗紀の5女貞と婚約して婿養子になるはずが、貞の早世で婚姻は出来ず。

宇和島藩伊達家は伊達政宗の子孫
宇和島藩伊達家の初代は伊達政宗の長男秀宗。最初は跡取りだったが、秀吉の養子だったこと、政宗と正室愛姫との間に忠宗が生まれたことなどで、相続が微妙な立場となったのですが、大坂冬の陣での徳川方としての働きを認めた2代将軍徳川秀忠が、政宗の戦功と秀宗の忠義に報いるとして、秀宗は宇和島藩を与えられたそう。

そういうわけで宇和島藩伊達家は、仙台藩の支藩ではなく別の国主格大名として取り立てられたが、仙台の伊達家本家との仲はあまり良くなかったそう。

尚、宗紀には宗城が養子になった後、文政13年(1830年)息子が生まれたので、宗城の養子となって9代藩主伊達 宗徳( むねえ)として後継ぎに。
また、宗城の息子は仙台伊達家本家へ養子に

1-2、宗城の少年時代

宗城は江戸での18歳の頃、水戸斉昭に可愛がってもらい、水戸屋敷にもしょっちゅう遊びに行って弟子のような存在だったそうで、斉昭の娘賢姫(佐加子)と婚約したが、結婚直前に病死してしまったということ。
また、宇和島伊達家の養子となったとき、藩士の岡野助左衛門と松根図書壽恭が教育係に。松根は代々家老の家柄で、宗城の信頼も篤く息子と2代にわたり家老として宗城に仕えたということ。

宗城は読書家で、資治通鑑を読み通したという話も。

2-1、宗城、26歳で宇和島藩主に

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By 不明。 – 福井市郷土歴史博物館所蔵品。, パブリック・ドメイン, Link

天保15年(1844年)、宗城は26歳で養父の隠居で藩主に就任。

前藩主宗紀は、それ以前に藩の財政悪化のため、改革を断行していて、大坂商人からの借金を無利息200年賦返還、脅迫で一部の借金を放棄と強引なことから、ハゼ蝋の藩の専売化や質素倹約を推奨のほか、塩やスルメなどの宇和島の特産品を保護、検地などを行い、藩士の小池九蔵、若松総兵衛を、農学者でもある佐藤信淵に入門させて、農業の技術改良などを学ばせたということ。

そして融通会所を設立し物価の統制を図るなどした結果、藩財政改革に成功、宗城に家督を譲るまでに6万両の貯蓄が。そして宗城も養父宗紀の殖産興業を中心にさらに藩政改革を発展、木蝋の専売化や石炭の埋蔵調査などを実施。

2-2、宗城、土佐藩の継承問題など調停能力を発揮

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嘉永元年(1848年)7月10日(実際は6月16日)、土佐藩主山内豊熈(とよてる)が34歳で江戸で急死。その数か月後に新藩主も急死、残された実弟は3歳、という土佐藩断絶のピンチが勃発。事実を隠し、新藩主が病気で隠居したことにして、分家の豊信(とよしげ)後の容堂を藩主にしてお家断絶を逃れたい土佐藩の家老たちの運動に、世話好きの宗城は亡き豊熈の正室(斉彬実妹)を通じて島津斉彬からの要請もあり、老中阿部正弘に上手に働きかけて成功。藩主となった山内容堂は宗城には恩を感じていたということ。

また、長年父が藩主を譲ってくれず、お由羅騒動まで起こった薩摩藩の40歳の世子島津斉彬についても、宗城が斉彬の大叔父の福岡藩主黒田斉溥らとともに老中阿部正弘を動かして斉彬父の斉興を隠居させ、やっとこさ斉彬が藩主になれたという話。

また嘉永2年(1849年)、肥前鍋島藩と福岡黒田藩との間で砲台建設がもとでもめたときも、宗城は正室が鍋島藩主直正の妹である縁もあり、老中阿部正弘の要請で間に入り円満解決に。このとき、蘭癖大名でもある黒田 長溥から、ヨーロッパで発明されて間もないマッチをもらい、新しもの好きの宗城は大喜びしたそう。
宗城はこういう交渉ごとに長けた人だったんですね。

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