戦国時代には、日中の戦いだけでなく夜襲や奇襲攻撃をして敵の意表とつくことで勝利した戦が数多く存在しているな。その中でも日本三大奇襲と呼ばれている戦いが毛利元就と陶晴賢の間で行われていたようです。

そこで今回は毛利家が中国平定への足掛かりとなった厳島の戦いについて歴史マニアであるwhat_0831と一緒に解説していきます。

ライター/what

戦国武将の中でも一番好きな武将は毛利元就で、智将とも謀将とも呼ばれている元就に憧れをいだいている戦国通サラリーマン。厳島の戦いを詳しく紹介していき元就や元就の子供達の活躍を伝える。

大内氏の失脚により陶氏が大内家中を掌握していく

image by PIXTA / 25959199

中国地方は主に二大勢力として大内氏と尼子氏が、領土争いをしていて領土や勢力が小さい国人衆は生き残るためどちらか片方につき生きながらえていました。その中には毛利家も入っています。まずは厳島の戦いが始まる前の状況を見ていきましょう。

大内氏の勢力

西国随一と呼ばれていた大内義隆は大内氏最大勢力を築き上げていた1540年代。周防・長門・石見・豊前の他に北九州までも自軍を率いて攻め込んでいて、更なる勢力拡大を狙っていましたが龍造寺氏の邪魔も入っている状況でした。

父だった大内義興の代から重臣として活躍していた陶興房は、義隆の当主になる際に義隆の家臣達を纏め上げ家督争いなく義隆を当主にさせていました。更に度重なる戦では、主将を任され多くの国人衆を調略しています。

1539年に興房が亡くなり嫡男の隆房が家督を継ぐと、父同様の働きをして義隆を支え尼子詮久が安芸国を攻めて来た時には毛利氏の援軍として軍勢を率いて戦功を挙げていました。

国人衆の寝返りにより義隆の危機

吉田郡山城の戦いで詮久を撃退し、尼子方だった安芸武田氏らを攻め落とし勢いづいた義隆は勢力が弱まった尼子氏を攻め落とそうとします。尼子氏を攻めるにあたり隆房率いる武断派と相良武任率いる文治派で尼子氏へ攻撃を仕掛けるか議論していましたが、最終的に武断派を支持した義隆に従っていく文治派でした。

1542年に詮久居城の月山富田城を取り囲み攻め込むも、堅城でだったため落城させらなかったうえに尼子軍の攻撃を受け兵糧などが不足していきます。4月になると尼子方から寝返った吉川興経ら国人衆が再び尼子方に寝返り大内方が劣勢となってしまいました。

月山富田城で養嗣子を失う

寝返りを受けた義隆は、5月に撤退を決断し退却の準備に取り掛かっていきます。退却の隙を付くようにして詮久は大内軍に追い打ちを掛けていきました。尼子軍の追撃は激しく義隆家臣が殿を買って出て追撃を防ぎ義隆らの退却時間を稼ぎます。

この時に元就は殿を任されていましたが、大内軍同様に激しい追撃の手から逃げていたうえに一揆の被害に遭い壊滅的な状態となっていました。元就と嫡男元隆は自刃を覚悟した程で、家臣だった渡辺通によって命が救われます。なんとか船まで退却できた義隆は、命からがら周防まで逃げられたものの養嗣子晴持は乗船した船が転覆し溺死。これによって義隆は野心を失っていきました。

毛利氏の状況

image by PIXTA / 35301069

元就の時代から一国人衆として隣国に滅ぼされないように、大内氏と尼子氏の勢力に付いたり離れたりを繰り返していました。尼子氏の従軍していた時に、毛利家当主だった幸松丸が首実験などに無理やり参加させられるなど不必要な嫌がらせを受け早死にしてしまったことで毛利家の家督を相続していきます。

家中の支持を得て家督を相続していくと尼子氏から離れていき大内氏へと身を寄せていきました。また次男と三男を吉川家と小早川家へ養子にし毛利分家として確立させ安芸一国を手中に収めています。毛利家を専横していた井上一族の主要人物三十名ほどを斬首し家臣団に対して忠誠を誓わせる起請文に署名させ統率力を強化させていました。

義隆の没落

晴持を失った義隆は、軍事政務などは家臣に任せた状態となり家臣達が団結しない状況になっていきました。武断派と文治派で争っていましたが文治派筆頭の武任が義隆の下を去ったことで武断派が大内家を専横します。

1548年に再出仕することになった武任は、武断派の動きを義隆に報告していくも聞き入れてもらえず隆房に暗殺されそうになるも難を逃れました。これにより隆房が謀反を起こすという伝聞が流れていきました。

これらが起因となり関係が悪化した隆房は、義隆に謀反を起こし一万の軍勢を率いてくると大寧寺に立て籠もり10月に自刃します。そして傀儡当主として大友晴英を向かえ大内義長と名を代えさせていきました。

\次のページで「大内氏の勢力縮小により毛利氏が急成長」を解説!/

大内氏の勢力縮小により毛利氏が急成長

義隆の死後、大内家を手中に収めていた隆房は元就と協調していきました。

元就の地固め

元就は義隆に謀反する隆房と裏側で密約を交わしていて大内家の当主を変更することに同意していました。更に安芸一国を支配したうえに隆房から備後の国人衆を纏め上げることも任されています。これを機に勢力拡大を図っていくことを狙っていた元就は、義隆支持者であった者を調略し毛利家の傘下に収めていくと尼子氏の江田氏も調略し尼子氏への牽制をしていきました。

陶氏と毛利氏の関係

安芸国と備後国を元就に任させていた隆房は、大内家の軍備強化に励んでいきました。また北九州の宗像地方を支配下とするべく宗像正氏の影響を消し去るために山田事件を起こしたとされています。

この政策に対して反発した傘下の国人衆が多く、中でも仇敵だった吉見正頼は元就と手を結び隆房に反抗。また隆房は元就に対して、任せた安芸国と備後国の一部を返還するように依頼するも元就は拒否したことで協調体制が崩れていきました。

厳島で毛利氏と陶氏が対峙する

image by PIXTA / 50217236

協調体制が崩れた隆房と元就は、一戦交える状況へ発展していきます。厳島の戦いの直前から本戦まで細かく紹介していきましょう。

吉見氏と陶氏の対立

吉見氏が陶氏に挙兵したことで、元就にも参陣の呼びかけをしていましたが当初は陶氏の一軍として出陣する予定でした。しかし陶氏に不信感のあった隆元の助言によって陶氏と決別していきます。1554年3月に三本松城の戦いで隆房が城を取り囲んでいる間に厳島まで占領していきました。

叛旗を翻した元就に対して隆房は、軍勢を差し向けるもことごとく撃退されてしまい元就を打倒すべく吉見氏と講和を結び陶軍本隊を厳島へと向けていきます。また講和が成立した吉見氏は、元就の家臣となり活躍していきました。

元就の外交と調略活動

真向から挑んでも勝ち目が無いと判断した元就は、陶氏の兵力を削る為に内側から攻撃を仕掛けていきました。陶氏の家臣だった江良房栄を毛利家重臣級の所領と同等の三百貫で内応させ隆房に和睦を進言させたとされています。

しかし房栄は更なる加増を求めたきたため、隆元が激怒し元就若しくは隆元によって謀殺されてしまいました。外交面では強力な水軍を率いていた村上水軍の村上通康と宍戸家嫡女を隆景の養子にして婚姻関係を結んでいきます。

\次のページで「両者の小競り合い」を解説!/

両者の小競り合い

厳島の本戦を前に毛利軍と陶軍による小中規模の戦いが行われていました。1555年に毛利軍の攻撃によって府中出張城に籠っていた白井賢胤は水軍を率いて、毛利軍の拠点に攻撃を仕掛けていき交戦していきます。

また賢胤の調略によって安芸国人衆だった野間氏が元就から離反し賢胤と共に、毛利軍に攻撃を仕掛けていくも敢え無く降伏するも元就の手で討ち滅ぼされました。少数兵で守る宮ノ尾城を攻めるために陶軍は百艇で、攻撃するも己斐氏や香川氏の奮闘もあり落城せずに守りきった後に隆房は厳島へ上陸して戦う決意をしたとされています。

隆景による村上水軍への援軍要請

元就によって調略をしていきましたが、以前兵力差がある状況でした。そこで元就は隆景に、村上水軍の援軍を要請するように命じると隆景は乃美宗勝を使者として村上氏のところに遣わします。

宗勝が何故抜擢されたというと、小早川水軍の総大将だった他に村上氏とは血縁関係があり毛利側として最大限の敬意を払って交渉にあたりました。一方で隆房も村上氏に援軍要請をしていて兵力で勝る陶軍に付くだろうと高を括っていたようです。

しかし宗勝の必死の交渉でも動く素振りを見せてくれないまま隆房率いる二万の軍勢が9月22日には上陸していきました。

村上水軍を待たずして上陸

元就は隆景に何度も催促の手紙を送るも、動く気配が無い村上氏。このままでは宮ノ尾城が落城し兼ねない状況となり、作戦も失敗に終わってしまうと思った元就は厳島への上陸を決意しました。隆景に対しても早く水軍を率いて厳島へ向かってくれと書状にて伝えます。

元就は援軍を諦めてしまっていましたが、隆景は必ず援軍に来てくれると判断しており密かに宮ノ尾城を入り軍勢を鼓舞しました。9月27日には宮ノ尾城の水源も断たれ落城するのも時間の問題であったため元就と隆景の水軍で宮ノ尾城へ出陣していきます。

元就の歓喜

9月28日に出陣していく元就は草津城を出航し厳島へ向けて進軍していました。すると村上吉充の重臣だった末永景道らが二百から三百艇を率いて海の彼方から現れます。これを見た固唾を飲んで見守ると厳島へ向かわず元就の指示した場所の地御前火立山に近づいていきました。

この様子を見て、援軍だと確信した元就は歓喜したことでしょう。また元就は村上水軍に厳島へ向かうような素振りで陶氏の味方に思わせる為に厳島の西側から目立つようにして近づくように指示しています。

9月30日悪天候の中で厳島へ上陸

image by PIXTA / 41543412

元就は水軍を三軍に分けて渡海する準備をしていて、一軍は元就・隆元・元春で二軍は隆景そして三軍は村上水軍。9月30日に上陸予定でしたが、夕方から悪天候となりとても渡海できる状態ではありませんでした。

ところが上陸したい元就は9月30日は、吉日といったうえに暴風雨は神の加護であると兵に説きます。そうして陶軍に気づかれないように厳島を東から周り込んでいくと暴風雨が止み見事上陸した一軍は、陶軍の後方にあたる包ヶ浦から兵を前進させていきました。

二軍は大胆にも真正面から上陸していき、村上水軍が援軍に来たかのように見せかけていきます。三軍の村上水軍は沖合で待機し開戦の準備をしていきました。

厳島開戦

image by PIXTA / 41543374

10月1日の六時に毛利軍の奇襲攻撃により開戦していきます。陶軍の後方だった博奕尾を毛利一軍は越えて鬨の声を上げていきました。その声を聞いた二軍の隆景も塔の岡を宮ノ尾城と合流し陶本陣へ攻め込んでいきます。三軍村上水軍は戦が始まったことを確認すると陶軍の船を焼き払いました。

前日の暴風雨で油断していた隆房と重臣の弘中隆包は戦闘することなく西へ退いていきます。二万の軍勢であった為に進退の自由が利かない状況に陥ってしまいました。

大勝した毛利氏による戦処理

油断していた隆房は兵の指揮ができないほどの状況となり、逃げだしていくのが精一杯でした。隆包も奮戦していきましたが大混乱となった兵を機能させられず討ち取られ毛利軍の勝利となっていきます。追撃していく毛利軍の様子と勝利した後の状況を見ていきましょう。

\次のページで「陶軍の総崩れ」を解説!/

陶軍の総崩れ

毛利軍に挟撃されたことで、陶軍の兵は命からがら船を求めて海へ逃げていきました。しかし船を奪い合うなどして溺死者が続出していきましたが、敗走している兵を纏め上げた隆包と三浦房清及び大和興武は手勢を率いて吉川隊を防戦していきます。

そこに援軍の陶軍が吉川隊の横から攻撃していき一時的に、優勢になるも毛利軍熊谷隊が到着したことで敗色濃厚となり隆包は大聖院へ逃げ込み付近の民家に火を付け竜ヶ馬場に籠りました。房清は元春家臣に討ち取られ興武は香川光景に捕まり捕虜となります。

隆房の最後

隆房は僅かな兵を引き連れ大江浦まで到着するも脱出できる船がありませんでした。自刃を覚悟した隆房は、付き添った近習によって首が埋めれます。隆包も必死に抵抗するも最後は元春隊に囲まれ討死してしまいました。元就は残党兵を掃討する為に山狩りを命じると共に、隆房の首を探していくと草履取りをしていた少年を捕え助命と引き換えに埋めた場所を教え元就の下へ隆房の首が運ばれていきます。

隆房の首を見た元就は、主君を討って八虐を犯した逆臣と言い放ち鞭で三度も叩きました。

 

厳島を清める

今回の戦で陶軍の死者は約四千に近くに及び、死者を海岸沿いまで運んでいきます。厳島全域が信仰対象とされている神域だったことで兵の血が大量に付いた場所は土を削りとり、厳島神社にも付着した血を潮水で洗い流し清めました。そして七日間に渡り万部経会を行い、死者の冥福を祈っていきます。

また厳島神社付近の民家に隆包が火を放った際に、神社へ火が燃え移ろうとしていたことで元春は戦の最中にもかかわらず消火活動を行い鎮火しました。

戦後の毛利家

隆房を失ったことで義長率いる大内家は弱体化していき、長兄だった大友宗麟へ援軍を求めましたが裏側で元就と密約を結んでいました。また大内家家督相続時に、宗麟の反対を押し切り家督を継いだことも影響していると考えられています。更に大内家臣団も崩壊状態となり、元就に自刃を強要され1557年3月に亡くなりました。

こうして西国の名門と呼ばれていた大内氏が滅ぼされたことで、大内領内を自身の勢力にした元就は尼子氏と大友氏と争っていけるほどの大大名となります。

毛利家の勢力を拡大できるきっかけとなった戦

厳島だけに限らず、これだけ兵力差がある戦で勝利できたことは元就そして子供達の活躍あってのことだと思います。この時代はいくら猛将や智将が多数いても兵力差に敵わないことが多いため数がものをいう時代でした。しかし宮ノ尾城は援軍も入れてわずか千兵ほどで籠城していましたが、陶軍の攻撃を防ぎ切ったことも毛利家に勝利を促した要因でもあるでしょう。

また元就ほどの将が、兵力差がありつつも負け戦に簡単に挑むとは考えられませんので村上水軍が到着しなくとも別の策を講じていたとも考えられます。そして毛利家が大勝したことで、隣国の大名らと張り合えるほど成長し大内氏の家臣団もしっかりと毛利家の傘下に組み入れ勢力を拡大していく元就と子供達でした。

" /> 毛利家の命運を分けた「厳島の戦い」を戦国通サラリーマンが徹底わかりやすく解説 – Study-Z
室町時代戦国時代日本史歴史

毛利家の命運を分けた「厳島の戦い」を戦国通サラリーマンが徹底わかりやすく解説

戦国時代には、日中の戦いだけでなく夜襲や奇襲攻撃をして敵の意表とつくことで勝利した戦が数多く存在しているな。その中でも日本三大奇襲と呼ばれている戦いが毛利元就と陶晴賢の間で行われていたようです。

そこで今回は毛利家が中国平定への足掛かりとなった厳島の戦いについて歴史マニアであるwhat_0831と一緒に解説していきます。

ライター/what

戦国武将の中でも一番好きな武将は毛利元就で、智将とも謀将とも呼ばれている元就に憧れをいだいている戦国通サラリーマン。厳島の戦いを詳しく紹介していき元就や元就の子供達の活躍を伝える。

大内氏の失脚により陶氏が大内家中を掌握していく

image by PIXTA / 25959199

中国地方は主に二大勢力として大内氏と尼子氏が、領土争いをしていて領土や勢力が小さい国人衆は生き残るためどちらか片方につき生きながらえていました。その中には毛利家も入っています。まずは厳島の戦いが始まる前の状況を見ていきましょう。

大内氏の勢力

西国随一と呼ばれていた大内義隆は大内氏最大勢力を築き上げていた1540年代。周防・長門・石見・豊前の他に北九州までも自軍を率いて攻め込んでいて、更なる勢力拡大を狙っていましたが龍造寺氏の邪魔も入っている状況でした。

父だった大内義興の代から重臣として活躍していた陶興房は、義隆の当主になる際に義隆の家臣達を纏め上げ家督争いなく義隆を当主にさせていました。更に度重なる戦では、主将を任され多くの国人衆を調略しています。

1539年に興房が亡くなり嫡男の隆房が家督を継ぐと、父同様の働きをして義隆を支え尼子詮久が安芸国を攻めて来た時には毛利氏の援軍として軍勢を率いて戦功を挙げていました。

国人衆の寝返りにより義隆の危機

吉田郡山城の戦いで詮久を撃退し、尼子方だった安芸武田氏らを攻め落とし勢いづいた義隆は勢力が弱まった尼子氏を攻め落とそうとします。尼子氏を攻めるにあたり隆房率いる武断派と相良武任率いる文治派で尼子氏へ攻撃を仕掛けるか議論していましたが、最終的に武断派を支持した義隆に従っていく文治派でした。

1542年に詮久居城の月山富田城を取り囲み攻め込むも、堅城でだったため落城させらなかったうえに尼子軍の攻撃を受け兵糧などが不足していきます。4月になると尼子方から寝返った吉川興経ら国人衆が再び尼子方に寝返り大内方が劣勢となってしまいました。

月山富田城で養嗣子を失う

寝返りを受けた義隆は、5月に撤退を決断し退却の準備に取り掛かっていきます。退却の隙を付くようにして詮久は大内軍に追い打ちを掛けていきました。尼子軍の追撃は激しく義隆家臣が殿を買って出て追撃を防ぎ義隆らの退却時間を稼ぎます。

この時に元就は殿を任されていましたが、大内軍同様に激しい追撃の手から逃げていたうえに一揆の被害に遭い壊滅的な状態となっていました。元就と嫡男元隆は自刃を覚悟した程で、家臣だった渡辺通によって命が救われます。なんとか船まで退却できた義隆は、命からがら周防まで逃げられたものの養嗣子晴持は乗船した船が転覆し溺死。これによって義隆は野心を失っていきました。

毛利氏の状況

image by PIXTA / 35301069

元就の時代から一国人衆として隣国に滅ぼされないように、大内氏と尼子氏の勢力に付いたり離れたりを繰り返していました。尼子氏の従軍していた時に、毛利家当主だった幸松丸が首実験などに無理やり参加させられるなど不必要な嫌がらせを受け早死にしてしまったことで毛利家の家督を相続していきます。

家中の支持を得て家督を相続していくと尼子氏から離れていき大内氏へと身を寄せていきました。また次男と三男を吉川家と小早川家へ養子にし毛利分家として確立させ安芸一国を手中に収めています。毛利家を専横していた井上一族の主要人物三十名ほどを斬首し家臣団に対して忠誠を誓わせる起請文に署名させ統率力を強化させていました。

義隆の没落

晴持を失った義隆は、軍事政務などは家臣に任せた状態となり家臣達が団結しない状況になっていきました。武断派と文治派で争っていましたが文治派筆頭の武任が義隆の下を去ったことで武断派が大内家を専横します。

1548年に再出仕することになった武任は、武断派の動きを義隆に報告していくも聞き入れてもらえず隆房に暗殺されそうになるも難を逃れました。これにより隆房が謀反を起こすという伝聞が流れていきました。

これらが起因となり関係が悪化した隆房は、義隆に謀反を起こし一万の軍勢を率いてくると大寧寺に立て籠もり10月に自刃します。そして傀儡当主として大友晴英を向かえ大内義長と名を代えさせていきました。

\次のページで「大内氏の勢力縮小により毛利氏が急成長」を解説!/

次のページを読む
1 2 3 4
Share: