そこで今回は毛利家が中国平定への足掛かりとなった厳島の戦いについて歴史マニアであるwhat_0831と一緒に解説していきます。
ライター/what
戦国武将の中でも一番好きな武将は毛利元就で、智将とも謀将とも呼ばれている元就に憧れをいだいている戦国通サラリーマン。厳島の戦いを詳しく紹介していき元就や元就の子供達の活躍を伝える。
大内氏の失脚により陶氏が大内家中を掌握していく
中国地方は主に二大勢力として大内氏と尼子氏が、領土争いをしていて領土や勢力が小さい国人衆は生き残るためどちらか片方につき生きながらえていました。その中には毛利家も入っています。まずは厳島の戦いが始まる前の状況を見ていきましょう。
大内氏の勢力
西国随一と呼ばれていた大内義隆は大内氏最大勢力を築き上げていた1540年代。周防・長門・石見・豊前の他に北九州までも自軍を率いて攻め込んでいて、更なる勢力拡大を狙っていましたが龍造寺氏の邪魔も入っている状況でした。
父だった大内義興の代から重臣として活躍していた陶興房は、義隆の当主になる際に義隆の家臣達を纏め上げ家督争いなく義隆を当主にさせていました。更に度重なる戦では、主将を任され多くの国人衆を調略しています。
1539年に興房が亡くなり嫡男の隆房が家督を継ぐと、父同様の働きをして義隆を支え尼子詮久が安芸国を攻めて来た時には毛利氏の援軍として軍勢を率いて戦功を挙げていました。
国人衆の寝返りにより義隆の危機
吉田郡山城の戦いで詮久を撃退し、尼子方だった安芸武田氏らを攻め落とし勢いづいた義隆は勢力が弱まった尼子氏を攻め落とそうとします。尼子氏を攻めるにあたり隆房率いる武断派と相良武任率いる文治派で尼子氏へ攻撃を仕掛けるか議論していましたが、最終的に武断派を支持した義隆に従っていく文治派でした。
1542年に詮久居城の月山富田城を取り囲み攻め込むも、堅城でだったため落城させらなかったうえに尼子軍の攻撃を受け兵糧などが不足していきます。4月になると尼子方から寝返った吉川興経ら国人衆が再び尼子方に寝返り大内方が劣勢となってしまいました。
月山富田城で養嗣子を失う
寝返りを受けた義隆は、5月に撤退を決断し退却の準備に取り掛かっていきます。退却の隙を付くようにして詮久は大内軍に追い打ちを掛けていきました。尼子軍の追撃は激しく義隆家臣が殿を買って出て追撃を防ぎ義隆らの退却時間を稼ぎます。
この時に元就は殿を任されていましたが、大内軍同様に激しい追撃の手から逃げていたうえに一揆の被害に遭い壊滅的な状態となっていました。元就と嫡男元隆は自刃を覚悟した程で、家臣だった渡辺通によって命が救われます。なんとか船まで退却できた義隆は、命からがら周防まで逃げられたものの養嗣子晴持は乗船した船が転覆し溺死。これによって義隆は野心を失っていきました。
毛利氏の状況
元就の時代から一国人衆として隣国に滅ぼされないように、大内氏と尼子氏の勢力に付いたり離れたりを繰り返していました。尼子氏の従軍していた時に、毛利家当主だった幸松丸が首実験などに無理やり参加させられるなど不必要な嫌がらせを受け早死にしてしまったことで毛利家の家督を相続していきます。
家中の支持を得て家督を相続していくと尼子氏から離れていき大内氏へと身を寄せていきました。また次男と三男を吉川家と小早川家へ養子にし毛利分家として確立させ安芸一国を手中に収めています。毛利家を専横していた井上一族の主要人物三十名ほどを斬首し家臣団に対して忠誠を誓わせる起請文に署名させ統率力を強化させていました。
義隆の没落
晴持を失った義隆は、軍事政務などは家臣に任せた状態となり家臣達が団結しない状況になっていきました。武断派と文治派で争っていましたが文治派筆頭の武任が義隆の下を去ったことで武断派が大内家を専横します。
1548年に再出仕することになった武任は、武断派の動きを義隆に報告していくも聞き入れてもらえず隆房に暗殺されそうになるも難を逃れました。これにより隆房が謀反を起こすという伝聞が流れていきました。
これらが起因となり関係が悪化した隆房は、義隆に謀反を起こし一万の軍勢を率いてくると大寧寺に立て籠もり10月に自刃します。そして傀儡当主として大友晴英を向かえ大内義長と名を代えさせていきました。
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