日本史

幕府と朝廷が協力する新たな政治体制「公武合体」を元塾講師が分かりやすく5分で解説

孤立した末に京都を追放された長州藩

島津久光は薩摩藩の最高権力者ですから、その島津久光が公武合体を推しているということは、すなわち薩摩藩は公武合体派ということになりますね。一方、もう1つの思想である尊王攘夷を推していたのが薩摩藩と同じ雄藩である長州藩でした。

島津久光が公武合体実現に向かって動く中、長州藩もまた尊王攘夷実現に向けて動きます。尊王攘夷の思想は朝廷にも広がっていきますが、尊王攘夷の「攘夷」とは外国人を追い払うことです。しかし、強大な外国相手に過激な真似はできず、諸藩は極めておだやかな攘夷を行うべきだと考えました。

このため過激な攘夷活動を行う長州藩は孤立、長州藩はクーデターを企むものの薩摩藩はその計画をクーデターで返し、長州藩を京都から追い払うことに成功します。これが1863年の八月十八日の政変で、島津久光の公武合体の思想はまた1歩前進したのでした。

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島津久光が公武合体を推していたのは、単に幕府の意見に賛成したためではない。公武合体の中で、自らと雄藩の政治的発言力を高めるのが目的だ。思想の違いから対立する長州藩も京都から追い払い、島津久光の思想は実現間近のところにきた。

公武合体が倒幕へと切り替わった瞬間

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島津久光・公武合体の断念

公武合体とは幕府と朝廷が力を合わせて協力して政治を行うことですが、島津久光の思い描く思想は少々違います。「幕府と朝廷が協力して政治を行う中で、雄藩が政治の主導権を幕府から奪って朝廷を中心とした政治を行う」……それが島津久光の思想でした。

そして、その思想を実現するために設置したのが参与会議四候会議です。さて、島津久光の思想どおりになりたくないのは幕府の征夷大将軍・徳川慶喜でした。それもそのはず、島津久光の公武合体が実現すれば政治の主導権は雄藩に奪われ、幕府も征夷大将軍も名ばかりになってしまいますからね。

しかし、そこはさすが250年以上も代々政治の主導権を握ってきた徳川家でした。徳川慶喜は参与会議も四候会議も巧みに妨害、結局こうした会議は短期間で崩壊することになり、島津久光は思想としていた公武合体の実現をこれを機に断念したのです。

島津久光・倒幕への決意

徳川慶喜との政局に敗れて公武合体の実現を断念した島津久光、当然その怒りは徳川慶喜に向けられます。そして、この時の島津久光の心境こそ、公武合体の思想が倒幕へと切り替わった瞬間でした。幕府と共に政治を行うことなどもはや不可能、それなら幕府を倒してしまえという結論に至ったのです。

こうして、薩摩藩はその思想を公武合体から倒幕へと切り替えることになります。しかし、いくら雄藩でも一藩でしかない薩摩藩が倒幕を掲げたとして、島津久光に果たして勝算はあったのでしょうか。実は、島津久光が倒幕を決意するきっかけとなった四候会議が開かれた前年、1866年に薩摩藩は長州藩との同盟となる薩長同盟を締結させています。

思想の違いや争いから犬猿の仲だったこの両藩をまとめたのが坂本竜馬、しかも幕府はこの時長州征討を行うものの、薩長同盟によって武器を手に入れた長州藩に戦いで敗れていました。つまり幕府は信頼のみならず武力も失っており、長州征討での敗北によってそれが露呈していたのです。

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徳川慶喜は政治の主導権を奪われまいと島津久光を妨害、そのため島津久光は公武合体を断念して倒幕へと思想を改めた。一方で、外国の強大さを実感した尊王攘夷派も攘夷を断念、ここでもやはり倒幕の思想が生まれることになる。

倒幕の思想の果てに起こった戊辰戦争

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shintomoyui0311