日本史

幕府と朝廷が協力する新たな政治体制「公武合体」を元塾講師が分かりやすく5分で解説

新たな思想・公武合体

人々の不満が高まり、朝廷との関係も悪化している……井伊直弼はその状況を打破するため、弾圧という強引な行動に出ます。これが1858年に起きた安政の大獄と呼ばれる弾圧で、反発した意見を持つ者は例え朝廷の公家であろうと容赦なく捕縛して処罰しました

しかしその過激な弾圧が命取りになり、井伊直弼は大老の立場でありながらも、1860年の桜田門外の変によって脱藩した浪士に白昼堂々の犯行によって殺害されてしまいます。その後、老中達のトップに位置する老中首座に就任したのが安藤信正、彼はまず朝廷との関係修復をはかろうとしました。

そこで安藤信正は幕府でも朝廷でもなく、幕府と朝廷が力を合わせて政治を行う道を目指します。協力して政治を行うことで関係修復が実現しますし、また何より強大な外国と対等に向き合うためには日本の一致団結が不可欠と考えたからで、新たな思想「公武合体」が誕生したのです。

新たな思想・尊王攘夷

安藤信正の立てた策は次のようなものです。「当時の天皇である孝明天皇の妹・和宮と当時の将軍である徳川家茂を結婚させる、そして結婚を進める中で朝廷との関係を修復させ、最後に朝廷の権力を利用して失った幕府の信頼を取り戻す」……これが安藤信正の描いたストーリーでした。

この提案に乗り気ではなかったのが孝明天皇、しかし朝廷の中には安藤信正と同様に公武合体を思想とする者も多く、孝明天皇はそんな公武合体派の意見を聞き入れて結婚を承諾します。信頼を失っても幕府は幕府、朝廷にはないその武力で外国を追い払ってくれるかもしれないという期待も孝明天皇にはあったのでしょう。

しかしここでまた新たな思想が生まれます。その思想とは「尊王攘夷」であり、幕府ではなく天皇が中心となって政治を行うべきという思想です。安藤信正はそんな尊王攘夷派の者に襲撃されて負傷、さらに女性問題や賄賂問題なども噂されたことから失脚してしまいました。

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信頼を失った幕府、信頼回復のためには朝廷の力が欠かせなかった。とは言え、幕府は朝廷とも関係が悪化しており、その解決策として誕生した思想が公武合体だ。しかし一方で尊王攘夷の思想も誕生、それぞれの思想はこの後対立していくぞ。

公武合体派と尊王攘夷派の対立

image by PIXTA / 5929391

薩摩藩の政治的発言力の向上を狙う島津久光

信頼回復と日本強化のために幕府が公武合体への道を進んでいたその頃、雄藩(力を持つ藩)の権力者達は自らの藩の政治的発言力を高めることを目的に、朝廷と幕府の間に入って動こうとします。そして、大きな行動を起こしたのが薩摩藩の最高権力者・島津久光でした。

島津久光は朝廷に勅令(天皇が直接発する命令)を依頼、朝廷の代表という立場を手に入れて朝廷の勅使として文久の改革と呼ばれる政治改革を行います。この改革によって安政の大獄で処罰されていた一橋家の大名が幕府へと復帰、さらに島津久光は過激な尊王攘夷派を殺害しており、これが寺田屋事件と呼ばれる事件です。

過激な尊王攘夷派は公家の最高位である関白・九条尚忠の殺害を計画していましたから、これを阻止した島津久光に朝廷からの信頼が高まります。「朝廷に信頼された」、「政治的発言力も高まった」……島津久光は順調に力を高めていき、公武合体を進める中で自らも政治に参加できる一歩手前まできていました。

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shintomoyui0311