今日は公武合体について勉強していきます。江戸時代では政治の主権は幕府が握っており、権力自体は天皇が上であるものの、実質日本を支配していたのは征夷大将軍であり、この体制が長く続いてきた。

しかし、江戸時代が始まって250年を過ぎた幕末の頃、新たな政治的思想が生まれることになる。今回はそんな新たな政治的思想の1つ、公武合体について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から公武合体をわかりやすくまとめた。

外国には無力だった幕府

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日米修好通商条約への無勅許での調印

関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、1603年に征夷大将軍に任命されると江戸に幕府を開きます。これが江戸幕府の始まりで、徳川家は以後250年以上に渡ってその力を持って安定した政権を維持してきました。そんな江戸幕府を脅かしたのが1853年のアメリカのペリーの黒船来航です。

当時の日本の船の25倍ほども大きかった黒船は、圧倒的な威圧感を誇ると同時に日本との技術力の違いを見せつけるものであり、日本を支配する幕府も恐れてしまうほどの迫力でした。その迫力が脅しとなったのか、ペリーの主張は認められて日本は1854年に開国、200年以上続けてきた幕府の対外政策……すなわち鎖国が終わります。

さて、開国したことで日本には多くの外国人が訪れるようになり、その4年後の1858年にはアメリカの外交官・ハリスが日本を訪れました。ハリスは日本に日米修好通商条約の締結を要求、対応した幕府はアメリカには逆らえなかったのか、この要求に天皇に無許可で調印してしまったのです。

朝廷との関係悪化、高まる人々の不満

江戸時代、日本を支配していたのは幕府であることに違いないでしょう。しかし権力の上下で比較すれば征夷大将軍は臨時の官職であり、言わば天皇に代わって政治を任されている立場……すなわち天皇の部下なのです。ですからいくら幕府の将軍と言えど、外交条約の調印には天皇の許可が必要でした。

しかも、締結した日米修好通商条約は日本にとって不平等条約であり、そのため生活に苦しむ人々が増えていきます。人々にとって幕府はその強さから、時に逆らえない恐怖の存在であったものの、同時に日本を統治する頼れる存在でもありました。しかし、そんな頼れる幕府も外国の前では無力であり、不平等条約に調印する始末です。

その結果、人々は幕府は頼りにならないと思うようになり、また天皇に無許可で日米修好通商条約に調印したことから、朝廷も敵に回すことになります。当然幕府と朝廷の関係は悪化、さらに人々は幕府に不満を持つようになり、そんな状況を打開しようとしたのが幕府の大老・井伊直弼でした。

新たな思想の誕生

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新たな思想・公武合体

人々の不満が高まり、朝廷との関係も悪化している……井伊直弼はその状況を打破するため、弾圧という強引な行動に出ます。これが1858年に起きた安政の大獄と呼ばれる弾圧で、反発した意見を持つ者は例え朝廷の公家であろうと容赦なく捕縛して処罰しました

しかしその過激な弾圧が命取りになり、井伊直弼は大老の立場でありながらも、1860年の桜田門外の変によって脱藩した浪士に白昼堂々の犯行によって殺害されてしまいます。その後、老中達のトップに位置する老中首座に就任したのが安藤信正、彼はまず朝廷との関係修復をはかろうとしました。

そこで安藤信正は幕府でも朝廷でもなく、幕府と朝廷が力を合わせて政治を行う道を目指します。協力して政治を行うことで関係修復が実現しますし、また何より強大な外国と対等に向き合うためには日本の一致団結が不可欠と考えたからで、新たな思想「公武合体」が誕生したのです。

新たな思想・尊王攘夷

安藤信正の立てた策は次のようなものです。「当時の天皇である孝明天皇の妹・和宮と当時の将軍である徳川家茂を結婚させる、そして結婚を進める中で朝廷との関係を修復させ、最後に朝廷の権力を利用して失った幕府の信頼を取り戻す」……これが安藤信正の描いたストーリーでした。

この提案に乗り気ではなかったのが孝明天皇、しかし朝廷の中には安藤信正と同様に公武合体を思想とする者も多く、孝明天皇はそんな公武合体派の意見を聞き入れて結婚を承諾します。信頼を失っても幕府は幕府、朝廷にはないその武力で外国を追い払ってくれるかもしれないという期待も孝明天皇にはあったのでしょう。

しかしここでまた新たな思想が生まれます。その思想とは「尊王攘夷」であり、幕府ではなく天皇が中心となって政治を行うべきという思想です。安藤信正はそんな尊王攘夷派の者に襲撃されて負傷、さらに女性問題や賄賂問題なども噂されたことから失脚してしまいました。

公武合体派と尊王攘夷派の対立

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薩摩藩の政治的発言力の向上を狙う島津久光

信頼回復と日本強化のために幕府が公武合体への道を進んでいたその頃、雄藩(力を持つ藩)の権力者達は自らの藩の政治的発言力を高めることを目的に、朝廷と幕府の間に入って動こうとします。そして、大きな行動を起こしたのが薩摩藩の最高権力者・島津久光でした。

島津久光は朝廷に勅令(天皇が直接発する命令)を依頼、朝廷の代表という立場を手に入れて朝廷の勅使として文久の改革と呼ばれる政治改革を行います。この改革によって安政の大獄で処罰されていた一橋家の大名が幕府へと復帰、さらに島津久光は過激な尊王攘夷派を殺害しており、これが寺田屋事件と呼ばれる事件です。

過激な尊王攘夷派は公家の最高位である関白・九条尚忠の殺害を計画していましたから、これを阻止した島津久光に朝廷からの信頼が高まります。「朝廷に信頼された」、「政治的発言力も高まった」……島津久光は順調に力を高めていき、公武合体を進める中で自らも政治に参加できる一歩手前まできていました。

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孤立した末に京都を追放された長州藩

島津久光は薩摩藩の最高権力者ですから、その島津久光が公武合体を推しているということは、すなわち薩摩藩は公武合体派ということになりますね。一方、もう1つの思想である尊王攘夷を推していたのが薩摩藩と同じ雄藩である長州藩でした。

島津久光が公武合体実現に向かって動く中、長州藩もまた尊王攘夷実現に向けて動きます。尊王攘夷の思想は朝廷にも広がっていきますが、尊王攘夷の「攘夷」とは外国人を追い払うことです。しかし、強大な外国相手に過激な真似はできず、諸藩は極めておだやかな攘夷を行うべきだと考えました。

このため過激な攘夷活動を行う長州藩は孤立、長州藩はクーデターを企むものの薩摩藩はその計画をクーデターで返し、長州藩を京都から追い払うことに成功します。これが1863年の八月十八日の政変で、島津久光の公武合体の思想はまた1歩前進したのでした。

公武合体が倒幕へと切り替わった瞬間

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島津久光・公武合体の断念

公武合体とは幕府と朝廷が力を合わせて協力して政治を行うことですが、島津久光の思い描く思想は少々違います。「幕府と朝廷が協力して政治を行う中で、雄藩が政治の主導権を幕府から奪って朝廷を中心とした政治を行う」……それが島津久光の思想でした。

そして、その思想を実現するために設置したのが参与会議四候会議です。さて、島津久光の思想どおりになりたくないのは幕府の征夷大将軍・徳川慶喜でした。それもそのはず、島津久光の公武合体が実現すれば政治の主導権は雄藩に奪われ、幕府も征夷大将軍も名ばかりになってしまいますからね。

しかし、そこはさすが250年以上も代々政治の主導権を握ってきた徳川家でした。徳川慶喜は参与会議も四候会議も巧みに妨害、結局こうした会議は短期間で崩壊することになり、島津久光は思想としていた公武合体の実現をこれを機に断念したのです。

島津久光・倒幕への決意

徳川慶喜との政局に敗れて公武合体の実現を断念した島津久光、当然その怒りは徳川慶喜に向けられます。そして、この時の島津久光の心境こそ、公武合体の思想が倒幕へと切り替わった瞬間でした。幕府と共に政治を行うことなどもはや不可能、それなら幕府を倒してしまえという結論に至ったのです。

こうして、薩摩藩はその思想を公武合体から倒幕へと切り替えることになります。しかし、いくら雄藩でも一藩でしかない薩摩藩が倒幕を掲げたとして、島津久光に果たして勝算はあったのでしょうか。実は、島津久光が倒幕を決意するきっかけとなった四候会議が開かれた前年、1866年に薩摩藩は長州藩との同盟となる薩長同盟を締結させています。

思想の違いや争いから犬猿の仲だったこの両藩をまとめたのが坂本竜馬、しかも幕府はこの時長州征討を行うものの、薩長同盟によって武器を手に入れた長州藩に戦いで敗れていました。つまり幕府は信頼のみならず武力も失っており、長州征討での敗北によってそれが露呈していたのです。

倒幕の思想の果てに起こった戊辰戦争

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\次のページで「倒幕を回避した徳川慶喜」を解説!/

倒幕を回避した徳川慶喜

公武合体の思想は倒幕へと切り替わりましたが、だからと言って島津久光はすんなりと倒幕を行ったわけではありません。薩摩藩を中心とした倒幕派はいよいよそれを実行に移そうとしますが、その直前に徳川慶喜は大政奉還を行って政権を天皇へと返上、倒幕することなく自ら幕府の歴史に幕を閉じました。

最も、島津久光との政局に勝利した徳川慶喜はやはり頭が良く、本当に政治の世界から身を引こうと思ったわけではありません。大政奉還を行ったのはあくまで倒幕派との武力衝突を避けるためであり、大政奉還を行っても政治の中心に立つことができると目論んでいたのです。

何しろ、その後政治の主導権を握るのは政治に不慣れな天皇、250年以上も幕府に政治を任せていた立場の者がまともな政治などできるはずがないと読んだのでした。そして徳川慶喜の思惑どおりに事は進み、大政奉還を行ってもなお征夷大将軍として政治に携わる立場を維持していたのです。

公武合体が倒幕へ、倒幕が戊辰戦争へ

大政奉還を行ったことで倒幕が延期され、倒幕が延期されたのに依然徳川慶喜が政治を行っている……倒幕派から見ればこの状況は当然納得がいくものではありません。そこで徳川慶喜を排除するために王政復古の大号令を出して新政権の樹立を宣言、そこに記された項目は完全に徳川慶喜の排除を目的としたものでした。

しかし、徳川慶喜はそれでもなお危機を回避します。こうなったら致し方ないと武力倒幕を計画、その果てに起こった戦いが戊辰戦争です。公武合体は幕府が朝廷と協力して政治を行う思想でしたが、とうとうその思想が実現することはありませんでした。

それどころか幕府に見切りをつけた公武合体派はその思想を倒幕へと切り替え、幕府を倒して天皇を中心とした政治を考えるようになります。力を失っていた幕府はそんな倒幕派と全面戦争する気はなかったものの、やがては戊辰戦争が起こり、江戸時代から明治時代へと時代が変わっていくのでした。

公武合体の流れと結末を今一度おさらい

公武合体は幕府と朝廷が協力して政治を行うことで、言わば政治的思想ですね。この思想が生まれたきっかけは、開国後に幕府が次々と問題を起こしたからで、もう幕府に日本は任せられないという結論に至ったのです。

薩摩藩はこの状況を利用、公武合体の中で政治の主導権を幕府から奪うことを考えますがそれは失敗します。そのため、公武合体を断念して倒幕へと考えを切り替え、その果てに起こったのが戊辰戦争……まとめると、このような流れです。

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幕末日本史歴史江戸時代

幕府と朝廷が協力する新たな政治体制「公武合体」を元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

今日は公武合体について勉強していきます。江戸時代では政治の主権は幕府が握っており、権力自体は天皇が上であるものの、実質日本を支配していたのは征夷大将軍であり、この体制が長く続いてきた。

しかし、江戸時代が始まって250年を過ぎた幕末の頃、新たな政治的思想が生まれることになる。今回はそんな新たな政治的思想の1つ、公武合体について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から公武合体をわかりやすくまとめた。

外国には無力だった幕府

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日米修好通商条約への無勅許での調印

関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、1603年に征夷大将軍に任命されると江戸に幕府を開きます。これが江戸幕府の始まりで、徳川家は以後250年以上に渡ってその力を持って安定した政権を維持してきました。そんな江戸幕府を脅かしたのが1853年のアメリカのペリーの黒船来航です。

当時の日本の船の25倍ほども大きかった黒船は、圧倒的な威圧感を誇ると同時に日本との技術力の違いを見せつけるものであり、日本を支配する幕府も恐れてしまうほどの迫力でした。その迫力が脅しとなったのか、ペリーの主張は認められて日本は1854年に開国、200年以上続けてきた幕府の対外政策……すなわち鎖国が終わります。

さて、開国したことで日本には多くの外国人が訪れるようになり、その4年後の1858年にはアメリカの外交官・ハリスが日本を訪れました。ハリスは日本に日米修好通商条約の締結を要求、対応した幕府はアメリカには逆らえなかったのか、この要求に天皇に無許可で調印してしまったのです。

朝廷との関係悪化、高まる人々の不満

江戸時代、日本を支配していたのは幕府であることに違いないでしょう。しかし権力の上下で比較すれば征夷大将軍は臨時の官職であり、言わば天皇に代わって政治を任されている立場……すなわち天皇の部下なのです。ですからいくら幕府の将軍と言えど、外交条約の調印には天皇の許可が必要でした。

しかも、締結した日米修好通商条約は日本にとって不平等条約であり、そのため生活に苦しむ人々が増えていきます。人々にとって幕府はその強さから、時に逆らえない恐怖の存在であったものの、同時に日本を統治する頼れる存在でもありました。しかし、そんな頼れる幕府も外国の前では無力であり、不平等条約に調印する始末です。

その結果、人々は幕府は頼りにならないと思うようになり、また天皇に無許可で日米修好通商条約に調印したことから、朝廷も敵に回すことになります。当然幕府と朝廷の関係は悪化、さらに人々は幕府に不満を持つようになり、そんな状況を打開しようとしたのが幕府の大老・井伊直弼でした。

新たな思想の誕生

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