孤独から生まれた「孤児根性」
川端康成の作品のいくつかに「孤児根性」というキーワードが現れます。ただし、これはこの言葉から安直に連想できる「不運な環境で育ったために歪んだ陰湿な性格」を表しているのではありません。頼るべき家族を失い、孤独のうちにたったひとり取り残されてしまったために得た「我が身を包んで離さない寂しさ」を負った孤児の感情を指しています。彼自身が苛まれ続け、学生時代はひどく悩まされた感情だったのです。
後ろ向きな感情から川端康成を解放したのが伊豆旅行でした。そうして、伊豆半島湯ヶ島温泉で彼は旅芸人の一団と出会います。旅芸人たちと道を一緒にするうちに彼らの裏のない善意や、幼い踊り子の少女の無垢な好意に触れたことで、川端康成の心は癒されていきました。この旅芸人たちこそが後に書かれた『伊豆の踊子』に登場する旅芸人のモデルです。
衝撃的な失恋と婚約破棄
伊豆の旅によって癒されたとはいえ、心に長くあった気持ちは持ち続けていたのでしょう。22歳のころ、川端康成は東京のカフェに努める15歳の伊藤初代に婚約を申し込みます。彼女もまた川端康成と同じく天涯孤独の身でした。しかし、一度は受け入れられた婚約は、一ヶ月後に手紙で一方的に破棄されてしまうのです。初恋の相手からの婚約破棄に川端康成はひどく傷心し、再び伊豆へ旅立ちました。
この伊藤初代との出来事は、『南方の火』『篝火』『非常』といくつもの短編として残されています。どれも同じような内容を何度も何度も書き直し続けたもので、初恋に囚われ、つらい記憶をなぞり続ける胸の痛くなる物語でした。
菊池寛、横光利一との出会い
伊藤初代との思い出の短編の中に、まだ作家として身を立てられない若い川端康成が菊池寛に仕事の斡旋を頼むシーンがあります。当時、すでに人気作家として成功していた菊池寛はこの願いを承諾するどころか、洋行のために空ける自宅を川端康成に貸し、さらに生活費の援助まで申し出たのです。本編では両名共に仮名ですが、これは現実でも交わされた会話でした。ふたりの関係は、東京帝国大学在籍中に菊池寛が川端康成の才能を認めて以来、川端康成は長く彼の恩恵に預かることとなります。
菊池寛の恩恵のひとつに、のちに川端康成の無二の友となる横光利一の紹介がありました。戦前、横光利一は志賀直哉と並んで「小説の神様」と呼ばれた鬼才です。川端康成は横光利一に小説に対する熱い気持ちを感じ、1924年に横光利一とともに「新感覚派」を発足します。
奇術師と呼ばれた作風
「新感覚派」というのは、擬人法や暗喩を多用して文章構造の象徴的な美しさを追及した表現方法です。新感覚派は戦前の日本文学の流派のひとつとなり、文壇に多くの影響を与えました。
川端康成は新感覚派に属す中でも精力的に活動を行い、抒情的な作品から心霊、少女小説まで、ひとりの人間が書いたとは思えないほど手法と作風の変化を見せていきます。そうしてついた異名が「奇術師」でした。川端康成自身、この異名について「ただ彼が己の嘆きとか弱く戦った現れに過ぎない」と、あまり気にはしていないようです。
ともあれ、川端康成と菊池寛、そして横光利一との仲は深いものでした。
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