日本を代表する文豪でノーベル文学賞を受賞した川端康成ですが、彼の小説を読んだことはあるか?ノーベル賞だと言われて難しいイメージを持っているかもしれませんね。あるいは、チャレンジしてはみたが川端康成の独特な表現がよくわからなかったという者もいるかもしれない。

今回はそんな川端康成と作品について、歴史マニアのライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。おばちゃんは推し作家の話がしたい。

ノーベル文学賞受賞作家・川端康成

image by PIXTA / 23382114

川端康成は1968年のノーベル文学賞受賞者であり、大正から戦後にかけて活躍した作家です。彼は作品の中で日本人の死生観と美意識を美しい言葉で描き、世界中の人々に賞賛されました。

自身の体験から生まれた作品たち

Yasunari Kawabata 1938.jpg
By 不明 - http://mhsteger.tumblr.com/post/697607461/yasunari-kawabata-born-14-june-1899-died-16, パブリック・ドメイン, Link

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」

トンネルの暗闇から一変して現れる銀世界。川端康成の小説『雪国』を読んだことがなくても、この見事な白と黒の対比を現した文章は一度はどこかで聞いたことがありませんか?そうでなくても、たった20字の言葉を読んだだけで、美しい雪国の風景が頭に浮かんだと思います。

この素晴らしい美文を冒頭にする『雪国』は川端康成の湯沢温泉の旅から生まれたものです。他にも実体験をもとにして書かれた作品は『伊豆の踊子』など多岐に渡り、作者自身の記憶は作品に欠かせません。

美しく表現されながら、どこか切なさやさみしさを感じさせる言葉たち。では、川端康成はどのような人間だったのでしょうか?

十四歳で天涯孤独の身となる

1899年6月14日、川端康成は大阪市北区に住む川端家の長男として誕生しました。今から百年と少し前ですね。父は開業医、母は資産家の娘、そして四歳年上の姉に囲まれた賑やかな家族でした。しかし、川端康成が物心つく前に両親は結核で亡くなってしまいます。そして、姉とは別々に引き取られ、父方の祖父母のもとで育つことになりました。

けれど、彼の不幸は終わりません。虚弱体質だった川端康成を大切に育ててくれた祖母が七歳の時に亡くなり、生き別れた姉は十一歳のときに、さらに十四歳の時分に最後の肉親だった祖父が亡くなると、川端康成は天涯孤独の身になってしまいました。川端少年がこのときの状況を日記としてつづり、十年後に注釈や補足を加えたエッセイ『十六歳の日記』(数え年は十六歳、満十四歳)には、祖父への愛情や自身の孤独感などがありありと書かれています。

眼光鋭く、動物好き

川端康成には黙って人を凝視するクセがありました。その上、彼の目つきは鋭く、ずっと黙ったままでも苦にならない性格だったため、初対面の女性編集者に泣かれてしまったという話があるほどです。他にも夜中に鉢合わせした泥棒が何も盗らずに逃げていったり、借金取りを追い返したりと、川端康成の眼光の逸話は事欠きません。親交のあった作家や関係者たちからもあの目は恐ろしく見えたと語り草になっていました。しかし、「彼の視線に無心で臨めばあたたかな優しさが見えてくる」と作家・北條誠が書き残しています。

その証拠でしょうか、川端康成は大の動物好きでした。特に犬を好み、一時は自宅で九頭の犬と同居していたこともあります。無類の犬好きの性分から発表されたのが、飼っていたワイヤーフォックステリアのエリーをモデルにした短編小説『愛犬エリ』、エッセイ『わが犬の記』、そして、犬を飼う心構えを説いた『愛犬家心得』でした。他にも鳥や猫に対する思いを書いた短いながらも愛情にあふれる作品など多く残されています。

生涯を創作活動に捧げた作家、突然の自死

多くの経験を自著へ反映させ、人生を創作活動へ捧げた川端康成。その最期は、突然のガス自殺でした(現代の都市ガスでは不可能)。遺書はなく、72歳で自殺に及んだ真実の動機は謎に包まれたままです。

\次のページで「川端康成を囲んだ人々」を解説!/

川端康成を囲んだ人々

1929 bungei group.jpg
By 不明 - http://www.sonic.net/~tabine/SAABasho_etc_Spring_2005/kawabata_folder/SAASpring2005_Kawabata_02.html, パブリック・ドメイン, Link

孤独から生まれた「孤児根性」

川端康成の作品のいくつかに「孤児根性」というキーワードが現れます。ただし、これはこの言葉から安直に連想できる「不運な環境で育ったために歪んだ陰湿な性格」を表しているのではありません。頼るべき家族を失い、孤独のうちにたったひとり取り残されてしまったために得た「我が身を包んで離さない寂しさ」を負った孤児の感情を指しています。彼自身が苛まれ続け、学生時代はひどく悩まされた感情だったのです。

後ろ向きな感情から川端康成を解放したのが伊豆旅行でした。そうして、伊豆半島湯ヶ島温泉で彼は旅芸人の一団と出会います。旅芸人たちと道を一緒にするうちに彼らの裏のない善意や、幼い踊り子の少女の無垢な好意に触れたことで、川端康成の心は癒されていきました。この旅芸人たちこそが後に書かれた『伊豆の踊子』に登場する旅芸人のモデルです。

衝撃的な失恋と婚約破棄

伊豆の旅によって癒されたとはいえ、心に長くあった気持ちは持ち続けていたのでしょう。22歳のころ、川端康成は東京のカフェに努める15歳の伊藤初代に婚約を申し込みます。彼女もまた川端康成と同じく天涯孤独の身でした。しかし、一度は受け入れられた婚約は、一ヶ月後に手紙で一方的に破棄されてしまうのです。初恋の相手からの婚約破棄に川端康成はひどく傷心し、再び伊豆へ旅立ちました。

この伊藤初代との出来事は、『南方の火』『篝火』『非常』といくつもの短編として残されています。どれも同じような内容を何度も何度も書き直し続けたもので、初恋に囚われ、つらい記憶をなぞり続ける胸の痛くなる物語でした。

菊池寛、横光利一との出会い

伊藤初代との思い出の短編の中に、まだ作家として身を立てられない若い川端康成が菊池寛に仕事の斡旋を頼むシーンがあります。当時、すでに人気作家として成功していた菊池寛はこの願いを承諾するどころか、洋行のために空ける自宅を川端康成に貸し、さらに生活費の援助まで申し出たのです。本編では両名共に仮名ですが、これは現実でも交わされた会話でした。ふたりの関係は、東京帝国大学在籍中に菊池寛が川端康成の才能を認めて以来、川端康成は長く彼の恩恵に預かることとなります。

菊池寛の恩恵のひとつに、のちに川端康成の無二の友となる横光利一の紹介がありました。戦前、横光利一は志賀直哉と並んで「小説の神様」と呼ばれた鬼才です。川端康成は横光利一に小説に対する熱い気持ちを感じ、1924年に横光利一とともに「新感覚派」を発足します。

奇術師と呼ばれた作風

「新感覚派」というのは、擬人法や暗喩を多用して文章構造の象徴的な美しさを追及した表現方法です。新感覚派は戦前の日本文学の流派のひとつとなり、文壇に多くの影響を与えました。

川端康成は新感覚派に属す中でも精力的に活動を行い、抒情的な作品から心霊、少女小説まで、ひとりの人間が書いたとは思えないほど手法と作風の変化を見せていきます。そうしてついた異名が「奇術師」でした。川端康成自身、この異名について「ただ彼が己の嘆きとか弱く戦った現れに過ぎない」と、あまり気にはしていないようです。

ともあれ、川端康成と菊池寛、そして横光利一との仲は深いものでした。

\次のページで「戦後、三島由紀夫の訪問」を解説!/

戦後、三島由紀夫の訪問

三島由紀夫が川端家を訪問したのは1946年1月。第二次世界大戦が終わった翌年のことです。戦争中は多くの作家が自ら、あるいは強制的に、戦争や日本を賛美して戦争協力していました。その罪で一部の作家は戦犯文学者と糾弾されています。当時、三島由紀夫が属していた日本浪漫派の作家もその対象であり、彼は非常に焦っていました。そこで、以前に川端康成から手紙をもらっていたことを思い出し、三島由紀夫は川端康成を訪ねることにしたのです。もともと川端康成が三島由紀夫の才能に注目していたこともあり、三島由紀夫の作品『煙草』を文芸誌「人間」に掲載して彼を世に送り出しました。後に出版される三島由紀夫の『豊饒の海』を『源氏物語』以来の名作とも評価しています。

また、川端康成は三島由紀夫を横光利一と並ぶ無二の友としました。三島由紀夫が自衛隊市谷駐屯地で演説後に割腹自決した三島事件のあとも、彼の葬儀で葬儀委員長を務めます。川端康成の随筆には「三島由紀夫の自死をどうにかしてでも思いとどまらせたかった」と深い嘆きと悔恨が記されていました。

世界が絶賛した美しい言葉

image by PIXTA / 45323933

『雪国』があふれる美しい情景

最初にご紹介した一文が書かれた『雪国』は第3回文芸懇話会賞の受賞作品でした。さらにはノーベル文学賞対象作品のひとつとなっています。受賞の理由は「日本人の心の精髄を、すぐれた感受性をもって表現し、世界中の人々に深い感銘を与えた」であり、川端康成が書き続けた美しい言葉を賞賛するものでした。

『雪国』は身勝手な男・島村と駒子の不安定な関係を書きながらも、情景の美しさに抒情を重ね、清廉な間柄であるように見えてしまう不思議な物語です。

儚いものたちへの愛着『伊豆の踊子』

image by PIXTA / 7935430

先に述べた旅先での出来事をもとに生まれた『伊豆の踊子』。舞台となるのは伊豆半島。傷心の主人公はひとり旅の最中に旅芸人の一団に巡り合い、旅路をともにします。その中で暗い気持ちを抱えた主人公は、踊子の純真無垢な少女と触れ合うことで癒され、心惹かれていくという青春を描いた物語です。

当時、漂泊の旅芸人は、迫害まではいかずとも蔑まれる対象でした。旅芸人たちにいい顔をしながらも裏では陰口を叩く人々と、それに反して彼らに心を寄せていく主人公。孤児だった主人公は、彼らのように弱く、世間から隔絶された存在への愛着と慈しみを覚えます。

ところで、この「弱く、世間から隔絶された存在」に対して情を覚えるのは、なにも主人公だけではありません。読者もまた『伊豆の踊子』を読むうちにいつの間にか踊子や旅芸人たちに情を寄せてしまいます。というもの、日本人は古くから「判官びいき」という心理現象を備えていました。これは「弱い立場に置かれた存在に対して客観的な視点や判断よりも先に同情を寄せてしまう」現象で、平安時代末期の武将・源義経に由来します。要するに、平安時代末期にはすでに日本人の深層に根付いていた心理なのです。

多くの共感を得た『伊豆の踊子』は何度も映画化され、日本人に愛されてきました。

女性の心理描写の名人

1921年、同人誌「新思潮」に発表された川端康成のデビュー作「招魂祭一景」。村の温泉宿で働く女たちを妖艶かつ清廉に描いた「温泉宿」。霊感のある女が元恋人の死をきっかけに物思いに耽る「抒情歌」など、女を中心に据えた物語は数多く、その中で川端康成は女性の美しさや強さを書きながら、同時に儚い部分を示してきました。女性の心理描写の名人とも呼ばれています。

\次のページで「日本の美しさ、哀しさを書いた文豪」を解説!/

日本の美しさ、哀しさを書いた文豪

川端康成は幼い頃から親しい人々を見送り、老いてからも同輩が先だって逝くの見送り続けた「葬式の名人」。最後は自らの手で人生を締めくくります。しかし、彼は菊池寛に才能を認められると生涯をかけて多くの物語を書き、さらに三島由紀夫や岡本かの子など後進の後押しもしっかりと行っていました。残された作品は今でも日本人に愛され、版を重ねています。

余談ですが、これまで著作権は作家の死後50年間が有効とされていました。が、日本が環太平洋連携協定(TPP)加入したことにより、死後70年へ延長されます。これによって著作権の切れた作品を閲覧できるインターネット上の図書館・青空文庫で川端康成の作品が公開されるのは20年先に延期となりました。

" /> 日本の美を表現し続けた文豪「川端康成」を歴史マニアがわかりやすく解説 – ページ 2 – Study-Z
大正日本史明治昭和歴史

日本の美を表現し続けた文豪「川端康成」を歴史マニアがわかりやすく解説

川端康成を囲んだ人々

孤独から生まれた「孤児根性」

川端康成の作品のいくつかに「孤児根性」というキーワードが現れます。ただし、これはこの言葉から安直に連想できる「不運な環境で育ったために歪んだ陰湿な性格」を表しているのではありません。頼るべき家族を失い、孤独のうちにたったひとり取り残されてしまったために得た「我が身を包んで離さない寂しさ」を負った孤児の感情を指しています。彼自身が苛まれ続け、学生時代はひどく悩まされた感情だったのです。

後ろ向きな感情から川端康成を解放したのが伊豆旅行でした。そうして、伊豆半島湯ヶ島温泉で彼は旅芸人の一団と出会います。旅芸人たちと道を一緒にするうちに彼らの裏のない善意や、幼い踊り子の少女の無垢な好意に触れたことで、川端康成の心は癒されていきました。この旅芸人たちこそが後に書かれた『伊豆の踊子』に登場する旅芸人のモデルです。

衝撃的な失恋と婚約破棄

伊豆の旅によって癒されたとはいえ、心に長くあった気持ちは持ち続けていたのでしょう。22歳のころ、川端康成は東京のカフェに努める15歳の伊藤初代に婚約を申し込みます。彼女もまた川端康成と同じく天涯孤独の身でした。しかし、一度は受け入れられた婚約は、一ヶ月後に手紙で一方的に破棄されてしまうのです。初恋の相手からの婚約破棄に川端康成はひどく傷心し、再び伊豆へ旅立ちました。

この伊藤初代との出来事は、『南方の火』『篝火』『非常』といくつもの短編として残されています。どれも同じような内容を何度も何度も書き直し続けたもので、初恋に囚われ、つらい記憶をなぞり続ける胸の痛くなる物語でした。

菊池寛、横光利一との出会い

伊藤初代との思い出の短編の中に、まだ作家として身を立てられない若い川端康成が菊池寛に仕事の斡旋を頼むシーンがあります。当時、すでに人気作家として成功していた菊池寛はこの願いを承諾するどころか、洋行のために空ける自宅を川端康成に貸し、さらに生活費の援助まで申し出たのです。本編では両名共に仮名ですが、これは現実でも交わされた会話でした。ふたりの関係は、東京帝国大学在籍中に菊池寛が川端康成の才能を認めて以来、川端康成は長く彼の恩恵に預かることとなります。

菊池寛の恩恵のひとつに、のちに川端康成の無二の友となる横光利一の紹介がありました。戦前、横光利一は志賀直哉と並んで「小説の神様」と呼ばれた鬼才です。川端康成は横光利一に小説に対する熱い気持ちを感じ、1924年に横光利一とともに「新感覚派」を発足します。

奇術師と呼ばれた作風

「新感覚派」というのは、擬人法や暗喩を多用して文章構造の象徴的な美しさを追及した表現方法です。新感覚派は戦前の日本文学の流派のひとつとなり、文壇に多くの影響を与えました。

川端康成は新感覚派に属す中でも精力的に活動を行い、抒情的な作品から心霊、少女小説まで、ひとりの人間が書いたとは思えないほど手法と作風の変化を見せていきます。そうしてついた異名が「奇術師」でした。川端康成自身、この異名について「ただ彼が己の嘆きとか弱く戦った現れに過ぎない」と、あまり気にはしていないようです。

ともあれ、川端康成と菊池寛、そして横光利一との仲は深いものでした。

\次のページで「戦後、三島由紀夫の訪問」を解説!/

次のページを読む
1 2 3 4
Share: