世界史中国史歴史

【中国史】皇帝の側近として仕えた「宦官」とはどのような制度?中国史マニアがわかりやすく解説

よぉ、桜木建二だ。今日は、中国史に幾度も登場する皇帝の側近である「宦官」について、勉強していこう。

それは去勢された男子のみがなる事を許された特権階級なんだ。皇帝に代わって政治を行うことも多く、朝廷腐敗の原因といわれた事もあったんだ。この「宦官」とは一体いつ出来たのか、何故それほどまで権力を持つことになったのか。中国を参考に律令制度を導入した日本には、何故「宦官」は作られなかったのか。

年間100冊以上を読む読書家で、中国史マニアのライターKanaと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

ライター/Kana

年間100冊以上を読破する読書家。現在はコーチ業に就いており、わかりやすい説明が得意。中国史マニアでもあり、今回は「宦官」について、わかりやすくまとめた。

「宦官」制度の始まり

image by iStockphoto

 「宦官」(かんがん)とは、皇帝や皇后、宮女たちの傍に仕え、その身の回りの世話をする者たちの事です。

 何故彼らを去勢してしまったのか、それは彼らが「後宮」に出入りを許されていたからでしょう。皇后や宮女の傍にいるということは、その女性たちと過ちを犯してしまう可能性があったと思われます。皇帝にとっては決して許せることではなかったはずです。

 しかし、去勢などという恐ろしい手術を望んで行う者は、はじめはいませんでした。それ故に捕らえた捕虜や、『宮刑』(死刑に次ぐ重刑、去勢される)に処された者を使っていたのです。

次第に増していく「宦官」志望者たち

 はじめは上手く機能していたかのように見えた「宦官」制度ですが、時が経つにつれなんと志願者が出てくるようになるのです。

 これには中国の官僚制度によるものでした。中国の官僚になるのは、あの有名な「科挙」(かきょ)に合格しなければいけません。この科挙は人類史に残るほどの超難関試験なのです。才能があっても試験官に気に入られずに落ちる人もいますし、ある程度のお金持ち、ある程度の生まれでなければ試験勉強すら出来ない状況でした。

 貧しい者が権力の近くに行くためには、唯一の道が「宦官」制度、去勢だったのです。また、貧しい家の親の中には、我が子を去勢する者まで現れました。赤ん坊のうちに局部を潰す専門の乳母が現れるなど、「宦官」志願者があふれました。

 その数は一時には、十万人を超えていた時代もありました。

no-img2″>
 <figcaption class=桜木建二

中国史を勉強していくと、必ず出会うのは「宦官」と呼ばれる者たちだ。皇帝の寵愛を受けたために権力を持つことができ、国を滅ぼす原因とされる事が殆どなんだ。

中国史、歴史上の代表的な「宦官」

image by iStockphoto

 一言に「宦官」といっても、歴史に名前を連ねる人物はとても多いのです。

官僚との対立の始まりの人物であり、紙の発明者「蔡倫」(さいりん)
三国志時代に皇帝を傀儡とした「十常侍」(じゅうじょうじ)
蜀の滅亡の原因となった「黄皓」(こうこう)
皇帝自身の手で去勢されたことが有名な「李豬児」(りちょじ)
南海大航海を行った「鄭和」(てい わ)
中国各地に自らの像を収めた祠を作らせた「魏忠賢」(ぎちゅうけん)
明滅亡まで皇帝に付き従った「王承恩」(おうしょうおん)

 軽く名を挙げてみても、これほど多くいます。ここから先は、もう少し詳しく勉強していきましょう。

「春秋戦国時代」から「秦」まで

 「豎刁」(じゅちょう)は、春秋時代の斉の当主「桓公」(かんこう)に仕えた人物でした。なんと自ら後宮の管理をすると申し出た後に去勢したことで皇帝の信頼を得たのです。この逸話から、宦官の祖として伝えられています。

 趙高(ちょうこう)は、秦の皇帝「始皇帝」(しこうてい)に仕えた人物です。趙高がいつから始皇帝に仕えたのかは定かではありません。しかし、勤勉で法律に詳しいことを買われ、始皇帝の末子の教育係となります。その後は、始皇帝に寵愛されることとなり、身辺の雑務を全てこなしていったのです。始皇帝が病没すると後継として、末子を即位させ、絶大な権力を握りました。ある時配下たちの謀反を恐れた趙高は彼らを集め「珍しい馬が手に入った」と鹿を連れてこさせました。趙高の権力を恐れる者たちは馬だと言い、恐れぬ者たちは鹿だと言いました。後日、鹿と答えた者たちは捕らえられ、処刑されていました。この逸話は「馬鹿」の語源の一つだと考えられています。

「前漢」から「後漢」まで

 司馬遷(しばせん)は、前漢時代の歴史家であり、「史記」の著者です。時の皇帝「武帝」に対し、一度の敗戦で処分されそうになっていた友を救うため進言したところ、その怒りを買い宮刑に処されたのでした。ここから「宦官」として武帝に仕えることになるのです。この処分に対し司馬遷は絶望し自害も考えたようですが、父の遺言でもあった「史記」の完成を目指し踏みとどまりました。

 蔡倫(さいりん)は、後漢の第二代皇帝「明帝」に仕えた宦官です。この時代は宦官と官僚(皇后の親類)の対立が最も激化しており、その争いの始まりがこの蔡倫の時だといわれています。さらには、これまでは木や竹、布などに文字が書かれていましたが、製紙法を編み出し、実用的な紙の普及に多大な貢献をした、紙の生みの親といえるでしょう。 

 曹騰(そうとう)は、「安帝・順帝・沖帝・質帝」の四帝に仕えた宦官です。子孫を作れない身のため曹嵩(そうすう)を養子として迎えました。この曹嵩はいずれ魏の武帝となる曹操(そうそう)の父であり、曹操は孫にあたります。曹操は優秀な人物を登用することを好んだといいますが、それはこの曹騰も同様でした。中国各地から優秀な人物を集め、様々な者が高官に上りました。しかし、曹騰は彼らに恩着せがましい態度をとることはしませんでした。

 十常侍(じゅうじょうじ)は、「霊帝」の時代に専権を振るった宦官の集団です。十という数字が使われていますが、実際には12名の宦官による集団でした。特に覚えておいてほしい人物が張譲(ちょうじょう)と趙忠(ちょうちゅう)であり、彼らは霊帝から寵愛を受け「わが父、わが母」と呼ばれるほどになっていったのです。彼らの親族の多くが地方役人として取り立てられ、至るところで横暴な振る舞いを行っていました。しかし「黄巾の乱」を発端にその権力には陰りが見え始め、いよいよ宮中に攻め込んだ袁紹(えんしょう)の手によって、宦官とその派閥の人物は悉く殺害されてしまいました。

「唐」から「明」まで

 李豬児(りちょじ)は、唐の「安禄山」(あんろくざん)に仕えた人物です。幼少の頃はずる賢く周囲の大人を困らせた悪童であったため、その行いに激怒した安禄山自身の手によって去勢されてしまいました。その後一命を取り留めて、宦官となってからは一転して従順となり、安禄山に重臣として重用されました。

 童貫(どうかん)は、北宗の宦官であり、軍人として活躍した人物です。去勢された宦官の身でありながら、多くの妻と養子を持っていたとされています。さらには、宦官でありながらも軍人としても活躍しており、20年余りに渡って将兵を率いていました。しかし1123年、金(きん)に北から攻め込まれ、配下を置き去りに敵前逃亡する失態を犯したのです。その責任を取らされた童貫は死罪となりました。

 鄭和(ていわ)は、明の「永楽帝」(えいらくてい)に仕えた宦官です。鄭和は元は雲南省の出身であり、11歳の頃に明に滅ぼされ捕虜となってしまいます。その後去勢され永楽帝に献上されたのです。鄭和は永楽帝の指示で、船団の指揮をとることになります。その後7回に渡る大航海を行い、明の国威を示し、私貿易を抑制して明による貿易を盛んにすることに成功しました。鄭和の死後は、再び鎖国的な世論や官僚の反対にあい、船団による航海は長らく中止されてしまうのでした。

 魏忠賢(ぎちゅうけん)は、明の宦官です。危機的状況に陥っていた明の皇帝を傀儡とし実権を握り、恐怖政治を敷いた最も悪辣な宦官といわれています。この魏忠賢によって明は滅亡へと突き進んでいくのです。政治に全く興味がなかったといわれる天啓帝(てんけいてい)に代わり、朝廷中を掌握していきました。全国に配下を送り、ほんの些細な悪口であっても言った者を捕らえ処刑していったのです。それは庶民だけでなく、官僚なども同様でした。魏忠賢は朝廷を掌握しただけでは飽き足らず、最後には己の息のかかった者に「彼の功績は孔子と並ぶほどであり、称えるべきだ」と進言させたのです。さらには民衆に対して「九千歳」と唱和させました。九千歳とは万歳は皇帝にしか許されないため、そのひとつ手前であるという意味でした。各地に自らの像を収めた祠を作らせ、もちろんこれに反対する者は全て弾圧、処刑してしまいました。

 王承恩(おうしょうおん)は、明の最後の皇帝「崇禎帝」(すうていてい)に仕えた宦官です。明を滅亡させた反乱の首謀者「李自成」(りじせい)が首都・北京まで迫ると多くの宦官・官僚が寝返りました。しかし、王承恩のみは承諾せず「国の滅亡は周知、しかし陛下の世話を最後までする者も必要である」と述べて応じませんでした。ついに反乱軍が北京を包囲すると、文武百官全てが崇禎帝を見捨てて降伏したのに対し、王承恩のみが崇禎帝のもとに駆けつけたといいます。宦官といえば、とにかく汚職や裏切りなどで評判が悪いのですが、この王承恩は皇帝に殉じた忠義の臣として評価されました。

no-img2″>
 <figcaption class=桜木建二

「宦官」とは、これほどの数が歴史に名を残しているんだな。それほどまでに権力の中枢に近い、あるいは握ることの出来た地位だったんだろうな。

世界各国の「宦官」制度、朝鮮から

 世界各国でも同様の「宦官」制度が多く存在していました。

 朝鮮では中国の制度を参考に「宦官」制度が実施されました。歴史書によると、古くは9世紀頃には宦官制度があったようです。高麗(こうらい)では、医療技術が及ばず切断による感染症が相次ぎました。そのため、切断ではなく睾丸の摘出により「宦官」としていたのです。そして自国の宦官としてだけではなく、中国王朝への献上品としても利用されていました。

 朝鮮王朝においては高麗から継承された職制「内侍府」(ねしぶ)が置かれ、その殆どが宦官であったようです。高麗では、貴族の子弟が内侍に任命されていたのですが、朝鮮では宦官が任命されました。この時から挑戦では「内侍」が宦官の別称となり、現代の韓国・北朝鮮にも繋がっています。しかし、朝鮮の宦官は1894年の甲牛改革で宦官制度は完全廃止されました。

次のページを読む
1 2 3
Share: