庶民のために反乱を起こした生田万
1837年の6月、国学者の生田万が反乱を起こしますが、この生田万の乱は大塩平八郎の乱に強く影響されて起こったものです。ちなみに大塩平八郎の乱が起こったのは同年の3月、生田万の乱が起こったのはその3ヶ月後のことで、反乱の原因はやはり天保の大飢饉でした。
庶民と飢餓に苦しめた天保の大飢饉、それは連日多くの餓死者を出すほど深刻な状況です。しかし、豪商や代官役人には庶民を救済する意思は全くなく、むしろ結託して米を買い占める不正を行い米の価格を高騰されました。そんな中、生田万は苦しむ庶民のために食糧を与えて救済活動に励みます。
そんな時に起こったのが大塩平八郎の乱であり、これに刺激された生田万は仲間と共に庄屋の屋敷を襲撃して金品を強奪、それを庶民に分け与えたのです。そして仲間を増やすと今度は桑名藩の屋敷を襲撃、しかしこれは成功せず、駆け付けた兵に傷を負わされた生田万は自害して反乱は終わります。
大塩平八郎の乱と生田万の乱の違い
大塩平八郎の乱と生田万の乱はどちらも1837年に起こっており、またどちらも天保の大飢饉に苦しむ庶民を救済することを目的としています。さらに「不正を許さない」、「正義感が強い」という点で大塩平八郎と生田万は性格も似ているのです。実際、生田万は大塩平八郎の弟子を称していたほどでした。
このため2つの乱は区別がつきにくいのですが、2つの乱の大きな違いは反乱の参加者です。大塩平八郎の乱では天保の大飢饉への対処に不満を持つ農民などの庶民も大勢参加、その数は300人相当の規模でした。一方、生田万の乱に参加したのは生田万の仲間……すなわち同志である5人しかいません。
これは、乱が起こった地である柏崎に生田万が滞在してからわずか8ヶ月で反乱を起こしたことが理由です。滞在開始から反乱開始まで短期間であったため、大塩平八郎の乱のように庶民を巻き込んでの大きな反乱を起こすことは不可能でした。しかし生田万の行動もムダではなく、乱の翌日に米は値下がりしたそうです。
共感できるからこそ理解しやすい
大塩平八郎の乱は天保の大飢饉に苦しむ庶民を救済するために起こったもので、そこに至るまでには大塩平八郎の様々な行動と苦悩があり、致し方なく反乱を起こしたことが分かります。
欲のために起こした反乱とは全く違い、そのため大塩平八郎の乱が起こった経緯には共感する部分が多く、流れに沿って丁寧に勉強していけば比較的簡単に深く理解できますよ。