たった半日で鎮圧された反乱
次々と火を放っていく大塩平八郎の一派、その勢力はおよそ300人で、大塩平八郎の門弟や農民が反乱に加わりました。この奇襲で大阪の街は次々と焼けていき、後にこれは大塩焼きと呼ばれます。一方、奉公所は大塩平八郎の一派を迎撃、反乱はあっという間に鎮圧されてしまいました。
何しろ、奉公所は大塩平八郎の計画を把握してたため、充分な人数を揃えて対処することができましたし、300人の軍勢と言ってもその多くは農民であり、戦いに慣れた武士ではありません。このため奉公所の者達には戦いでは到底敵わず、大塩平八郎の乱はたった半日で鎮圧されることになったのです。
反乱が鎮圧されたその頃、大塩平八郎はたった1人で跡部良弼殺害の機会を伺います。淀川に船を浮かべ、日が暮れるまで大坂東町奉行所の様子を伺う大塩平八郎、そんな彼でしたが反乱鎮圧の情報を知るとガックリとしてその場を去っていきました。こうして、大塩平八郎の乱は失敗に終わったのです。
大塩平八郎の死
反乱が鎮められて追われる身となった大塩平八郎は、とある商家の家にかくまわれ、養子の格之助と2人でひっそりと潜伏生活を送っていました。そして潜伏して1ヶ月余り経った頃、これまでうまく身を隠していた大塩平八郎は意外な形で発見されてしまいます。
この家に仕えていた女中が2人分の食事が常に余分に用意してあることを不審に思い、下総国古河藩主・土井利位にこれを密告したのです。こうして大塩平八郎は発見され、潜伏先は役人によって完全に包囲されました。この状況に観念した大塩平八郎は、養子の格之助と共に潜伏先で自ら火を放って自害したのです。
大塩平八郎の乱は失敗に終わり、結局彼は大阪の庶民を天保の大飢饉から救済することはできませんでした。挙句命を落とす結末となりましたが、大塩平八郎の乱は下の者が上の者に従う常識を覆す行為として日本に衝撃を与え、奉公所や幕府の権威低下の大きな一因となったのです。
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