
飢饉を乗り切った矢部定謙の活躍
江戸時代では大きな飢饉が3度起こっており、天保の大飢饉は享保の大飢饉、天明の大飢饉とともに江戸三大飢饉として数えられています。天保の大飢饉は1833年に起こりますが、1833年・秋から1834年・夏、そして1836年・秋から1837年・夏にかけてが特に深刻で酷い状態でした。
ただ、前半にあたる1833年・秋から1834年・夏にかけての飢饉は何とか乗り切ります。これは、大坂西町奉行の矢部定謙が大塩平八郎を顧問にして相談したこと、さらに矢部定謙の部下に経済の知識に長けた内山彦次郎などがいたことが大きく、そのため無事乗り切ることができたのです。
しかし、後半にあたる1836年・秋から1837年・夏にかけての飢饉は酷いものでした。と言うのも、この時は矢部定謙が栄転によって勘定奉行になっていたため飢饉の問題解決に携わっておらず、しかも大坂東町奉行の跡部良弼は民衆の苦しみを全く理解しない人物だったのです。
人々を苦しめる跡部良弼と悩む大塩平八郎
跡部良弼は江戸幕府に評価されようと、こともあろうに飢饉で飢えに苦しむ状況の大阪の貴重な米を江戸に送ってしまいます。さらに豪商が米を買い占めたために米の価格も高騰、こうして大阪では、民衆は米が足りない上に買うこともできない状況に陥ってしまったのです。
飢餓で苦しむ大阪の民衆、そこで正義感の強い大塩平八郎は跡部良弼に様々な提案をして解決をはかります。「年貢として幕府が収納している米を民衆に与えてくれないか?」、「豪商の買い占めを禁止してくれないか?」……しかし、跡部良弼は大塩平八郎の提案を全く聞き入れようとしませんでした。
跡部良弼が聞く耳を持たないため、大塩平八郎は次は豪商に相談します。「民衆に米を買い与えたい。自分と門人の禄米を担保にするから1万両を貸してくれないか?」……しかし豪商はこれを跡部良弼に相談、跡部良弼が「断れ」と指示したため、大塩平八郎のこの提案もまた流れてしまいました。
密かに進めていた軍事訓練
大塩平八郎は自宅にあるおよそ5万冊の書物を売り、民衆の救済のためにそれを使います。とは言え、大阪の民衆全てを救済するのはとても不可能で、大塩平八郎の救済活動には限界がありました。そこで大塩平八郎は、一向に意見を聞いてくれない跡部良弼を殺害するしか道はないと考えます。
跡部良弼を殺害、その上で現状を幕府に訴えて救済を求めようというのが大塩平八郎の考えでした。それにしても天保の大飢饉の影響は深刻で、甲斐国では天保騒動、三河国挙母藩では加茂一揆などの一揆が各地で起こっていましたが、こうした一揆のさなかには必ずと言えるほど打ちこわしが起こります。
打ちこわしとは民衆運動の1つであり、不正を行ったとみなされる者の家屋を破壊する行為です。大塩平八郎はそんな打ちこわし鎮圧のためにと、与力同心の門下生と軍事訓練を行いました。しかし打ちこわし鎮圧はあくまで名目、本当の目的は来たるべき反乱の時に備えるための訓練だったのです。
大塩平八郎の誤算と反乱の始まり
爆薬や大砲も準備して用意周到に反乱を計画する大塩平八郎、近くの村や大阪の街の人々にもその意向を伝えていました。そして1837年、大塩平八郎はついに反乱を起こそうとしますが、ここで予想外の事態が起こります。大塩平八郎は当初、跡部良弼を含む2人の大阪町奉行が顔を合わせる日にその会合場所を爆破する計画でした。
つまり、爆殺という手段で跡部良弼を殺害しようとしたのですが、決起直前になって反乱に参加する者の一部が裏切り、大塩平八郎の反乱の計画を町奉行に通告してしまったのです。殺害計画を聞いた跡部良弼は当然警戒、奉公所も反乱に備えた準備も整えたため、これで大塩平八郎に勝機はなくなりました。
勝機を失い、また準備も不完全だった大塩平八郎でしたが、ここで反乱を中止するわけにはいきません。半ば強引な形でしたが自宅に火を放って反乱を宣言、そのまま商人の家を次々を放火していき、これが1837年の大塩平八郎の乱の始まりでした。
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