昔の日本は多くの反乱が起こっており、いずれもその目的は思想の衝突や権利の奪い合いであることが多かった。しかし、大塩平八郎の乱はそうではない。今回、そんな大塩平八郎の乱について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。
ライター/リュカ
元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から大塩平八郎の乱をわかりやすくまとめた。
「知識と行為は一体」、陽明学を学ぶ
まず、大塩平八郎の乱を引き起こした張本人、大塩平八郎について簡単に覚えておきましょう。彼は大阪東町奉行の与力の家柄の生まれであり、与力とは役人において中級の位に値します。潔癖かつ頑固な性格の大塩平八郎は、当時主流だった朱子学ではなく陽明学を学んでいました。
最も、学問の選択は各々の自由に思えますが、あくまでそれは現代の話……特に当時の日本は1790年の寛政異学の禁によって学問が統制されており、江戸幕府は朱子学を正しい学問としていたのです。そんな中、大塩平八郎は異端と扱われる陽明学をほぼ独学で学んでいきます。
陽明学には「知行合一」の教えがあり、これは「知識と行為は一体である」……すなわち、「知識として知っていてもそこに行為が伴わなければそれは知識ではない」と説いたものです。陽明学に影響を受けていた大塩平八郎は、この教えどおり「行為」にためらうことはありませんでした。
「潔癖かつ頑固」、奉行所内の汚職を次々と暴く
元々潔癖で頑固な性格の大塩平八郎は、「知行合一」の教えに従うこともあって役人を務めていた時から奉公所内の汚職など不正を次々と暴いていきます。もちろんその行為は間違いなく正義ですが、奉公所の内部ではそんな大塩平八郎を疎ましく思う者もいたようですね。
そんな彼が与力として依然仕事を全うできたのは、上司である高井実徳が大塩平八郎を理解して味方してくれていたからです。しかし、1830年に高井実徳が転勤になると、大塩平八郎も与力を辞職して養子である大塩格之助に跡目を譲ります。良き理解者が転勤になったことで、大塩平八郎は与力の仕事を続けづらくなったのかもしれませんね。
こうして隠居することになった大塩平八郎ですが、その後は学業に専念して私塾・洗心洞で子弟を指導して過ごしていました。そんな中、大塩平八郎が反乱を起こすきっかけとなる大きな飢饉が起こります。それが1833年に起こる天保の大飢饉で、大塩平八郎の運命は大きく変わっていくのです。
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