今日は大塩平八郎の乱について勉強していきます。大塩平八郎の乱は1837年、大阪にてに大坂町奉行所の元与力・大塩平八郎が引き起こした反乱です。

昔の日本は多くの反乱が起こっており、いずれもその目的は思想の衝突や権利の奪い合いであることが多かった。しかし、大塩平八郎の乱はそうではない。今回、そんな大塩平八郎の乱について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から大塩平八郎の乱をわかりやすくまとめた。

反乱を起こした張本人・大塩平八郎の人物像

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「知識と行為は一体」、陽明学を学ぶ

まず、大塩平八郎の乱を引き起こした張本人、大塩平八郎について簡単に覚えておきましょう。彼は大阪東町奉行の与力の家柄の生まれであり、与力とは役人において中級の位に値します。潔癖かつ頑固な性格の大塩平八郎は、当時主流だった朱子学ではなく陽明学を学んでいました。

最も、学問の選択は各々の自由に思えますが、あくまでそれは現代の話……特に当時の日本は1790年の寛政異学の禁によって学問が統制されており、江戸幕府は朱子学を正しい学問としていたのです。そんな中、大塩平八郎は異端と扱われる陽明学をほぼ独学で学んでいきます。

陽明学には「知行合一」の教えがあり、これは「知識と行為は一体である」……すなわち、「知識として知っていてもそこに行為が伴わなければそれは知識ではない」と説いたものです。陽明学に影響を受けていた大塩平八郎は、この教えどおり「行為」にためらうことはありませんでした。

「潔癖かつ頑固」、奉行所内の汚職を次々と暴く

元々潔癖で頑固な性格の大塩平八郎は、「知行合一」の教えに従うこともあって役人を務めていた時から奉公所内の汚職など不正を次々と暴いていきます。もちろんその行為は間違いなく正義ですが、奉公所の内部ではそんな大塩平八郎を疎ましく思う者もいたようですね。

そんな彼が与力として依然仕事を全うできたのは、上司である高井実徳が大塩平八郎を理解して味方してくれていたからです。しかし、1830年に高井実徳が転勤になると、大塩平八郎も与力を辞職して養子である大塩格之助に跡目を譲ります。良き理解者が転勤になったことで、大塩平八郎は与力の仕事を続けづらくなったのかもしれませんね。

こうして隠居することになった大塩平八郎ですが、その後は学業に専念して私塾・洗心洞で子弟を指導して過ごしていました。そんな中、大塩平八郎が反乱を起こすきっかけとなる大きな飢饉が起こります。それが1833年に起こる天保の大飢饉で、大塩平八郎の運命は大きく変わっていくのです。

天保の大飢饉の発生

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飢饉を乗り切った矢部定謙の活躍

江戸時代では大きな飢饉が3度起こっており、天保の大飢饉は享保の大飢饉、天明の大飢饉とともに江戸三大飢饉として数えられています。天保の大飢饉は1833年に起こりますが、1833年・秋から1834年・夏、そして1836年・秋から1837年・夏にかけてが特に深刻で酷い状態でした。

ただ、前半にあたる1833年・秋から1834年・夏にかけての飢饉は何とか乗り切ります。これは、大坂西町奉行の矢部定謙が大塩平八郎を顧問にして相談したこと、さらに矢部定謙の部下に経済の知識に長けた内山彦次郎などがいたことが大きく、そのため無事乗り切ることができたのです。

しかし、後半にあたる1836年・秋から1837年・夏にかけての飢饉は酷いものでした。と言うのも、この時は矢部定謙が栄転によって勘定奉行になっていたため飢饉の問題解決に携わっておらず、しかも大坂東町奉行の跡部良弼民衆の苦しみを全く理解しない人物だったのです。

人々を苦しめる跡部良弼と悩む大塩平八郎

跡部良弼は江戸幕府に評価されようと、こともあろうに飢饉で飢えに苦しむ状況の大阪の貴重な米を江戸に送ってしまいます。さらに豪商が米を買い占めたために米の価格も高騰、こうして大阪では、民衆は米が足りない上に買うこともできない状況に陥ってしまったのです。

飢餓で苦しむ大阪の民衆、そこで正義感の強い大塩平八郎は跡部良弼に様々な提案をして解決をはかります。「年貢として幕府が収納している米を民衆に与えてくれないか?」「豪商の買い占めを禁止してくれないか?」……しかし、跡部良弼は大塩平八郎の提案を全く聞き入れようとしませんでした

跡部良弼が聞く耳を持たないため、大塩平八郎は次は豪商に相談します。「民衆に米を買い与えたい。自分と門人の禄米を担保にするから1万両を貸してくれないか?」……しかし豪商はこれを跡部良弼に相談、跡部良弼が「断れ」と指示したため、大塩平八郎のこの提案もまた流れてしまいました。

大塩平八郎・反乱の決意と実行

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密かに進めていた軍事訓練

大塩平八郎は自宅にあるおよそ5万冊の書物を売り、民衆の救済のためにそれを使います。とは言え、大阪の民衆全てを救済するのはとても不可能で、大塩平八郎の救済活動には限界がありました。そこで大塩平八郎は、一向に意見を聞いてくれない跡部良弼を殺害するしか道はないと考えます。

跡部良弼を殺害、その上で現状を幕府に訴えて救済を求めようというのが大塩平八郎の考えでした。それにしても天保の大飢饉の影響は深刻で、甲斐国では天保騒動、三河国挙母藩では加茂一揆などの一揆が各地で起こっていましたが、こうした一揆のさなかには必ずと言えるほど打ちこわしが起こります。

打ちこわしとは民衆運動の1つであり、不正を行ったとみなされる者の家屋を破壊する行為です。大塩平八郎はそんな打ちこわし鎮圧のためにと、与力同心の門下生と軍事訓練を行いました。しかし打ちこわし鎮圧はあくまで名目、本当の目的は来たるべき反乱の時に備えるための訓練だったのです。

大塩平八郎の誤算と反乱の始まり

爆薬や大砲も準備して用意周到に反乱を計画する大塩平八郎、近くの村や大阪の街の人々にもその意向を伝えていました。そして1837年、大塩平八郎はついに反乱を起こそうとしますが、ここで予想外の事態が起こります。大塩平八郎は当初、跡部良弼を含む2人の大阪町奉行が顔を合わせる日にその会合場所を爆破する計画でした

つまり、爆殺という手段で跡部良弼を殺害しようとしたのですが、決起直前になって反乱に参加する者の一部が裏切り、大塩平八郎の反乱の計画を町奉行に通告してしまったのです。殺害計画を聞いた跡部良弼は当然警戒、奉公所も反乱に備えた準備も整えたため、これで大塩平八郎に勝機はなくなりました

勝機を失い、また準備も不完全だった大塩平八郎でしたが、ここで反乱を中止するわけにはいきません。半ば強引な形でしたが自宅に火を放って反乱を宣言、そのまま商人の家を次々を放火していき、これが1837年の大塩平八郎の乱の始まりでした。

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大塩平八郎・反乱の結末と死

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たった半日で鎮圧された反乱

次々と火を放っていく大塩平八郎の一派、その勢力はおよそ300人で、大塩平八郎の門弟や農民が反乱に加わりました。この奇襲で大阪の街は次々と焼けていき、後にこれは大塩焼きと呼ばれます。一方、奉公所は大塩平八郎の一派を迎撃、反乱はあっという間に鎮圧されてしまいました。

何しろ、奉公所は大塩平八郎の計画を把握してたため、充分な人数を揃えて対処することができましたし、300人の軍勢と言ってもその多くは農民であり、戦いに慣れた武士ではありません。このため奉公所の者達には戦いでは到底敵わず、大塩平八郎の乱はたった半日で鎮圧されることになったのです

反乱が鎮圧されたその頃、大塩平八郎はたった1人で跡部良弼殺害の機会を伺います。淀川に船を浮かべ、日が暮れるまで大坂東町奉行所の様子を伺う大塩平八郎、そんな彼でしたが反乱鎮圧の情報を知るとガックリとしてその場を去っていきました。こうして、大塩平八郎の乱は失敗に終わったのです。

大塩平八郎の死

反乱が鎮められて追われる身となった大塩平八郎は、とある商家の家にかくまわれ、養子の格之助と2人でひっそりと潜伏生活を送っていました。そして潜伏して1ヶ月余り経った頃、これまでうまく身を隠していた大塩平八郎は意外な形で発見されてしまいます。

この家に仕えていた女中が2人分の食事が常に余分に用意してあることを不審に思い、下総国古河藩主・土井利位にこれを密告したのです。こうして大塩平八郎は発見され、潜伏先は役人によって完全に包囲されました。この状況に観念した大塩平八郎は、養子の格之助と共に潜伏先で自ら火を放って自害したのです

大塩平八郎の乱は失敗に終わり、結局彼は大阪の庶民を天保の大飢饉から救済することはできませんでした。挙句命を落とす結末となりましたが、大塩平八郎の乱は下の者が上の者に従う常識を覆す行為として日本に衝撃を与え、奉公所や幕府の権威低下の大きな一因となったのです。

大塩平八郎の乱の影響・生田万の乱

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庶民のために反乱を起こした生田万

1837年の6月、国学者の生田万が反乱を起こしますが、この生田万の乱は大塩平八郎の乱に強く影響されて起こったものです。ちなみに大塩平八郎の乱が起こったのは同年の3月、生田万の乱が起こったのはその3ヶ月後のことで、反乱の原因はやはり天保の大飢饉でした。

庶民と飢餓に苦しめた天保の大飢饉、それは連日多くの餓死者を出すほど深刻な状況です。しかし、豪商や代官役人には庶民を救済する意思は全くなく、むしろ結託して米を買い占める不正を行い米の価格を高騰されました。そんな中、生田万は苦しむ庶民のために食糧を与えて救済活動に励みます。

そんな時に起こったのが大塩平八郎の乱であり、これに刺激された生田万は仲間と共に庄屋の屋敷を襲撃して金品を強奪、それを庶民に分け与えたのです。そして仲間を増やすと今度は桑名藩の屋敷を襲撃、しかしこれは成功せず、駆け付けた兵に傷を負わされた生田万は自害して反乱は終わります。

大塩平八郎の乱と生田万の乱の違い

大塩平八郎の乱と生田万の乱はどちらも1837年に起こっており、またどちらも天保の大飢饉に苦しむ庶民を救済することを目的としています。さらに「不正を許さない」、「正義感が強い」という点で大塩平八郎と生田万は性格も似ているのです。実際、生田万は大塩平八郎の弟子を称していたほどでした。

このため2つの乱は区別がつきにくいのですが、2つの乱の大きな違いは反乱の参加者です。大塩平八郎の乱では天保の大飢饉への対処に不満を持つ農民などの庶民も大勢参加、その数は300人相当の規模でした。一方、生田万の乱に参加したのは生田万の仲間……すなわち同志である5人しかいません。

これは、乱が起こった地である柏崎に生田万が滞在してからわずか8ヶ月で反乱を起こしたことが理由です。滞在開始から反乱開始まで短期間であったため、大塩平八郎の乱のように庶民を巻き込んでの大きな反乱を起こすことは不可能でした。しかし生田万の行動もムダではなく、乱の翌日に米は値下がりしたそうです。

共感できるからこそ理解しやすい

大塩平八郎の乱は天保の大飢饉に苦しむ庶民を救済するために起こったもので、そこに至るまでには大塩平八郎の様々な行動と苦悩があり、致し方なく反乱を起こしたことが分かります。

欲のために起こした反乱とは全く違い、そのため大塩平八郎の乱が起こった経緯には共感する部分が多く、流れに沿って丁寧に勉強していけば比較的簡単に深く理解できますよ。

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日本史歴史江戸時代

庶民救済のための正義の反乱?「大塩平八郎の乱」について元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

今日は大塩平八郎の乱について勉強していきます。大塩平八郎の乱は1837年、大阪にてに大坂町奉行所の元与力・大塩平八郎が引き起こした反乱です。

昔の日本は多くの反乱が起こっており、いずれもその目的は思想の衝突や権利の奪い合いであることが多かった。しかし、大塩平八郎の乱はそうではない。今回、そんな大塩平八郎の乱について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から大塩平八郎の乱をわかりやすくまとめた。

反乱を起こした張本人・大塩平八郎の人物像

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「知識と行為は一体」、陽明学を学ぶ

まず、大塩平八郎の乱を引き起こした張本人、大塩平八郎について簡単に覚えておきましょう。彼は大阪東町奉行の与力の家柄の生まれであり、与力とは役人において中級の位に値します。潔癖かつ頑固な性格の大塩平八郎は、当時主流だった朱子学ではなく陽明学を学んでいました。

最も、学問の選択は各々の自由に思えますが、あくまでそれは現代の話……特に当時の日本は1790年の寛政異学の禁によって学問が統制されており、江戸幕府は朱子学を正しい学問としていたのです。そんな中、大塩平八郎は異端と扱われる陽明学をほぼ独学で学んでいきます。

陽明学には「知行合一」の教えがあり、これは「知識と行為は一体である」……すなわち、「知識として知っていてもそこに行為が伴わなければそれは知識ではない」と説いたものです。陽明学に影響を受けていた大塩平八郎は、この教えどおり「行為」にためらうことはありませんでした。

「潔癖かつ頑固」、奉行所内の汚職を次々と暴く

元々潔癖で頑固な性格の大塩平八郎は、「知行合一」の教えに従うこともあって役人を務めていた時から奉公所内の汚職など不正を次々と暴いていきます。もちろんその行為は間違いなく正義ですが、奉公所の内部ではそんな大塩平八郎を疎ましく思う者もいたようですね。

そんな彼が与力として依然仕事を全うできたのは、上司である高井実徳が大塩平八郎を理解して味方してくれていたからです。しかし、1830年に高井実徳が転勤になると、大塩平八郎も与力を辞職して養子である大塩格之助に跡目を譲ります。良き理解者が転勤になったことで、大塩平八郎は与力の仕事を続けづらくなったのかもしれませんね。

こうして隠居することになった大塩平八郎ですが、その後は学業に専念して私塾・洗心洞で子弟を指導して過ごしていました。そんな中、大塩平八郎が反乱を起こすきっかけとなる大きな飢饉が起こります。それが1833年に起こる天保の大飢饉で、大塩平八郎の運命は大きく変わっていくのです。

天保の大飢饉の発生

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