
3-3、中川淳庵
祖父の代から小浜藩の蘭方医を務めた家系で、玄白の後輩。山形藩医の安富寄碩にオランダ語を学び、本草学を田村藍水に学んだほか、1764年(明和元年)平賀源内と共に火浣布、寒暖計を作ったりと、本草学方面へ興味を持ち、宝暦7年(1757年)の田村一門の物産会に参加し、平賀源内発行の「物類品隲」(ぶつるいひんしつ)の校閲も。安永5年(1776年)、博物学者ツンベリーが江戸へ来たとき、医学の他に植物標本作成法についても教えてもらったそう。
「解体新書」以降も前野良沢のもとでオランダ語の学習を続けたせいか、ツンベリーは、淳庵はかなりよくオランダ語を話すと記し、淳庵が商館長イサーク・チチングへ宛てた手紙は流麗な筆記体で書かれているということ。ツンベリーとの交流が「日本旅行記」に登場したので西洋にも名が知られ、寛政5年(1793年)、ロシアから大黒屋光太夫が帰還したとき、光太夫は中川淳庵、桂川甫周の名をロシアで聞いたと証言。
3-4、桂川 甫周(かつらがわ ほしゅう)
明和8年(1771年)、21歳でオランダの医学書「ターヘル・アナトミア」の翻訳に参加。安永5年(1776年)、オランダ商館長の江戸参府に随行したスウェーデンの医学者カール・ツンベルクに、中川淳庵とともに外科術を学んだそう。その後、ツンベルクの著書「日本紀行」によって、甫周の名は淳庵とともに海外にも知られることに。
天明4年(1784年)、34歳の時に「万国図説」を著すなど教育者としても優れていて、幕府設立の医学舘の教官となったほか、享和2年(1802年)「顕微鏡用法」を著して、顕微鏡を医学利用した初めての日本人に。また顕微鏡の使用法を将軍徳川家斉らに教授し、普及に努めたりと蘭方医として業績多数あり。
4-1、玄白、医学塾を開塾
玄白は、安永5年(1776年)小浜藩中屋敷を出て、近隣の竹本藤兵衛(旗本、500石取)の浜町拝領屋敷で開業医院を。
また、「解体新書」が評判を呼び、弟子が多く集まってきたので私塾を開く必要性が出来たため、「天真楼」という医学塾も開塾。
前野良沢、杉田玄白の弟子である蘭学者大槻玄沢は「天真楼」で学び、後に私塾「芝蘭堂」を創設。この後、江戸時代末期に次々と出来た蘭学塾の草分け的存在に。
尚、玄白は外科が得意で優れていたので、「病客日々月々多く、毎年千人余りも療治」と患者さんも増えたようで、儒学者の柴野栗山は「杉田玄白事は、当時江戸一番の上手にて御座候。是へまかせ置き候へば、少も気遣は無之候」と評判も良かったようです。晩年には小浜藩から加増されて400石の知行も。
4-2、玄白、晩年に「蘭学事始」で回顧
玄白は晩年に、回想録として「蘭学事始」を執筆。文化2年(1805年)、11代将軍徳川家斉に拝謁して良薬を献上。文化4年(1807年)家督を子の伯元に譲って隠居。著書には他にも「形影夜話」ほか多数。 孫の杉田成卿(梅里)は幕府天文方となったということ。
玄白は当時としてもかなり長生きで、元気で長生きするためにしてはいけないことを示す「養生七不可」を残しています。
文化14年(1817年)に83歳で死去。
4-3、「蘭学事始」の出版は明治以後に
玄白は、文化11年(1814年)80歳を過ぎたころに「蘭学事始」を執筆し始め、一度体調を崩して中断し大槻玄沢の校訂を経て完成。
最初は「蘭東事始」(らんとうことはじめ)という題名または「和蘭事始」(わらんことはじめ)という題名で、原本は玄白自筆の原稿本とその写本の2冊だけで、原稿本は杉田家の所蔵で、写本は玄沢に贈られたということ。
しかし杉田家の原稿本は、安政2年(1855年)の安政の大地震で失われ、大槻家の写本も散逸し、完全に失われたとされていたが、幕末のころ、幕府蕃書調所教授で洋学者の神田孝平(たかひら)が、湯島の露店で偶然に大槻家の写本を発見。明治2年(1869年)、玄白分家の曽孫で江戸幕府外国奉行翻訳御用雇だった杉田廉卿(れんけい)による校正をへて、福沢諭吉はじめ有志一同が「蘭学事始」(上下2巻)の題名で刊行。その後再発行を重ねて、西洋医学導入期の当事者による貴重な一次史料とされています。
蘭学普及のきっかけになった解体新書の翻訳
玄白らは医学のためにオランダ語が完璧でないのに「解体新書」翻訳を敢行したのですが、結果的には医学に留まらず、その後の日本のインテリが西洋文化を学ぶ下地を作ったというほど、多大な影響を与えました。玄白の「蘭学事始」を発見して刊行した適塾の塾頭で洋学者の福沢諭吉も、先人の苦労に涙をしたそう。
その後、日蘭辞典が作られ、色々な情報が蘭書を通して得られたことを考えると、玄白の偉業なくして明治維新はなかったかも。完璧でなくてもいい、誤訳があってもとにかく出版した玄白は、正しいことをしたのですね。