
2-4、解体新書は1冊の翻訳ではない
「解体新書』は「ターヘル・アナトミア」の翻訳書とされていますが、表紙は「ワルエルダ解剖書」で、「アンブル外科書解体篇」、「カスパル解体書」、「コイテル解体書」「トンミュス解体書」「パルヘイン解体書」「バルシトス解体書」「ブランカール解体書」「ヘスリンキース解体書」「ミスケル解体書」などが参考にされていて、和漢の説も引かれているなど、単純に逐語訳されたのではなく、杉田玄白らの手で再構成されているということ。
また各所に「翼按ずるに」と、玄白による注釈も。
2-5、翻訳の苦労、「フルへへンド」
玄白らは翻訳の途中で「フルへヘンド」という単語がどうしてもわからなかったそう。で、他の書物もその単語を探して調べていくと、「落ち葉を集めると、フルへヘンドになる」と、「顔の中央で、フルへヘンドしている」というのが見つかったので、フルへヘンドは「うず高い」ことじゃないかと推測、そして「鼻」と訳すという具合で、人体の名称などについても、「神経」「軟骨」「動脈」「処女膜」などは造語、今日でも使われています。
尚、「解体新書」には誤訳も多かったために、後に玄白と良沢の弟子でもある大槻玄沢が訳し直し、文政9年(1826年)「重訂 解体新書」を刊行。
3-1、解体新書に関わった人たち
玄白ひとりではなく、何人もの蘭学者が関わっていますが、主な人物を挙げてみました。
3-2、前野良沢(まえの りょうたく)
享保8年(1723年)生まれ、豊前国中津藩(現在の大分県中津市)の藩医で蘭学者、後に江戸幕府の幕臣に。1743年(寛保2年)頃、知人にオランダ書物の切れ端を見せられ初めてオランダ語に接したが、「国が異なり言葉が違っても同じ人間だから理解出来ないことはないだろう」と、蘭学を志したそう。蘭学者の草分けの青木昆陽の晩年に師事した後、1769年(明和6年)に藩主の参勤交代で中津に下向し、長崎へ留学。そこで手に入れたのが「ターヘル・アナトミア」。
解体新書に前野良沢の名前がないのはなぜか
「解体新書」には、玄白らのなかで最もオランダ語に精通し、ほとんどを翻訳したはずの前野良沢の名前はなく、後に玄白の回顧録として出版された「蘭学事始」でようやくその業績が知られるように。
なぜ良沢の名が出ていないのかという理由は、完璧主義の良沢は不備な翻訳が多い「解体新書」刊行に反対で、自分の名前が出るのを恥だと思っていたからという説が。良沢は、人の命を扱う医学書は不完全で誤訳の多い状態では出版できないと言い、玄白は、誤訳は多く不完全だが、不正確な知識で治療されている現状では出版することで助かる命もあるはず、というのが双方の言い分だったよう。
また、良沢は幕臣となっていたせいで、蘭学に対する幕府の対応が良くなく、あとで良沢が罪に問われることがないようにという配慮という説も。
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