
1-3、山脇東洋の初の人体解剖に刺激を受ける
宝暦4年(1754年)、京都で山脇東洋が、処刑された罪人の腑分け(人体解剖)を実施。国内初の人体解剖は、蘭書の正確性を証明、日本の医学界に波紋を広げ、玄白も五臓六腑説への疑問を抱くきっかけに。
1-4、玄白は、明和2年(1765年)小浜藩の奥医師に
玄白はオランダ医学に興味を持ち、オランダ語を学ぼうとしていました。
そして同年、オランダ商館長一行が江戸参府の際、玄白は平賀源内らと共に、オランダ商館長一行の滞在する長崎屋を訪問。
が、オランダ通詞(通訳)の西善三郎からオランダ語学習の困難さを諭されたために、玄白はオランダ語習得を断念。明和6年(1769年)には父の玄甫が死去したため、玄白は家督と侍医の職を継ぎ、新大橋の小谷藩中屋敷に。
長崎へ行かなくても、オランダ人の江戸参府のときに長崎屋という宿屋へ訪問する手があったのですね。
尚、オランダ語が全くわからずおまけに辞書もないのに専門用語の詰まった原書の翻訳は無理、そしてこの当時の通詞はやはり親代々受け継がれた職業でしたが、日常会話や貿易関係の通訳が主なのに専門書の翻訳を頼むのは無理、それでも玄白らは医学書を翻訳したい、翻訳してしまったというのは、いかにすごい熱意かということかも。
2-1、解体新書の翻訳
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玄白の回想録「蘭学事始」によると、明和8年(1771年)、若狭国小浜藩に勤めていた蘭方医で玄白の後輩の中川淳庵がオランダ商館院から借りたオランダ語医学書「ターヘル・アナトミア」を携えて玄白のもとを訪れたということ。
玄白はオランダ語の本文は読めないが、図版の精密な解剖図に驚愕して、藩に相談、購入することに。そして、偶然長崎から同じ医学書を持ち帰った前野良沢、中川淳庵らとともに「千寿骨ヶ原」(現東京都荒川区南千住小塚原刑場跡)で死体の腑分けを行い、解剖図の正確さに感嘆したそう。
その後4年をかけて、玄白、良沢、淳庵らで、「ターヘル・アナトミア」を日本語訳、安永2年(1773年)には翻訳の目処がつき、世間の反応を確かめるために先に「解体約図」を刊行し、安永3年(1774年)に「解体新書」として刊行。解体新書は4巻刊行されており、解体図などの図は、別冊に。
尚、「解体新書」は、友人の桂川甫三(桂川甫周の父)によって10代将軍家治に献上されたということ。
2-2、腑分け、解剖はタブーだった
ヨーロッパの歴史では、かなり昔から外科手術が行われていたようですが、キリスト教的考えから長い間死体解剖は禁止に。日本の場合、宗教でも法律でも禁止はされていなかったようですが、死体解剖は行われず、外科手術は、おできの切開程度のことでした。
ということで、外科の治療法は漢方より蘭方医の評価が高く、骨折や傷の手当てを中心とした治療が多かったが、17世紀中頃には体液病理学、薬も紹介されるようになったそう。
2-3、オランダ語がほとんどわからないまま、見切り発車
最初の頃、玄白と中川淳庵はオランダ語が読めず、少しはオランダ語の知識があった前野良沢も100程度の単語しか知らないために翻訳するには語彙が少なすぎの状態。が、当時40歳前後だった玄白が、「人はいつ死ぬかわからない。私はもう若くないし、あちこち調子も悪い。のんびりやっていたら、草葉の陰(あの世)で翻訳の完成を見ることになる」と、翻訳を強行。
江戸での作業のため、長崎のオランダ語の通詞は長崎に聞くことも出来ず辞書もないので、翻訳作業はほぼ暗号解読のようなもの。
玄白はこの厳しい現実を「櫂や舵の無い船で大海に乗り出したよう」と回顧。
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