今回は杉田玄白を取り上げるぞ。

解体新書を翻訳した医者ですが、ロクにオランダ語もわからんのに専門書を翻訳なんて、よっぽどの情熱と切羽詰まった事情がないと出来ないだろーが、

その辺のところを江戸時代とオランダ学者大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。もちろん江戸時代の蘭方医にも昔から興味津々。蘭方医の草分け的存在の杉田玄白と解体新書について、5分でわかるようにまとめた。

1-1、杉田玄白は、藩医の家の出身

Sugita Genpaku.jpg
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杉田 玄白(すぎた げんぱく)は、享保18年9月13日(1733年10月20日)、江戸の牛込の小浜藩酒井家下屋敷で誕生。父は若狭国小浜藩医の甫山で生母は八尾氏の娘で、玄白出産時に死亡。

玄白は7歳まで江戸の小浜藩下屋敷で過ごした後に、元文5年(1740年)、一家で小浜の国元へ帰り、父の甫仙が江戸詰めを命じられる延享2年(1745年)、12歳まで国元で育ちました。

玄白は兄が2人いて3男坊、長男は早世、次男は他家へ養子に行ったので家業を継いで医師に。青年期になると医学修行開始、医学は幕府に仕える奥医師の西玄哲に、漢学を本郷にある古学派の儒者宮瀬竜門の塾で学んだということ。

尚、医家としては玄白は3代目、同時代に活躍して間宮海峡に名を残した探検家の間宮林蔵は同族だそう。

1-2、玄白、19歳で医師に

玄白は、宝暦2年(1752年)に小浜藩医となり、上屋敷に勤めるかたわら、宝暦7年(1757年)には江戸日本橋で町医者に。

尚、この年の7月には、江戸で本草学者の田村藍水(らんすい)や平賀源内らが第1回の東都薬品会を開催。出展者には中川淳庵の名も見られ、玄白、源内らを含んだ蘭学者グループの交友はこの頃にはすでに開始されていたよう。

注、江戸時代、医師になるには何の資格も必要なく、下男に薬箱を持たせて歩いただけで医師になれたそうです。玄白は親代々の医師なので、自分で色々と勉強したのですね。

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8将軍吉宗が蘭学を解禁
この頃、自分自身も好奇心が強かった将軍吉宗が、キリスト教に関係のない洋書の輸入を解禁。

吉宗は、青木昆陽と野呂玄丈に蘭語習得を命じ、青木は「和蘭(オランダ)文訳」「和蘭文字略考」といった蘭語の辞書や入門書を、野呂はヨハネス・ヨンストン、レンベルト・ドドエンスの図鑑を抄訳。
この2人は、蘭学の先駆者と呼ばれています。

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長崎を中心に蘭学ブーム、蘭癖大名も
将軍吉宗の解禁後、江戸中期以降に最先端の技術知識として蘭学研究が盛んに。
そして学者たちによる学問的な興味だけではなくて、生活様式や風俗、身なりに至るまで、オランダ式を憧憬し、模倣する者たちが出現、オランダ風の名前を名乗る者まで。

蘭書やオランダの文物は非常に高価だったので、「蘭癖」と称される人物は、学者よりも大商人や大名、上級武士で、蘭癖大名と呼ばれ、自ら蘭学研究を行い、学問の奨励をした殿さまもあらわれました。

代表的な蘭癖大名は、長崎警固を勤めた関係でシーボルトと直接交流のあった福岡藩主の黒田斉清、薩摩藩主島津重豪、重豪の息子たちの奥平昌高、黒田長溥、曾孫の島津斉彬、堀田正睦や出羽久保田藩主佐竹義敦なども。

江戸時代からすでに西洋かぶれとか新しいもの好きで、最先端技術に興味を持つインテリが多くいたわけです。

\次のページで「1-3、山脇東洋の初の人体解剖に刺激を受ける」を解説!/

1-3、山脇東洋の初の人体解剖に刺激を受ける

宝暦4年(1754年)、京都で山脇東洋が、処刑された罪人の腑分け(人体解剖)を実施。国内初の人体解剖は、蘭書の正確性を証明、日本の医学界に波紋を広げ、玄白も五臓六腑説への疑問を抱くきっかけに。

1-4、玄白は、明和2年(1765年)小浜藩の奥医師に

玄白はオランダ医学に興味を持ち、オランダ語を学ぼうとしていました。
そして同年、オランダ商館長一行が江戸参府の際、玄白は平賀源内らと共に、オランダ商館長一行の滞在する長崎屋を訪問。

が、オランダ通詞(通訳)の西善三郎からオランダ語学習の困難さを諭されたために、玄白はオランダ語習得を断念。明和6年(1769年)には父の玄甫が死去したため、玄白は家督と侍医の職を継ぎ、新大橋の小谷藩中屋敷に。

長崎へ行かなくても、オランダ人の江戸参府のときに長崎屋という宿屋へ訪問する手があったのですね。

尚、オランダ語が全くわからずおまけに辞書もないのに専門用語の詰まった原書の翻訳は無理、そしてこの当時の通詞はやはり親代々受け継がれた職業でしたが、日常会話や貿易関係の通訳が主なのに専門書の翻訳を頼むのは無理、それでも玄白らは医学書を翻訳したい、翻訳してしまったというのは、いかにすごい熱意かということかも。

2-1、解体新書の翻訳

First Japanese treatise on Western anatomy.jpg
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玄白の回想録「蘭学事始」によると、明和8年(1771年)、若狭国小浜藩に勤めていた蘭方医で玄白の後輩の中川淳庵がオランダ商館院から借りたオランダ語医学書「ターヘル・アナトミア」を携えて玄白のもとを訪れたということ。

玄白はオランダ語の本文は読めないが、図版の精密な解剖図に驚愕して、藩に相談、購入することに。そして、偶然長崎から同じ医学書を持ち帰った前野良沢、中川淳庵らとともに「千寿骨ヶ原」(現東京都荒川区南千住小塚原刑場跡)で死体の腑分けを行い、解剖図の正確さに感嘆したそう。

その後4年をかけて、玄白、良沢、淳庵らで、「ターヘル・アナトミア」を日本語訳、安永2年(1773年)には翻訳の目処がつき、世間の反応を確かめるために先に「解体約図」を刊行し、安永3年(1774年)に「解体新書」として刊行。解体新書は4巻刊行されており、解体図などの図は、別冊に。

尚、「解体新書」は、友人の桂川甫三(桂川甫周の父)によって10代将軍家治に献上されたということ。

2-2、腑分け、解剖はタブーだった

ヨーロッパの歴史では、かなり昔から外科手術が行われていたようですが、キリスト教的考えから長い間死体解剖は禁止に。日本の場合、宗教でも法律でも禁止はされていなかったようですが、死体解剖は行われず、外科手術は、おできの切開程度のことでした。

ということで、外科の治療法は漢方より蘭方医の評価が高く、骨折や傷の手当てを中心とした治療が多かったが、17世紀中頃には体液病理学、薬も紹介されるようになったそう。

2-3、オランダ語がほとんどわからないまま、見切り発車

最初の頃、玄白と中川淳庵はオランダ語が読めず、少しはオランダ語の知識があった前野良沢も100程度の単語しか知らないために翻訳するには語彙が少なすぎの状態。が、当時40歳前後だった玄白が、「人はいつ死ぬかわからない。私はもう若くないし、あちこち調子も悪い。のんびりやっていたら、草葉の陰(あの世)で翻訳の完成を見ることになる」と、翻訳を強行。

江戸での作業のため、長崎のオランダ語の通詞は長崎に聞くことも出来ず辞書もないので、翻訳作業はほぼ暗号解読のようなもの。

玄白はこの厳しい現実を「櫂や舵の無い船で大海に乗り出したよう」と回顧

\次のページで「2-4、解体新書は1冊の翻訳ではない」を解説!/

2-4、解体新書は1冊の翻訳ではない

「解体新書』は「ターヘル・アナトミア」の翻訳書とされていますが、表紙は「ワルエルダ解剖書」で、「アンブル外科書解体篇」、「カスパル解体書」、「コイテル解体書」「トンミュス解体書」「パルヘイン解体書」「バルシトス解体書」「ブランカール解体書」「ヘスリンキース解体書」「ミスケル解体書」などが参考にされていて、和漢の説も引かれているなど、単純に逐語訳されたのではなく、杉田玄白らの手で再構成されているということ。

また各所に「翼按ずるに」と、玄白による注釈も。

2-5、翻訳の苦労、「フルへへンド」

玄白らは翻訳の途中で「フルへヘンド」という単語がどうしてもわからなかったそう。で、他の書物もその単語を探して調べていくと、「落ち葉を集めると、フルへヘンドになる」と、「顔の中央で、フルへヘンドしている」というのが見つかったので、フルへヘンドは「うず高い」ことじゃないかと推測、そして「鼻」と訳すという具合で、人体の名称などについても、「神経」「軟骨」「動脈」「処女膜」などは造語、今日でも使われています。

尚、「解体新書」には誤訳も多かったために、後に玄白と良沢の弟子でもある大槻玄沢が訳し直し、文政9年(1826年)「重訂 解体新書」を刊行

3-1、解体新書に関わった人たち

玄白ひとりではなく、何人もの蘭学者が関わっていますが、主な人物を挙げてみました。

3-2、前野良沢(まえの りょうたく)

享保8年(1723年)生まれ、豊前国中津藩(現在の大分県中津市)の藩医で蘭学者、後に江戸幕府の幕臣に。1743年(寛保2年)頃、知人にオランダ書物の切れ端を見せられ初めてオランダ語に接したが、「国が異なり言葉が違っても同じ人間だから理解出来ないことはないだろう」と、蘭学を志したそう。蘭学者の草分けの青木昆陽の晩年に師事した後、1769年(明和6年)に藩主の参勤交代で中津に下向し、長崎へ留学。そこで手に入れたのが「ターヘル・アナトミア」。

解体新書に前野良沢の名前がないのはなぜか
「解体新書」には、玄白らのなかで最もオランダ語に精通し、ほとんどを翻訳したはずの前野良沢の名前はなく、後に玄白の回顧録として出版された「蘭学事始」でようやくその業績が知られるように。

なぜ良沢の名が出ていないのかという理由は、完璧主義の良沢は不備な翻訳が多い「解体新書」刊行に反対で、自分の名前が出るのを恥だと思っていたからという説が。良沢は、人の命を扱う医学書は不完全で誤訳の多い状態では出版できないと言い、玄白は、誤訳は多く不完全だが、不正確な知識で治療されている現状では出版することで助かる命もあるはず、というのが双方の言い分だったよう。

また、良沢は幕臣となっていたせいで、蘭学に対する幕府の対応が良くなく、あとで良沢が罪に問われることがないようにという配慮という説も。

\次のページで「3-3、中川淳庵」を解説!/

3-3、中川淳庵

祖父の代から小浜藩の蘭方医を務めた家系で、玄白の後輩。山形藩医の安富寄碩にオランダ語を学び、本草学を田村藍水に学んだほか、1764年(明和元年)平賀源内と共に火浣布、寒暖計を作ったりと、本草学方面へ興味を持ち、宝暦7年(1757年)の田村一門の物産会に参加し、平賀源内発行の「物類品隲」(ぶつるいひんしつ)の校閲も。安永5年(1776年)、博物学者ツンベリーが江戸へ来たとき、医学の他に植物標本作成法についても教えてもらったそう。

「解体新書」以降も前野良沢のもとでオランダ語の学習を続けたせいか、ツンベリーは、淳庵はかなりよくオランダ語を話すと記し、淳庵が商館長イサーク・チチングへ宛てた手紙は流麗な筆記体で書かれているということ。ツンベリーとの交流が「日本旅行記」に登場したので西洋にも名が知られ、寛政5年(1793年)、ロシアから大黒屋光太夫が帰還したとき、光太夫は中川淳庵、桂川甫周の名をロシアで聞いたと証言。

3-4、桂川 甫周(かつらがわ ほしゅう)

明和8年(1771年)、21歳でオランダの医学書「ターヘル・アナトミア」の翻訳に参加。安永5年(1776年)、オランダ商館長の江戸参府に随行したスウェーデンの医学者カール・ツンベルクに、中川淳庵とともに外科術を学んだそう。その後、ツンベルクの著書「日本紀行」によって、甫周の名は淳庵とともに海外にも知られることに。

天明4年(1784年)、34歳の時に「万国図説」を著すなど教育者としても優れていて、幕府設立の医学舘の教官となったほか、享和2年(1802年)「顕微鏡用法」を著して、顕微鏡を医学利用した初めての日本人に。また顕微鏡の使用法を将軍徳川家斉らに教授し、普及に努めたりと蘭方医として業績多数あり。

4-1、玄白、医学塾を開塾

 玄白は、安永5年(1776年)小浜藩中屋敷を出て、近隣の竹本藤兵衛(旗本、500石取)の浜町拝領屋敷で開業医院を。

また、「解体新書」が評判を呼び、弟子が多く集まってきたので私塾を開く必要性が出来たため、「天真楼」という医学塾も開塾。

前野良沢、杉田玄白の弟子である蘭学者大槻玄沢は「天真楼」で学び、後に私塾「芝蘭堂」を創設。この後、江戸時代末期に次々と出来た蘭学塾の草分け的存在に。

尚、玄白は外科が得意で優れていたので、「病客日々月々多く、毎年千人余りも療治」と患者さんも増えたようで、儒学者の柴野栗山は「杉田玄白事は、当時江戸一番の上手にて御座候。是へまかせ置き候へば、少も気遣は無之候」と評判も良かったようです。晩年には小浜藩から加増されて400石の知行も。

4-2、玄白、晩年に「蘭学事始」で回顧

玄白は晩年に、回想録として「蘭学事始」を執筆。文化2年(1805年)、11代将軍徳川家斉に拝謁して良薬を献上。文化4年(1807年)家督を子の伯元に譲って隠居。著書には他にも「形影夜話」ほか多数。 孫の杉田成卿(梅里)は幕府天文方となったということ。

玄白は当時としてもかなり長生きで、元気で長生きするためにしてはいけないことを示す「養生七不可」を残しています。
文化14年(1817年)に83歳で死去。

4-3、「蘭学事始」の出版は明治以後に

Rangakukoto-hajime-1869.jpg
By Wolfgang Michel - Sugita Isai (= Gempaku): Rangakukoto hajime. Edo, 1869, CC0, Link

玄白は、文化11年(1814年)80歳を過ぎたころに「蘭学事始」を執筆し始め、一度体調を崩して中断し大槻玄沢の校訂を経て完成。
最初は「蘭東事始」(らんとうことはじめ)という題名または「和蘭事始」(わらんことはじめ)という題名で、原本は玄白自筆の原稿本とその写本の2冊だけで、原稿本は杉田家の所蔵で、写本は玄沢に贈られたということ。

しかし杉田家の原稿本は、安政2年(1855年)の安政の大地震で失われ、大槻家の写本も散逸し、完全に失われたとされていたが、幕末のころ、幕府蕃書調所教授で洋学者の神田孝平(たかひら)が、湯島の露店で偶然に大槻家の写本を発見。明治2年(1869年)、玄白分家の曽孫で江戸幕府外国奉行翻訳御用雇だった杉田廉卿(れんけい)による校正をへて、福沢諭吉はじめ有志一同が「蘭学事始」(上下2巻)の題名で刊行。その後再発行を重ねて、西洋医学導入期の当事者による貴重な一次史料とされています。

蘭学普及のきっかけになった解体新書の翻訳

玄白らは医学のためにオランダ語が完璧でないのに「解体新書」翻訳を敢行したのですが、結果的には医学に留まらず、その後の日本のインテリが西洋文化を学ぶ下地を作ったというほど、多大な影響を与えました。玄白の「蘭学事始」を発見して刊行した適塾の塾頭で洋学者の福沢諭吉も、先人の苦労に涙をしたそう。

その後、日蘭辞典が作られ、色々な情報が蘭書を通して得られたことを考えると、玄白の偉業なくして明治維新はなかったかも。完璧でなくてもいい、誤訳があってもとにかく出版した玄白は、正しいことをしたのですね。

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日本史歴史江戸時代

「解体新書」を翻訳した「杉田玄白」蘭方医の草分け的人物を歴女がわかりやすく解説

今回は杉田玄白を取り上げるぞ。

解体新書を翻訳した医者ですが、ロクにオランダ語もわからんのに専門書を翻訳なんて、よっぽどの情熱と切羽詰まった事情がないと出来ないだろーが、

その辺のところを江戸時代とオランダ学者大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。もちろん江戸時代の蘭方医にも昔から興味津々。蘭方医の草分け的存在の杉田玄白と解体新書について、5分でわかるようにまとめた。

1-1、杉田玄白は、藩医の家の出身

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杉田 玄白(すぎた げんぱく)は、享保18年9月13日(1733年10月20日)、江戸の牛込の小浜藩酒井家下屋敷で誕生。父は若狭国小浜藩医の甫山で生母は八尾氏の娘で、玄白出産時に死亡。

玄白は7歳まで江戸の小浜藩下屋敷で過ごした後に、元文5年(1740年)、一家で小浜の国元へ帰り、父の甫仙が江戸詰めを命じられる延享2年(1745年)、12歳まで国元で育ちました。

玄白は兄が2人いて3男坊、長男は早世、次男は他家へ養子に行ったので家業を継いで医師に。青年期になると医学修行開始、医学は幕府に仕える奥医師の西玄哲に、漢学を本郷にある古学派の儒者宮瀬竜門の塾で学んだということ。

尚、医家としては玄白は3代目、同時代に活躍して間宮海峡に名を残した探検家の間宮林蔵は同族だそう。

1-2、玄白、19歳で医師に

玄白は、宝暦2年(1752年)に小浜藩医となり、上屋敷に勤めるかたわら、宝暦7年(1757年)には江戸日本橋で町医者に。

尚、この年の7月には、江戸で本草学者の田村藍水(らんすい)や平賀源内らが第1回の東都薬品会を開催。出展者には中川淳庵の名も見られ、玄白、源内らを含んだ蘭学者グループの交友はこの頃にはすでに開始されていたよう。

注、江戸時代、医師になるには何の資格も必要なく、下男に薬箱を持たせて歩いただけで医師になれたそうです。玄白は親代々の医師なので、自分で色々と勉強したのですね。

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8将軍吉宗が蘭学を解禁
この頃、自分自身も好奇心が強かった将軍吉宗が、キリスト教に関係のない洋書の輸入を解禁。

吉宗は、青木昆陽と野呂玄丈に蘭語習得を命じ、青木は「和蘭(オランダ)文訳」「和蘭文字略考」といった蘭語の辞書や入門書を、野呂はヨハネス・ヨンストン、レンベルト・ドドエンスの図鑑を抄訳。
この2人は、蘭学の先駆者と呼ばれています。

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長崎を中心に蘭学ブーム、蘭癖大名も
将軍吉宗の解禁後、江戸中期以降に最先端の技術知識として蘭学研究が盛んに。
そして学者たちによる学問的な興味だけではなくて、生活様式や風俗、身なりに至るまで、オランダ式を憧憬し、模倣する者たちが出現、オランダ風の名前を名乗る者まで。

蘭書やオランダの文物は非常に高価だったので、「蘭癖」と称される人物は、学者よりも大商人や大名、上級武士で、蘭癖大名と呼ばれ、自ら蘭学研究を行い、学問の奨励をした殿さまもあらわれました。

代表的な蘭癖大名は、長崎警固を勤めた関係でシーボルトと直接交流のあった福岡藩主の黒田斉清、薩摩藩主島津重豪、重豪の息子たちの奥平昌高、黒田長溥、曾孫の島津斉彬、堀田正睦や出羽久保田藩主佐竹義敦なども。

江戸時代からすでに西洋かぶれとか新しいもの好きで、最先端技術に興味を持つインテリが多くいたわけです。

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