
解体新書を翻訳した医者ですが、ロクにオランダ語もわからんのに専門書を翻訳なんて、よっぽどの情熱と切羽詰まった事情がないと出来ないだろーが、
その辺のところを江戸時代とオランダ学者大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。
- 1-1、杉田玄白は、藩医の家の出身
- 1-2、玄白、19歳で医師に
- 1-3、山脇東洋の初の人体解剖に刺激を受ける
- 1-4、玄白は、明和2年(1765年)小浜藩の奥医師に
- 2-1、解体新書の翻訳
- 2-2、腑分け、解剖はタブーだった
- 2-3、オランダ語がほとんどわからないまま、見切り発車
- 2-4、解体新書は1冊の翻訳ではない
- 2-5、翻訳の苦労、「フルへへンド」
- 3-1、解体新書に関わった人たち
- 3-2、前野良沢(まえの りょうたく)
- 3-3、中川淳庵
- 3-4、桂川 甫周(かつらがわ ほしゅう)
- 4-1、玄白、医学塾を開塾
- 4-2、玄白、晩年に「蘭学事始」で回顧
- 4-3、「蘭学事始」の出版は明治以後に
- 蘭学普及のきっかけになった解体新書の翻訳
この記事の目次

ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。もちろん江戸時代の蘭方医にも昔から興味津々。蘭方医の草分け的存在の杉田玄白と解体新書について、5分でわかるようにまとめた。
1-1、杉田玄白は、藩医の家の出身
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杉田 玄白(すぎた げんぱく)は、享保18年9月13日(1733年10月20日)、江戸の牛込の小浜藩酒井家下屋敷で誕生。父は若狭国小浜藩医の甫山で生母は八尾氏の娘で、玄白出産時に死亡。
玄白は7歳まで江戸の小浜藩下屋敷で過ごした後に、元文5年(1740年)、一家で小浜の国元へ帰り、父の甫仙が江戸詰めを命じられる延享2年(1745年)、12歳まで国元で育ちました。
玄白は兄が2人いて3男坊、長男は早世、次男は他家へ養子に行ったので家業を継いで医師に。青年期になると医学修行開始、医学は幕府に仕える奥医師の西玄哲に、漢学を本郷にある古学派の儒者宮瀬竜門の塾で学んだということ。
尚、医家としては玄白は3代目、同時代に活躍して間宮海峡に名を残した探検家の間宮林蔵は同族だそう。
1-2、玄白、19歳で医師に
玄白は、宝暦2年(1752年)に小浜藩医となり、上屋敷に勤めるかたわら、宝暦7年(1757年)には江戸日本橋で町医者に。
尚、この年の7月には、江戸で本草学者の田村藍水(らんすい)や平賀源内らが第1回の東都薬品会を開催。出展者には中川淳庵の名も見られ、玄白、源内らを含んだ蘭学者グループの交友はこの頃にはすでに開始されていたよう。
注、江戸時代、医師になるには何の資格も必要なく、下男に薬箱を持たせて歩いただけで医師になれたそうです。玄白は親代々の医師なので、自分で色々と勉強したのですね。

8将軍吉宗が蘭学を解禁
この頃、自分自身も好奇心が強かった将軍吉宗が、キリスト教に関係のない洋書の輸入を解禁。
吉宗は、青木昆陽と野呂玄丈に蘭語習得を命じ、青木は「和蘭(オランダ)文訳」「和蘭文字略考」といった蘭語の辞書や入門書を、野呂はヨハネス・ヨンストン、レンベルト・ドドエンスの図鑑を抄訳。
この2人は、蘭学の先駆者と呼ばれています。

長崎を中心に蘭学ブーム、蘭癖大名も
将軍吉宗の解禁後、江戸中期以降に最先端の技術知識として蘭学研究が盛んに。
そして学者たちによる学問的な興味だけではなくて、生活様式や風俗、身なりに至るまで、オランダ式を憧憬し、模倣する者たちが出現、オランダ風の名前を名乗る者まで。
蘭書やオランダの文物は非常に高価だったので、「蘭癖」と称される人物は、学者よりも大商人や大名、上級武士で、蘭癖大名と呼ばれ、自ら蘭学研究を行い、学問の奨励をした殿さまもあらわれました。
代表的な蘭癖大名は、長崎警固を勤めた関係でシーボルトと直接交流のあった福岡藩主の黒田斉清、薩摩藩主島津重豪、重豪の息子たちの奥平昌高、黒田長溥、曾孫の島津斉彬、堀田正睦や出羽久保田藩主佐竹義敦なども。
江戸時代からすでに西洋かぶれとか新しいもの好きで、最先端技術に興味を持つインテリが多くいたわけです。
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