今回は節度使の略史について、歴史オタクなライターkeiと一緒に見ていきます。
ライター/kei
10歳で歴史の面白さに目覚めて以来、高校は文系、大学受験では歴史を選択し、大人になっても暇があれば歴史ネタを調べ歴史ゲームにのめり込む軽度の歴史オタク。洋の東西問わず、中でも中国史と日本史が好き。今回は中国大陸の有力者・節度使をわかりやすくまとめた。
節度使はどのように出来たのか?
節度使は、唐王朝(西暦618年~907年)において、都護府に代わって設置された地方軍閥・藩鎮の長です。その設立の経緯はどのようなものだったのでしょうか。
異民族統治の役所であった都護府
都護府は、唐の進めた羈縻政策(きびせいさく)の実行機関として、辺境に設置された行政機関でした。羈縻政策とは、夷狄ら漢人以外の周辺異民族たちを漢人が直接統治するのではなく、王や侯などの呼称を与えて漢人官僚を派遣せず間接的に統治する、というスタイルです。
武周朝における羈縻政策の考え方
唐は、第2代皇帝・太宗・李世民から始まる対外積極策により領土を拡張していきますが、長続きはしませんでした。次代・高宗の時代から徐々に、朝鮮半島や満州などの現地民族の抵抗が激しい領域からは手を引くなど、自国の国力に応じた外交/軍事の政策を展開。
その考え方の根本となるのが羈縻政策ですが、則天武后が皇帝であった武周朝において、宰相の狄仁傑が国境防衛に関して以下のように述べています。
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天は四つの異民族を、領土外に生みました。東は大海に拒まれ、西は流沙に阻まれ、北には砂漠が横たわり、南は険しい山々で阻まれています。これは、天が夷狄を中華から隔てたのです。古典を紐解いても、漢人の優れた文化が伝わらず、中華王朝の統治も続かなかった場所ですのに、今、わが国はこれを悉く支配下に置いています。
武力を国外に用いるのは、国の財政を空にして不毛の地を争っているに他なりません。その人民を得ても税は増えませんし、その土地を得ても耕作も養蚕も出来ません。遠方の異民族までが我らの下僕となったと言う虚名を求めるため、国の大本を固めることや人民を安んじることを蔑ろにするのでは、これは秦の始皇帝や漢の武帝の所業であり、聖人君子の事業ではありません。
そのため臣は、提案致します。モンゴルの族長に王位を与え、高句麗を復活させて遼東を任せましょう。異民族が叛いたら討伐し、降伏したら慰撫すると言う、理に適った行いをすれば良いのです。辺境警備の兵達には、ただ遠方まで斥候を出して、武器兵糧を蓄えて敵の来襲を待ってから撃退すれば良いのです。防備を固くして国境を焼き払えば、敵は兵糧の略奪が出来ません。自然、賊はわが国へ深く侵入すれば全滅の危険が伴い、浅く侵略したら何も得られなくなるではありませんか。このようにして数年経てば、攻撃しなくても向こうの方から降伏してくるでしょう。
狄仁傑が述べたこの国防/外交方針は、中華思想に基づいたものでもありますね。
唐の実力者・節度使
しかし、都護府による国境防衛は永続しませんでした。突厥やウイグル、吐蕃など、唐の隣国として強国が出現して度々侵入を受け始め、懐柔するだけでは立ち行かなくなっていました。そこで、軍権も行政権も兼ね備えた万能の役所を設置。これが藩鎮であり、その長が節度使と呼ばれました。
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