今回は平賀源内を取り上げるぞ。

エレキテルで有名ですが、土用にうなぎを食べる習慣を定着させたとか、戯曲も書いたとか、そんなアイデア豊富な天才が江戸時代にいたなんて、ほんとかよって思うよな。

その辺のところを江戸時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。もちろん江戸時代の天才にも昔から興味津々。びっくりするような多才な平賀源内について、5分でわかるようにまとめた。

1-1、平賀源内は高松藩の出身

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平賀源内は、享保13年(1728年)に讃岐国寒川郡志度浦(現在の香川県さぬき市志度)で白石家の3男として誕生。父は白石茂左衛門良房、母は山下氏で兄弟が多数。
父は高松藩の足軽身分だったということ。

1-2、やたらと名前が多い人

源内は白石家の出身ですが、浪人して家を離れたこともあったせいか、先祖の名前である平賀姓に。
また源内は通称で、元内とも(江戸時代は意外と固有名詞の漢字に拘らないところが)。諱は国倫(くにとも)、字は子彝(しい)。他にも画家としての画号は、鳩渓(きゅうけい)、俳諧人としての俳号は李山(りざん)、戯作者としての名は風来山人(ふうらいさん じん)、浄瑠璃作者としては、福内鬼外(ふくうち きがい)、殖産事業家として、天竺浪人(てんじくろうにん)、生活に窮して細工物を作り売りした頃には貧家銭内(ひんか ぜにない)と冗談にしてもひどい別名も。

要するに専門分野によってペンネームを使い分けていたんですが、ここでは源内で統一。

1-3、子供の頃は天狗小僧と呼ばれた神童

源内は、子供の頃に掛け軸に細工をして「お神酒天神」を作成
これは掛け軸の裏に赤紙を隠しておき、紐を引っ張ると天神様の顔に赤紙が降りて来て、いかにもお酒を飲んで天神様の顔が赤くなるような単純な仕掛け。

しかしこの掛け軸が大評判で藩主の耳に届いたほどで、お目見え以下の足軽の出身ながら13歳から藩医の元で本草学、そして儒学を学んだそう。また、俳諧グループに属して俳諧なども。寛延元年(1748年)20歳のときに父の死で後を継いで藩の蔵番に。

1-4、源内、まず本草学で名を挙げる

源内は藩公から薬草園の管理を任せられ、高価な薬になる朝鮮人参の栽培の研究を命じられて、25歳のときに成功。本草学に詳しかった殿様の松平頼恭も喜んだということ。また27歳のとき、高松藩の重臣の要請で磁針器(方位磁石)の製作も。
そして宝暦2年(1752年)頃、藩から1年間長崎へ遊学させてもらい、本草学とオランダ語、医学、油絵などを学んだが、留学の後に藩の役目を辞して妹に婿養子をもらって、自分は白石家の家督を放棄。

その後、大坂、京都に遊学、さらに宝暦6年(1756年)に江戸に出て本草学者田村藍水(らんすい)に弟子入りして本草学を研究、そのうえに漢学習得のために林家にも入門、湯島聖堂に寄宿。

\次のページで「1-5、東都薬品会を開催」を解説!/

本草学
ほんぞうがくとは、中国の薬物学のことで、薬用植物、動物、鉱物の形態や産地や効能などを研究する学問です。日本では江戸時代が全盛期、中国の本草書の翻訳や解釈だけでなく、日本に自生する植物、動物などの研究にまで発展。

1-5、東都薬品会を開催

これは本草学に関する物品を持ち寄って行う物産展、展覧会で、もとは本草学の本の会読程度の集まりだったのを、実際のものを持ち寄るように発展させたものだということ。

第1回の開催は宝暦7年(1757年)で、会主は田村藍水が務め、弟子の源内が取り仕切ったが、第3回からは源内が会主となり、より盛況に

また、日本にありがちのことですが、本草学も、江戸を中心とする実地派、京都を中心とする文献派の流派に分かれていて、交換会も一門の枠にはまるもので規模も小さかったのですが、源内は、流派の枠を超えて全国に物産を求め、参加も自由にしたということ。

1-6、輸入品でなく、国産開発を目指した源内

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By Momotarou2012 - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, Link

源内は、日本全国から多くの物産を集めることで、外国産の高価な輸入品に頼らず国産の代用品を入手し国を豊かにという考えを持っていたということ。
なので、東部薬品会では、全国各地から珍しいもの、より多くの物産を集めるために、引札今でいうチラシを全国に配布し、18国25ケ所に物品取次所を開設。地方の物品は江戸へ運賃着払いで送れるようにして、早期の返還を確約したなどのおかげで、従来の約倍になる1300余りの物産が集結。

宝暦12年(1762年)の第5回「東都薬品会」はかなり規模が大きくなって江戸の湯島で開催、江戸においての源内の知名度も上がり、蘭学医の杉田玄白や中川淳庵らと交友も

宝暦13年(1763年)には、東部薬品会の研究成果を収めた「物類品隲(しつ)」全6巻を発刊、本草家としての名声を高め、時の老中田沼意次にも知られるように。

1-7、源内、再度高松藩に復帰も辞職して自由に

江戸での源内主宰の東都薬品会の評判を聞いた頼恭は、宝暦9年(1759年)源内を再度召し抱え待遇も引き上げて薬坊主格に昇格、相模湾から紀州海岸で貝の採集を命じたのですが、本草学者として名を成した源内は、宝暦11年(1761年)、藩の許可なく国内を自由に行き来できないことを不満に思い33歳のときに脱藩。
藩からは「仕官御構」(奉公構)に。

多才な源内を本草学や藩の枠に押し込めるのは無理ですよね。

源内の殿様
正徳元年5月20日(1711年7月5日)生まれの高松藩の殿様松平頼恭(よりたか)は、水戸徳川家の分家ですが、赤字に悩む藩の財政を立て直した中興の祖と言われる人。熊本藩主の細川重賢と並ぶ初期の博物大名の一人といわれ、本草学に詳しく、参勤交代の途中で大坂に立ち寄ったとき、源内に薬草を探させるために滞在期間を伸ばして参勤費用がかさんだという話も。

源内は、頼恭の命令で「衆鱗図」「衆禽画譜」「衆芳画譜」などを編集、これは驚くほど写実的な絵で内容も豊かな図鑑として今に伝わっています
しかし頼恭は、源内が老中の田沼意次に召し出されると知ったときは激怒して、全大名あてに源内を召し抱えるなという内容の奉公構いを通達したほど。

奉公構(ほうこうかまい)とは
安土桃山時代から江戸時代にかけて大名が、罪を犯して改易されたり、主人の不興を買って自分勝手に出奔した家臣に対して他の大名家が召し抱えないように通達すること。家臣の後藤又兵衛基次に対して大名の黒田長政が出した奉公構、家臣の稲富一夢に対して大名も細川忠興が出した奉公構などが有名。

\次のページで「2-1、源内、本草学から発展した発見、研究を続々と」を解説!/

2-1、源内、本草学から発展した発見、研究を続々と

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源内は、「天竺浪人」と名乗り、2回目の長崎遊学でオランダ博物学に関心をもち洋書の入手に専念。しかし源内はオランダ語学が読めなかったので、オランダ通詞に読み分けさせて読解。

そして鉱山の採掘や精錬の技術を学んだ後、宝暦11年(1761年)には伊豆で、漢方の下剤や利尿剤として用いられていた芒消(硫酸ナトリウム)の鉱床を発見、しかし産業として成り立たせるまでにはいたらず。

その後、明和3年(1766年)36歳のときには、秋田秩父で鉱山を開発、木炭の運送事業を。また羊を飼育して毛織物を生産したり、輸出用の陶器を製作、珍石、奇石のブローカーなど、様々な事業を。

武蔵川越藩の秋元凉朝の依頼で奥秩父の川越藩秩父大滝(現在の秩父市大滝)の中津川で鉱山開発を行い、石綿を発見して燃えない布「火浣布(かかんぷ)」を作ったり、万歩計、寒暖計、磁針器、その他100種にも及ぶ発明を。
安永2年(1773年)には出羽秋田藩の佐竹義敦に招かれて鉱山開発の指導をしたそう。

また、初詣での縁起物の破魔矢の考案も源内だということ。

2-2、源内、エレキテルを独学で修理

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By Momotarou2012 - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, Link

エレキテルというのは静電気発生装置のことで、当時、ヨーロッパでは見世物とか治療に使われていたということ。

入手経路は不明ですが、源内は、安永5年(1776年)長崎から入ってきたと思しき壊れたエレキテルの木箱を入手、まだ電気の原理もわからない時代に源内は独自に研究を重ね、試行錯誤の末、48歳のときに7年かかってエレキテル修復に成功、静電気を発生させ、貴人や大商人、武家などを相手に実演。青い火花が散りビリビリする謎の箱に人々は興味津々、大評判となって、一躍、時の人に。

しかしこのエレキテルは弱くて治療に使うほどではなく、実用化されず。

源内はアイデア豊富で発明品も多いのですが、実用化や大量生産などの製品化までひとりで行うのは無理、本人も天才気質にありがちな、興味が出たと思えばすぐ飽きたりと、次から次へと色々なことに手を出していくので、源内に対する世間の評判は変わり者の山師ということに。

2-3、源内の最期

源内は、ありあまる才能を持っていたのに、自分が思っているほど世間では受け入れられていないと感じたせいで、晩年には世間に対して冷笑的な態度を取り、封建社会をこきおろす作品を発表したり、幕府行政の様々な矛盾を痛烈に批判したりしたそう。

そして安永8年(1779年)夏、源内は大名屋敷の修理を請け負った際、酔っぱらっていたせいで修理計画書を盗まれたと勘違い、大工の棟梁2人を殺傷する事件を起こし、11月21日に投獄、12月18日に52歳で獄死。獄中で自殺を図った源内の死因は破傷風。

2-4、異説

杉田玄白らの手で源内の葬儀が行われたのですが、幕府の許可が下りずに遺体がないままの葬儀になったせいか、大工の秋田屋九五郎を殺したが逃げのびたとか、書類上は死亡となっているが、じつは田沼意次、または故郷高松藩の庇護下で天寿を全うしたなど、諸説が。

3-1、まだまだ色々な才能が

A Portrait of Kyūkei Hiraga cropped.jpg
By 木村黙老 / Momuō Kimura - http://www.mita.lib.keio.ac.jp/archives/rarebook/abstracts/rare079 http://www.mita.lib.keio.ac.jp/archives/rare_img/079.jpg, パブリック・ドメイン, Link

源内は、本草学などの他にも、色々な分野で名前を残しています。

3-2、土用のうなぎ

今では、夏の土用にうなぎは定番ですが、江戸時代、うなぎは産卵期の前の秋から冬が旬で脂がのって美味しいとされていて、夏の暑い時期には売れなかったということ。
なので、うなぎ屋さんが源内に、夏でもうなぎを食べてもらうにはどうすればいいか、と知恵を拝借。源内は、丑の日は「う」のつく食べ物を食べると縁起が良いと宣伝せよとアドバイス。こうしてうなぎ屋さんは大繁盛、土用の丑の日にうなぎを食べる習慣が定着。

その他にも源内は明和6年(1769年)に、歯磨き粉「漱石膏」のwp_の作詞作曲を手がけたり、安永4年(1775)音羽屋多吉の清水餅の宣伝文句を考えて報酬を得たなどで、元祖コピーライターでもあるということ。

\次のページで「3-3、文人として」を解説!/

3-3、文人として

源内は福内鬼外のペンネームで浄瑠璃を執筆、「神霊矢口渡(やぐちのわたし)」など現代でも歌舞伎化されて上演されているということで、時代物が多く、ほとんどの作品は五段形式や多段形式になっていて世話物の要素が加わっているということ。

また、江戸で狂歌が流行したきっかけの「寝惚先生文集」太田南畝著に序文を。

風来山人のペンネームで執筆した、「根南志具佐(ねなしぐさ)」「風流志道軒伝(ふうりゅうしどうけんでん)」は明治期まで重版されたほど。傑作として名高い「長枕褥合戦」や「萎陰隠逸伝」などの春本(エッチな本)を執筆。衆道(ゲイ)関連の著作は水虎山人で、1764年(明和元年)に「菊の園」、安永4年(1775年)に「男色細見」の陰間茶屋案内書、「放屁(ほうひ)論」という大真面目なおならの本も。源内は男色家だったので妻帯せずに歌舞伎役者らを贔屓にし、2代目瀬川菊之丞(瀬川路考)との仲は有名だそう。

そして文章の「起承転結」を説明する際に使われた、「京都三条糸屋の娘 姉は十八妹は十五 諸国大名弓矢で殺す 糸屋の娘は目で殺す 」は源内が作者との説も。

3-4、画家として

源内は油絵の手法を習得し、日本初の洋風画「西洋婦人図」を残しています。
そして司馬江漢、小田野直武(「解体新書」の挿絵画家)らに西洋画法を教え、秋田蘭画のもとになったということ。

また、鈴木春信と共に浮世絵の発展に貢献する絵暦交換会を開催。なんと源内が編み出した浮世絵の多色刷りの技法のおかげで、カラフルな浮世絵が誕生したそう。

3-5、陶器も製作

源内は西洋に輸出目的か、西洋風の陶器も製作し、源内焼きと命名。43才のとき、陶芸の技法をまとめた「陶器工夫書」を記して、故郷高松に自分の焼き物に関する技術を伝えたということ。

3-6、蘭学医杉田玄白と親友だった

杉田玄白は、「解体新書」ターヘル・アナトミアを翻訳したことで有名ですが、当時の蘭学者の間でも源内は広く知られていたということで、玄白の回想録の「蘭学事始」には、源内との対話に一章が。

また源内の墓碑を記したのも玄白。「嗟非常人、好非常事、行是非常、何死非常」(ああ非常の人、非常のことを好み、行いこれ非常、何ぞ非常に死するや)というもので、親友の源内の才能を認め、死を惜しんだことが伝わってきます。

生まれてくるのが早すぎた天才

平賀源内は、現代から見ると恐るべき才能の持ち主で、アイデアも豊富で実に様々なものを発明、しかも文才もあったのに、それが富や名声には結びつかず晩年不遇に亡くなるという、はやく生まれ過ぎた天才にありがちな一生なのが残念。時代が彼に付いて行けなかったのでしょう。源内が今の時代に生まれていれば、思い切り才能を発揮して時代の寵児となり億万長者としてウハウハだったかもしれませんね。

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今回は平賀源内を取り上げるぞ。

エレキテルで有名ですが、土用にうなぎを食べる習慣を定着させたとか、戯曲も書いたとか、そんなアイデア豊富な天才が江戸時代にいたなんて、ほんとかよって思うよな。

その辺のところを江戸時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。もちろん江戸時代の天才にも昔から興味津々。びっくりするような多才な平賀源内について、5分でわかるようにまとめた。

1-1、平賀源内は高松藩の出身

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平賀源内は、享保13年(1728年)に讃岐国寒川郡志度浦(現在の香川県さぬき市志度)で白石家の3男として誕生。父は白石茂左衛門良房、母は山下氏で兄弟が多数。
父は高松藩の足軽身分だったということ。

1-2、やたらと名前が多い人

源内は白石家の出身ですが、浪人して家を離れたこともあったせいか、先祖の名前である平賀姓に。
また源内は通称で、元内とも(江戸時代は意外と固有名詞の漢字に拘らないところが)。諱は国倫(くにとも)、字は子彝(しい)。他にも画家としての画号は、鳩渓(きゅうけい)、俳諧人としての俳号は李山(りざん)、戯作者としての名は風来山人(ふうらいさん じん)、浄瑠璃作者としては、福内鬼外(ふくうち きがい)、殖産事業家として、天竺浪人(てんじくろうにん)、生活に窮して細工物を作り売りした頃には貧家銭内(ひんか ぜにない)と冗談にしてもひどい別名も。

要するに専門分野によってペンネームを使い分けていたんですが、ここでは源内で統一。

1-3、子供の頃は天狗小僧と呼ばれた神童

源内は、子供の頃に掛け軸に細工をして「お神酒天神」を作成
これは掛け軸の裏に赤紙を隠しておき、紐を引っ張ると天神様の顔に赤紙が降りて来て、いかにもお酒を飲んで天神様の顔が赤くなるような単純な仕掛け。

しかしこの掛け軸が大評判で藩主の耳に届いたほどで、お目見え以下の足軽の出身ながら13歳から藩医の元で本草学、そして儒学を学んだそう。また、俳諧グループに属して俳諧なども。寛延元年(1748年)20歳のときに父の死で後を継いで藩の蔵番に。

1-4、源内、まず本草学で名を挙げる

源内は藩公から薬草園の管理を任せられ、高価な薬になる朝鮮人参の栽培の研究を命じられて、25歳のときに成功。本草学に詳しかった殿様の松平頼恭も喜んだということ。また27歳のとき、高松藩の重臣の要請で磁針器(方位磁石)の製作も。
そして宝暦2年(1752年)頃、藩から1年間長崎へ遊学させてもらい、本草学とオランダ語、医学、油絵などを学んだが、留学の後に藩の役目を辞して妹に婿養子をもらって、自分は白石家の家督を放棄。

その後、大坂、京都に遊学、さらに宝暦6年(1756年)に江戸に出て本草学者田村藍水(らんすい)に弟子入りして本草学を研究、そのうえに漢学習得のために林家にも入門、湯島聖堂に寄宿。

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