今回は織田信長の家臣、滝川一益を紹介します。

えっクリステルとはどう言った関係?さすがにそれは無関係だと思うぞ(汗)一益は織田四天王と呼ばれた四人の一人でもあるんですが、清洲会議に出遅れて以降、下り坂の人生を歩んでいるんですね。

信長の元でバリバリ働いていた一益にいったい何があったのか、ライターすのうと一緒に学習していこう。

ライター/すのう

大河ドラマにはまり、特に戦国時代の武将に興味津々なライター。有名、無名を問わず気になる武将は納得いくまで調べ尽くす性格。滝川一益は織田信長の家臣の中では、あまり目立った印象はないが、鉄砲の腕前はピカ一だったとか。そんな地味な猛将滝川一益について解説していく。

滝川一益の出自は不明とされる

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By 栗原信充(?-1870) - 国立国会図書館デジタルコレクション, パブリック・ドメイン, Link

滝川一益(たきがわかずます/いちます)は、大永5年(1525年)滝川一勝又は滝川 資清の子として誕生。この二人が同一人物とする説もあるようです。名前の読み方としては、かずますともいちますとも呼ばれています。一益の出自は不明であり、一勝が甲賀出身だったことから忍者では?なんて説もあり、様々な憶測が飛び交っているのも事実。若い頃は博打好きで家を追い出され、放浪していた過去もあったとか。堅物のイメージがする一益ですが、中々やんちゃな青年期を送っていたようですね。

鉄砲の腕前を買われて、織田信長の家臣となる

image by PIXTA / 15310938

一益は若い頃博打が好きで、同族を殺めた罪により国を追われ、放浪の身となりました。信長に仕官前の経歴は良く分かっていません。父の一勝が甲賀出身であったことから六角氏に仕えた忍者説。池田恒興とは同族。北伊勢に所領をたくさん持っていたので伊勢国の生まれ?九鬼水軍で有名な、志摩国の武将、九鬼嘉隆を信長に仲介したとして志摩国(現在の三重県)の出身等々、様々な説が存在しています。

一益は若い頃、堺で鉄砲の技術を身につけており、その腕前はかなりのものだったとか。信長に仕官する際、100発100中に近い命中率を見せ、その才能を買われた一益は信長の家臣となります。身分など問わず、実力さえあれば雇用する、それが「織田信長」と言う人物でした。織田家臣としては新参者であった一益ですが、後に信長の下でめきめきと実力を発揮していきます。

織田信長の伊勢侵攻で活躍

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By 不明 - 伊勢吉田文庫所蔵, パブリック・ドメイン, Link

北伊勢八郡を手中に収めた信長は、永禄12年(1569年)5月、南伊勢侵攻を開始します。南伊勢を支配する北畠氏の当主は北畠具房(きたばたけともふさ)。しかし、実権を握っていたのは隠居していた具房の父である、北畠具教(きたばたけとものり)でした。一益は、具教の家臣、源浄院主玄(後の滝川雄利/たきがわかつとし)と柘植 保重(つげ やすしげ)を調略。織田の家臣となった雄利と保重は、具教の弟・木造具政(こづくりのりまさ)を織田に寝返らせます。

同年8月、信長は7万の大軍で岐阜を出発。具教は1万6千の兵を大河内城と支城に分散させ自身は8千の兵と共に籠城。大河内城を包囲した信長は、一益に命じて多芸城(多気城)を焼き討ちし、住民を大河内城に追い込み兵糧攻めを開始。籠城戦は2カ月の長期戦となりました。そして10月、降伏した北畠氏と織田が和睦したことで戦いは終結します。信長が具教に出した和睦の条件は、「信長の次男・織田信雄(当時は茶筅丸)を具房の養子とし、具教の娘雪姫と結婚させる事」こうして南伊勢を支配した信長は、天下統一に向け益々勢力を拡大していきました。

水軍としても活躍

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By ブレイズマン - ブレイズマン, パブリック・ドメイン, Link

伊勢侵攻で武功を挙げた一益は、信長より「退くも滝川、進むも滝川」と讃えられます。要約すると、「攻める時も退く時も滝川に任せていれば大丈夫」と言う意味の褒め言葉のようです。元亀元年(1570年)信長と顕如(けんにょ/浄土真宗本願寺派第11世宗主)との間で石山合戦が勃発。これに伴い本願寺の門徒が奮起し、長島一向一揆が起こります。第一次長島合戦では、数万に及ぶ一揆衆が長島城(現在の三重県桑名市)を落とし、織田信興(おだのぶおき/織田信長の弟)が守る古木江城(こきえじょう/現在の愛知県愛西市)を攻め、信興は自害。

さらに桑名城(現在の三重県桑名市)を守っていた一益は敗走してしまいます。翌年の第二次長島合戦では、一益は柴田勝家と片岡掃部が守る坂井城を降伏させました。天正2年(1574年)、三度目の長島合戦に派遣された織田軍は8万人。一益は、志摩国の九鬼嘉隆(くきよしたか)と共に水軍からの攻撃を任され、海上から射撃を行い織田軍を援護。この時の活躍により一益は、長島城と北伊勢8郡中、5郡を与えられました。

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武田勝頼を自害に追い込む

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By 不明 - 高野山持明院蔵, パブリック・ドメイン, Link

天正3年(1575年)、一益は長篠の戦いで鉄砲隊の総指揮を任されます。長篠の戦いと言えば、信長が火縄銃の三段撃ちを実践したとして有名ですが、「信長公記」にも記載されていないことから、創作疑惑も浮上しているようです。三段撃ちが実践されなかったにしろ、鉄砲隊の指揮を一益が務めたと言うことは、その腕前を買われてのことだったのでしょう。天正10年(1582年)信長による甲州征伐が始まると、一益は信長の嫡男、織田信忠の補佐役に抜擢されます。

武田勝頼は直前に家臣の小山田信茂の裏切りに合い天目山棲雲寺(てんもくざんせいうんじ)に向かう途中、一益らの隊に捕捉され自害。この功績により、一益は上野国(現在の群馬県)と信濃国の小県郡と佐久郡(現在の長野県)を与えられました。しかし、茶の湯を趣味としていた一益は、領土よりも信長が所望する珠光小茄子(じゅこうなすび)を欲しがったと言われています。一益にとっては、領土よりも茶器の方が魅力的だったのでしょうね。

「関東御取次役」の大役を任される

上野一国と信濃国の小県郡と佐久郡を与えられた一益は、「関東御取次役」と「関東八州の御警固」を任されます。これは関東管領に匹敵する大役でした。関東の大名たちは一益の元へ次々と服従してきます。当時57歳の一益は、この時代ではかなりのご年配。ところが、信長はそんなことはおかまいなし。まだまだ使えると一益には期待していたのでしょう。

上野国の箕輪城(みのわじょう)に入城する際に、葡萄鹿毛(えびかげ)の名馬と短刀を下賜して、「この馬に乗り入国するがよい」と粋な計らいをしたそうですよ。まぁ、一益がこの名馬に乗ったのかは謎ですが。蓑輪城に入った一益はその後、厩橋城(まやばしじょう)に居城を移しました。こうして大出世を果たした一益に転機が訪れます。天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変で信長が明智光秀に討たれ自刃。一益がこの知らせを聞いたのは、事件発生から5日後のことでした。

関東御取次役の主な仕事とは
その1・関東の小大名たちを信長の元に従わせること。
その2・北条氏との外交に務め、さらに服従させること。
その3・伊達・蘆名氏などの奥羽の大名も従わせること。

神流川の戦いで敗走、清洲会議にも出遅れる

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本能寺の変の一報を聞いた一益は、織田信雄・信孝兄弟を守り、明智光秀と一戦構えるため京へと進軍を開始します。北条氏政は、一益に協調関係を続けることを示唆していましたが、この時すでに上野攻めを決意していたようです。6月16日、北条氏邦を先鋒に5万6千の兵で上州倉賀野へ侵攻。一益は、1万8千の兵を率いて軍配山古墳(ぐんばいやまこふん)に布陣しました。前哨戦は一益が氏邦の先鋒隊を討ち、金窪城を攻め落とし勝利します。

しかし6月19日、北条氏直本隊が援軍として到着。連日の疲れもあった一益は、北条の挟撃戦法に苦戦し、厩橋城に退却しました。6月20日、蓑輪城に家臣を集めた一益は別れの宴を開きます。太刀・長刀・金銀などを家臣に分け与え、伊勢・長島城に撤退を決めた一益は、蓑輪城を出発。しかし、神流川の戦いで足止めされた一益は、6月27日に開かれた織田家の後継者を決める「清洲会議」には間に合いませんでした。

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織田家臣として、一益の地位が急降下

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清洲会議に参加することが出来なかった一益の地位は一気に下降していきます。秀吉は織田信忠の嫡男「三法師」柴田勝家は信長の三男「織田信孝」をそれぞれ推薦。秀吉が推薦した三法師に後継者が決定すると、秀吉と勝家は対立を深めていきました。織田信長の法要の際には、秀吉に門前払いされ、元々秀吉とは馬が合わなかった一益は勝家に味方します。

天正11年(1583年)、羽柴秀吉対柴田勝家による、織田家の後継者争い賤ヶ岳の戦いへと発展。結果、秀吉軍が勝利したことで勝家と妻お市の方・信孝が自害。一益はその後1カ月に渡り長島城に篭城しますが、力尽き降伏。所領を全て没収された一益は、京都妙心寺で剃髪し出家します。その後、丹羽長秀を頼り越前の大野に蟄居しました。信長が存命していたころは、関東御取次の大役を任されていた一益も、本能寺の変で信長が亡くなったことにより地位も名誉も失ってしまったのです。

小牧長久手の戦いで、秀吉に呼び戻される

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天正12年(1584年)、秀吉と敵対していた織田信雄が徳川家康と手を組み挙兵。小牧長久手の戦いが勃発します。秀吉から3千石で出仕を求められた一益は、60近い年齢になっていました。佐久間正勝(佐久間 信栄/さくまのぶひで)の居城、蟹江城を落とし武功を挙げた一益は、信雄側に付いていた水軍仲間の九鬼嘉隆らの調略に成功。

蟹江城に篭城した一益でしたが、酒井忠次・織田信雄・服部正成(服部半蔵)らに三方から攻め込まれ、降伏の起請文を書き徳川家康と織田信雄に提出。蟹江城は家康と信雄に占拠されました。この降伏に怒った秀吉は、一益の嫡男滝川一忠に責任を取らせ追放。家督は次男の滝川一時が継承し1万2千石を与えられます一益は再び越前・大野に蟄居。天正14年(1586年)、62歳でこの世を去りました。

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新参者から大きく飛躍した滝川一益

織田信長の家臣となり、ハイスピードで出世していった滝川一益。信長古参の家臣としては、多くの武功を挙げ、鉄砲技術・水軍・調略など幅広い分野で活躍しています。関東御取次の大役を任され、「これから」と言う時に起こった本能寺の変。信長の死が一益の運命を変えることになってしまいました。

一益なら当然清洲会議のメンバーに入れる実力も持ち合わせています。重要な会議に間に合わなかったことが、転落の人生に繋がってしまうとは残念ですね。しかし、60近い晩年になっても、戦で武功を挙げた一益の武勇には驚きです。そんな武勇を持つ反面、領地より茶器を欲しがっだと言う無類の茶の湯好き。一益自身は早く隠居して、大好きな茶の湯を楽しみたかったようですが、周囲がほっといてはくれなかったのでしょう。

一益と言うと段田安則さんのイメージが強く、大河ドラマに出ていた役者さんを想像してしまいます。織田四天王の一人でもあり、信長に貢献した一益。他の信長家臣の中では、あまり目立った存在ではありませんが、桶狭間の戦いから甲州征伐までの間に活躍して挙げた功績は、ナンバーワンと言えるのではないでしょうか。

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安土桃山時代室町時代戦国時代日本史歴史

織田四天王の一人「滝川一益」清州会議が運命を左右した?そんな勇将を歴女がわかりやすく解説

今回は織田信長の家臣、滝川一益を紹介します。

えっクリステルとはどう言った関係?さすがにそれは無関係だと思うぞ(汗)一益は織田四天王と呼ばれた四人の一人でもあるんですが、清洲会議に出遅れて以降、下り坂の人生を歩んでいるんですね。

信長の元でバリバリ働いていた一益にいったい何があったのか、ライターすのうと一緒に学習していこう。

ライター/すのう

大河ドラマにはまり、特に戦国時代の武将に興味津々なライター。有名、無名を問わず気になる武将は納得いくまで調べ尽くす性格。滝川一益は織田信長の家臣の中では、あまり目立った印象はないが、鉄砲の腕前はピカ一だったとか。そんな地味な猛将滝川一益について解説していく。

滝川一益の出自は不明とされる

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By 栗原信充(?-1870) – 国立国会図書館デジタルコレクション, パブリック・ドメイン, Link

滝川一益(たきがわかずます/いちます)は、大永5年(1525年)滝川一勝又は滝川 資清の子として誕生。この二人が同一人物とする説もあるようです。名前の読み方としては、かずますともいちますとも呼ばれています。一益の出自は不明であり、一勝が甲賀出身だったことから忍者では?なんて説もあり、様々な憶測が飛び交っているのも事実。若い頃は博打好きで家を追い出され、放浪していた過去もあったとか。堅物のイメージがする一益ですが、中々やんちゃな青年期を送っていたようですね。

鉄砲の腕前を買われて、織田信長の家臣となる

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一益は若い頃博打が好きで、同族を殺めた罪により国を追われ、放浪の身となりました。信長に仕官前の経歴は良く分かっていません。父の一勝が甲賀出身であったことから六角氏に仕えた忍者説。池田恒興とは同族。北伊勢に所領をたくさん持っていたので伊勢国の生まれ?九鬼水軍で有名な、志摩国の武将、九鬼嘉隆を信長に仲介したとして志摩国(現在の三重県)の出身等々、様々な説が存在しています。

一益は若い頃、堺で鉄砲の技術を身につけており、その腕前はかなりのものだったとか。信長に仕官する際、100発100中に近い命中率を見せ、その才能を買われた一益は信長の家臣となります。身分など問わず、実力さえあれば雇用する、それが「織田信長」と言う人物でした。織田家臣としては新参者であった一益ですが、後に信長の下でめきめきと実力を発揮していきます。

織田信長の伊勢侵攻で活躍

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北伊勢八郡を手中に収めた信長は、永禄12年(1569年)5月、南伊勢侵攻を開始します。南伊勢を支配する北畠氏の当主は北畠具房(きたばたけともふさ)。しかし、実権を握っていたのは隠居していた具房の父である、北畠具教(きたばたけとものり)でした。一益は、具教の家臣、源浄院主玄(後の滝川雄利/たきがわかつとし)と柘植 保重(つげ やすしげ)を調略。織田の家臣となった雄利と保重は、具教の弟・木造具政(こづくりのりまさ)を織田に寝返らせます。

同年8月、信長は7万の大軍で岐阜を出発。具教は1万6千の兵を大河内城と支城に分散させ自身は8千の兵と共に籠城。大河内城を包囲した信長は、一益に命じて多芸城(多気城)を焼き討ちし、住民を大河内城に追い込み兵糧攻めを開始。籠城戦は2カ月の長期戦となりました。そして10月、降伏した北畠氏と織田が和睦したことで戦いは終結します。信長が具教に出した和睦の条件は、「信長の次男・織田信雄(当時は茶筅丸)を具房の養子とし、具教の娘雪姫と結婚させる事」こうして南伊勢を支配した信長は、天下統一に向け益々勢力を拡大していきました。

水軍としても活躍

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By ブレイズマン – ブレイズマン, パブリック・ドメイン, Link

伊勢侵攻で武功を挙げた一益は、信長より「退くも滝川、進むも滝川」と讃えられます。要約すると、「攻める時も退く時も滝川に任せていれば大丈夫」と言う意味の褒め言葉のようです。元亀元年(1570年)信長と顕如(けんにょ/浄土真宗本願寺派第11世宗主)との間で石山合戦が勃発。これに伴い本願寺の門徒が奮起し、長島一向一揆が起こります。第一次長島合戦では、数万に及ぶ一揆衆が長島城(現在の三重県桑名市)を落とし、織田信興(おだのぶおき/織田信長の弟)が守る古木江城(こきえじょう/現在の愛知県愛西市)を攻め、信興は自害。

さらに桑名城(現在の三重県桑名市)を守っていた一益は敗走してしまいます。翌年の第二次長島合戦では、一益は柴田勝家と片岡掃部が守る坂井城を降伏させました。天正2年(1574年)、三度目の長島合戦に派遣された織田軍は8万人。一益は、志摩国の九鬼嘉隆(くきよしたか)と共に水軍からの攻撃を任され、海上から射撃を行い織田軍を援護。この時の活躍により一益は、長島城と北伊勢8郡中、5郡を与えられました。

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