

その辺のところを忍者も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二
「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。戦国時代、安土桃山時代、もちろん忍者にも昔から興味津々。けっこう謎が多い服部半蔵について、5分でわかるようにまとめた。
1-1、服部半蔵は何人もいる
服部半蔵とは服部家の通名なので、代々の当主が名乗る名前。
しかし服部半蔵として一番有名なのは2代目の半蔵正成(まさなり)で、服部半蔵とは正成をさすことが多いです。ここでは正成でいきますね。
1-2、正成は三河の生まれ
正成は、天文11年(1542年)、服部保長の5男か6男として三河国伊賀(現愛知県岡崎市伊賀町)で誕生。天文17年(1548年)、6歳の正成は大樹寺へ預けられて、お坊さんになるために修業、しかし子供の頃から筋骨逞しく力の強い子供だったそうで、3年後の天文20年(1551年)に出家を拒否して大樹寺から失踪。正成は親元へ戻らず兄達の援助で暮らし、その後初陣といわれた宇土城攻めまで7年、消息不明に。
伊賀の服部家とは
服部半蔵家の先祖は、元々伊賀国花垣村余野(現伊賀市)で代々伊賀流忍者の首領を務めてきた一族。正成の父保長は伊賀を出て京都の12代将軍足利義晴に仕えたが、上洛した松平清康(家康の祖父)について三河へ下って以降、松平家に仕えたというのが通説で、保長は忍者だったが足軽として仕えたそう。
尚、正成は忍びの術ではなく、槍が得意で武将として家康に仕えていたということ。
1-3、正成、家康に仕えて武功をたてる
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弘治3年(1557年)正成16歳の時、三河宇土城を夜襲し戦功を立て、家康から盃と持槍を拝領。永禄6年(1563年)三河一向一揆の際、正成は一向宗ではあったけれど、家康に忠誠を誓って、一揆勢を相手に戦ったということ。また、永禄12年(1569年)、今川氏との戦いでの掛川城攻めでは、渡邉守綱、内藤正成、本多重次、榊原忠政らと共に戦ったそう。
そして元亀元年(1570年)、浅井、朝倉両氏と、織田信長、徳川家康連合軍の戦いである姉川の戦いでは、正成は姉川堤における一番槍の功名を。
2-1、三方ヶ原合戦で家康を救う
元亀3年12月22日(1572年1月25日)の三方ヶ原合戦(武田信玄軍対徳川家康、織田信長軍の戦い)では、正成は先手として大須賀康高の隊に配属され一番槍の功名を上げたが、徳川軍は大敗。
このとき正成は大久保忠隣、菅沼定政らと共に家康を守って浜松城に敗走。正成は顔と膝を負傷しつつ、家康の乗馬に追いついた敵と格闘し撃退。浜松城へ帰還した際には、敗戦に狼狽する味方を鼓舞するため一人で城外へ引き返し、敵と一騎打ちして勝利、正成は数々の戦功を挙げ、家康から褒美に平安城長吉の槍を含む槍二穂を拝領、伊賀衆150人を預けられたということ。 正成、31歳のときのことです。
家康最大のピンチと言われた三方ヶ原の戦いで命を救った正成の働きは、家康を感激させたと言われています。
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