武士が中心となって運営された鎌倉時代が終わり、今度もまた武士中心の「室町時代」が訪れる。

ですが、今度は鎌倉幕府のようにはいかなかった。南北に分裂した朝廷に力をつけた守護大名と、室町幕府だけでは制御しきれないところがかなりある。

今回は歴史マニアのリリー・リリコと一緒にそんな「室町時代」の流れについてわかりやすく解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。前回複雑な思いで鎌倉時代を解説したあと、鎌倉幕府を倒したのちの時代をこれまた複雑な感情を抱えながらまとめた。

室町時代開始へのプロローグ

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室町時代はまだ!後醍醐天皇の健武の新政スタート

鎌倉幕府の失策で1333年に終わりを迎えた鎌倉時代。そこから室町時代が始まったのかと言えば、実はそうではないのです。討幕の旗頭となったのは後醍醐天皇。つまり、朝廷だったのです。室町幕府を開く足利尊氏は後醍醐天皇サイドにいましたが、このときはまだ彼が将軍になるなんて誰も思っていません。

鎌倉幕府との戦いに勝利した後醍醐天皇は、天皇中心の貴族社会を取り戻そうと自ら政治の舵を取り始めました。後醍醐天皇が始めた政治を「健武の新政」といいます。ところがこの親政は長く持ちません。なぜなら、後醍醐天皇は本当に昔の貴族中心に逆戻りさせようとしたからです。

その結果、討幕に参加して戦った武士たちへの報酬がなかったり、逆に土地を没収されたりと、朝廷の武士への仕打ちは鎌倉幕府よりもひどいものでした。そんな状況だと武士たちは「もう一度武士の時代を!武士に権利を!」となりますよね。鎌倉時代を経て武士たちが力をつけていた時代でしたから、当然、武士たちがこのまま黙っているはずがありません。そこで選ばれたのが足利尊氏(あしかがたかうじ)でした。

武士に権利を!立ち上がる足利尊氏

足利尊氏は先の鎌倉幕府との戦いで、京都に置かれた六波羅探題を滅ぼした立役者でした。その後、後醍醐天皇政権下では弟の直義ともども重用され、軍の最高指揮官であり、また政治の場でも最高幹部に任命されています。もちろん、健武の新政にも貢献していました。

しかし、前述のことをきっかけに後醍醐天皇から武士が離れてった状況下、足利尊氏は鎌倉で起こった北条氏の残党の反乱を治めるとそのまま鎌倉に留まります。後醍醐天皇からの帰還命令を無視し、足利尊氏は鎌倉で独自に活動をはじめました。

足利尊氏の武家政権確立の動きを嗅ぎ取った後醍醐天皇は、すぐさま新田義貞を足利尊氏討伐に向かわせます。が、これは見事に返り討ちにされてしまいました。

足利尊氏、もうひとつの天皇家を引っ張り出す

この当時、後醍醐天皇の家系の他にもうひとつ天皇を継げる血統がありました。鎌倉時代の末に後嵯峨天皇が息子の後深草天皇に譲位したあと、しばらくもしないうちに後深草天皇の弟の亀山天皇に無理矢理譲位させてしまったことを原因に、以降、兄弟の血筋の間で天皇の座をかけた激しい争いが続いていたのです。

鎌倉幕府が「両家で交互に天皇を出し合うこと」と約束させて争いを止めていたのですが、幕府が滅んでしまえば約束を保証できる人間はいません。後醍醐天皇はもちろん、次の天皇には自分の子どもを就かせたいと考えていますし、もう一つの血統は現天皇の後醍醐天皇に逆らえずにいました。

足利尊氏はこの冷遇された血統に目を付けたのです。彼の幕府を認めてくれたら、その見返りに天皇にしてさしあげます、と言われたらどうでしょう?もう一生日の目を見ないと思っていた人間に、受けない手はありませんよね。こうして、足利尊氏の力によって光明天皇が即位し、室町幕府が始まることになりました。

鎌倉幕府とそんなに変わらない室町幕府の仕組み

新しく成立した室町幕府でしたが、お役所の仕組み自体は鎌倉幕府とあまり代わり映えはしませんでした。トップに将軍がいて、その次には執権の代わりに管領と呼ばれる役職が置かれます。執権が北条氏が独占していたのに対して、管領は斯波(しば)家、細川家、畠山家で交代で務めていました。この三家を三管領といいます。

そして、地方は鎌倉幕府の守護の制度を継承した守護大名がそれぞれの領地を治めていました。ただし、守護大名は鎌倉時代の守護たちよりも経済力や支配力が強く、後にその権能はどんどん肥大化していってしまうことに。

\次のページで「室町時代と同時に南北朝時代のスタート」を解説!/

室町時代と同時に南北朝時代のスタート

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ふたつに割れた日本

さて、いよいよ室町時代のスタートとなりましたが、そんな勝手をされて後醍醐天皇が「はい、そうですか」と認めるわけがありませんよね。しかし、足利尊氏率いる武士たちは危険なので、後醍醐天皇は都を出て奈良の吉野で政治を続けます。こうしてふたつの朝廷が両立する南北朝時代がはじまりました。京都の足利尊氏と光明天皇が北朝、奈良の後醍醐天皇が南朝です。

足利尊氏は幕府を開いて武士の頂点に立ったのですから、南朝を滅ぼすのは簡単なんじゃないかと思いませんか。そうならなかったのは、前述した守護大名の全員が室町幕府に従ったわけではないからです。

土地があって、経済力があって、しかも、軍事力もある。いやいや、まだ足りない、もっとほしい、と守護大名たちはそれぞれの思惑を胸にお互いの利益がある勢力に味方します。しかし、南朝に味方したかと思えば、北朝の方が条件が良いから明日からは北朝の味方になる、なんてことがたくさん起こったのです。

三代目将軍足利義満の登場

敵味方がくるくる変わる中、二代目将軍足利義詮は戦いに明け暮れるうちにその生涯を閉じてしまいます。そして、三代目将軍となったのが足利義満でした。この足利義満の代が室町時代の最盛期となります。

足利義満は、それまで父や祖父たちができなかった南北朝の統一を成功させた将軍でもありました。当時、力の弱っていた南朝に対し足利義満は、鎌倉時代末期と同じように南朝と北朝の両家から交互に天皇を出し合う形にするので合一しないか、と持ち掛けたのです。そうして、南朝が持っていた三種の神器を北朝が譲り受けたのでした。しかし、この約束が守られることはなく、次代も北朝の天皇が続きます。

もちろん、約束を破られた南朝は納得するはずもなく、南朝の再興を図る後南朝の勢力が立ち上がり、室町幕府への反抗が始まりました。以降、後南朝は後の応仁の乱にが収束するまで活動を続け、幕府の頭を悩ませる要因となるのです。

貿易と文化面の発展

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室町時代の最盛期は政治面だけではありません。足利義満は国内だけでなく、国外へと目を向け始めます。当時の大陸で栄えていた明に足利義満は貢物を送り、明から日本国王に冊封されて正式な国交が行われるようになりました。

その過程で明や朝鮮半島の沿岸部に出没していた日本人の海賊・倭寇の取り締まりを請け負うと同時に、「勘合貿易」が始まります。「勘合貿易」の「勘合」は、ひとつの木の札に正式な貿易船である証明の判を押して、ふたつに割ったもののことです。明と日本がそれぞれ半分ずつ持ち、来航した際に札を合わせて本物かどうか判断するシステムでした。

そして、文化面。足利義満と言えば、「金閣」ですね!もともとは足利義満の別荘でしたから、最初からお寺だったわけではありません。足利義満の死後に鹿苑寺となり、臨済宗のお寺になりました。ちなみに、一度焼失しているので、現在建っている金閣は再建された建物です。

\次のページで「徐々に弱まっていく室町幕府と八代目将軍足利義政」を解説!/

徐々に弱まっていく室町幕府と八代目将軍足利義政

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By 掃部助久国 Kamonnosuke Hisakuni - 国宝 大絵巻展, パブリック・ドメイン, Link

四代目から七代目まで幕府は安定していたが

足利義満の死後、将軍を継いだのは息子の足利義持。彼は勘合貿易を一時停止するなど父の足利義満の行ったことを次々と否定していきました。しかし、彼は43歳の若さでこの世を去ってしまいます。しかも、五代目将軍の足利義量もわずか在位二年で亡くなってしまいました。

そうして六代目将軍に就いたのが、出家していた足利義満の息子・足利義教です。足利義教は停止していた勘合貿易を復活させる反面、有力守護大名の跡継ぎ争いにクチバシを挟み、さらには自分に従わない有力者を殺害したりと恐怖政治を敷いた結果、暗殺されてしまいました。

足利義教の死後、跡継ぎは幼少の息子・足利義勝でしたが、すぐに早世してしまいます。そうして、八代目将軍となったのが足利義政でした。

応仁の乱の火種となった足利義政

八代目将軍足利義政は子どもに恵まれない男でした。そこで、弟の足利義視(あしかがよしみ)を自分の養子にして後継者とします。これで跡継ぎ問題は解決したかに思えました。ところが、その後に足利義政の長男・足利義尚(あしかがよしひさ)が誕生してしまうのです。せっかく足利義政の子どもが産まれたのですから、周りは足利義尚が跡継ぎになるのを期待してしまいますよね。

どちらが次の将軍になるのか、ひっ迫した状況が続く中、幕府内でゴタゴタが起こります。そこで足利義政の側近だった伊勢貞親が失脚すると、いよいよ足利義政の権威は衰えてしまいました。

後継者争いから大きくなった応仁の乱

後継者争いに端を発した応仁の乱ですが、これが実に11年も続く大きな内乱となりました。しかも、戦乱の舞台は京都。都です。応仁の乱のダメージは大きく、京都全域が壊滅的な被害を受けて荒廃してしまいました。

さらに内乱の影響で貴重な建物、仏像、書物が焼失してしまいます。足利義満の金閣も足利義尚率いる西軍の陣となり、幸い金閣自体は焼失を免れたものの周囲は荒らされ、観音像も失われてしまいました。

しかし、大きな損害を出しながらの戦は、勝敗を付けずに和睦という形で集束します。足利義尚が率いた西軍は解体され、足利義視は美濃国(岐阜県南部)に退き、残されたのは荒廃したままの都でした。それまでにも徐々に弱まっていた室町幕府の権威はますます衰えていきます。一応、1573年まで室町幕府は継続されていますが、各地の守護大名は弱り切った幕府の命令を聞き入れはしません。さらに実力をもったものなどは下剋上で自ら大名になることもありました。時代はどんどん戦国時代へと流れていくわけです。

政治は散々でも文化面は優れていた

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By Oilstreet - 投稿者自身による作品, CC 表示 2.5, Link

力を失った足利義政でしたが、実は、あの銀閣を建てた将軍です。金閣と違って銀閣は壁に銀箔を張らない造形で一見して地味に見えますが、こちらは国宝にしていされています。また、それまで上層階級で主流だった寝室を中心とした寝殿造の建築様式から一変して、銀閣は書院(書斎)を中心に据えた書院造で建てられており、以降、この書院造は武家たちの住宅の基本とされました。ちなみに、現在の金閣は一度焼失して建て直されたものですが、銀閣は当時のものがそのまま残っています。

ところで、足利義満のころを北山文化、足利義政のころを東山文化と言ってわけることもありますが、室町時代の文化をひっくるめてストレートに室町文化と呼びました。

\次のページで「中身を開いてびっくり、室町時代の情勢」を解説!/

中身を開いてびっくり、室町時代の情勢

鎌倉幕府滅亡から後醍醐天皇の「健武の新政」を経てからようやく開かれる室町幕府。最初から朝廷が南北に別れて戦うなど波乱の幕開けとなりました。さらに、将軍の権威が絶対的ではなく、地方の守護大名たちがメキメキと力を付けていってしまいます。応仁の乱で将軍の力がぐっと衰えたところで、いよいよ世の中は群雄割拠の戦国時代へと突入していくのでした。

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南北朝時代室町時代戦国時代日本史歴史

実はややこしい「室町時代」を歴史オタクがわかりやすく5分で解説

武士が中心となって運営された鎌倉時代が終わり、今度もまた武士中心の「室町時代」が訪れる。

ですが、今度は鎌倉幕府のようにはいかなかった。南北に分裂した朝廷に力をつけた守護大名と、室町幕府だけでは制御しきれないところがかなりある。

今回は歴史マニアのリリー・リリコと一緒にそんな「室町時代」の流れについてわかりやすく解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。前回複雑な思いで鎌倉時代を解説したあと、鎌倉幕府を倒したのちの時代をこれまた複雑な感情を抱えながらまとめた。

室町時代開始へのプロローグ

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室町時代はまだ!後醍醐天皇の健武の新政スタート

鎌倉幕府の失策で1333年に終わりを迎えた鎌倉時代。そこから室町時代が始まったのかと言えば、実はそうではないのです。討幕の旗頭となったのは後醍醐天皇。つまり、朝廷だったのです。室町幕府を開く足利尊氏は後醍醐天皇サイドにいましたが、このときはまだ彼が将軍になるなんて誰も思っていません。

鎌倉幕府との戦いに勝利した後醍醐天皇は、天皇中心の貴族社会を取り戻そうと自ら政治の舵を取り始めました。後醍醐天皇が始めた政治を「健武の新政」といいます。ところがこの親政は長く持ちません。なぜなら、後醍醐天皇は本当に昔の貴族中心に逆戻りさせようとしたからです。

その結果、討幕に参加して戦った武士たちへの報酬がなかったり、逆に土地を没収されたりと、朝廷の武士への仕打ちは鎌倉幕府よりもひどいものでした。そんな状況だと武士たちは「もう一度武士の時代を!武士に権利を!」となりますよね。鎌倉時代を経て武士たちが力をつけていた時代でしたから、当然、武士たちがこのまま黙っているはずがありません。そこで選ばれたのが足利尊氏(あしかがたかうじ)でした。

武士に権利を!立ち上がる足利尊氏

足利尊氏は先の鎌倉幕府との戦いで、京都に置かれた六波羅探題を滅ぼした立役者でした。その後、後醍醐天皇政権下では弟の直義ともども重用され、軍の最高指揮官であり、また政治の場でも最高幹部に任命されています。もちろん、健武の新政にも貢献していました。

しかし、前述のことをきっかけに後醍醐天皇から武士が離れてった状況下、足利尊氏は鎌倉で起こった北条氏の残党の反乱を治めるとそのまま鎌倉に留まります。後醍醐天皇からの帰還命令を無視し、足利尊氏は鎌倉で独自に活動をはじめました。

足利尊氏の武家政権確立の動きを嗅ぎ取った後醍醐天皇は、すぐさま新田義貞を足利尊氏討伐に向かわせます。が、これは見事に返り討ちにされてしまいました。

足利尊氏、もうひとつの天皇家を引っ張り出す

この当時、後醍醐天皇の家系の他にもうひとつ天皇を継げる血統がありました。鎌倉時代の末に後嵯峨天皇が息子の後深草天皇に譲位したあと、しばらくもしないうちに後深草天皇の弟の亀山天皇に無理矢理譲位させてしまったことを原因に、以降、兄弟の血筋の間で天皇の座をかけた激しい争いが続いていたのです。

鎌倉幕府が「両家で交互に天皇を出し合うこと」と約束させて争いを止めていたのですが、幕府が滅んでしまえば約束を保証できる人間はいません。後醍醐天皇はもちろん、次の天皇には自分の子どもを就かせたいと考えていますし、もう一つの血統は現天皇の後醍醐天皇に逆らえずにいました。

足利尊氏はこの冷遇された血統に目を付けたのです。彼の幕府を認めてくれたら、その見返りに天皇にしてさしあげます、と言われたらどうでしょう?もう一生日の目を見ないと思っていた人間に、受けない手はありませんよね。こうして、足利尊氏の力によって光明天皇が即位し、室町幕府が始まることになりました。

鎌倉幕府とそんなに変わらない室町幕府の仕組み

新しく成立した室町幕府でしたが、お役所の仕組み自体は鎌倉幕府とあまり代わり映えはしませんでした。トップに将軍がいて、その次には執権の代わりに管領と呼ばれる役職が置かれます。執権が北条氏が独占していたのに対して、管領は斯波(しば)家、細川家、畠山家で交代で務めていました。この三家を三管領といいます。

そして、地方は鎌倉幕府の守護の制度を継承した守護大名がそれぞれの領地を治めていました。ただし、守護大名は鎌倉時代の守護たちよりも経済力や支配力が強く、後にその権能はどんどん肥大化していってしまうことに。

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