日本史

新選組最強と称された男「永倉新八」を幕末マニアが分かりやすく5分で解説!剣の道を生き抜いた男の生涯とは

よぉ、桜木健二だ。みんなは『永倉新八』(ながくらしんぱち)という男を知っているか?
およそ270年続いた江戸時代が終わりを迎えるころ、京都の治安を守っていた『新選組』という組織があったんだ(新撰組との表記もあり)彼らは、日本史上最強の剣客集団と呼ばれるほどの戦闘能力をもっていた。近藤勇・土方歳三・沖田総司・斎藤一など名前ぐらいなら聞いたことあるだろう?そんな猛者ぞろいの中で、最も多くの戦いに参加したといわれる男が、神道無念流の達人『永倉新八』だ。先の4人と比べるとあまり人気がないようだが…。

『江戸』『明治』『大正』と3つの時代を己の剣のみで生き抜いた彼の事を、幕末好きなライターの『ベロ』と一緒に紹介していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木健二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

 

西岡壱誠

ライター/西岡壱誠

歴史が好きなライター志望のサラリーマン。日本史では戦国~明治を得意とする。今回は若き志士たちが駆け抜けた激動の時代幕末、この時代を語るうえで外せない組織『新選組』の隊士であった『永倉新八』についてわかりやすくまとめる。

同志たちとの出会い

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修行に明け暮れた10代

1839年松前藩(現在の北海道松前市)長倉勘次の次男として生まれ栄吉と名付けられます。8歳の時、自ら「撃剣館」岡田十松利貞(おかだじゅうまつとしさだ)のもとで神道無念流(しんどうむねんりゅう)を学び、18歳で本目録を取得し元服(成人)して新八と名乗りました。翌年、剣術修行のため脱藩を決意し姓を『永倉』とします。

25歳の時、市川宇八郎と共に腕試しのため道場破りを繰り返し己を磨いていきました。江戸に戻ると4大道場の一つである練武館の伊庭秀業(いばひでなり)の門弟、坪内主馬(つぼうちしゅめ)に腕を見込まれ師範代を務めることとなりました。この時、後に永倉の隊で伍長となる『島田魁』と出会っています。

仲間と共に京都へ

近藤周助が指導する天然理心流『試衛館(しえいかん)』の食客となり、後に運命を共にする近藤勇と出会いました。さらに試衛館門下生の沖田総司土方歳三山南敬助井上源三郎。同じ境遇で他流派の藤堂平助原田左之助らとも同時期に親交を深めていました。

当時、京都の町は各藩の過激志士たちにより治安が乱れていました。14代将軍徳川家茂の上洛にあたり、将軍警護のため幕府は浪士組を募集します。この情報を試衛館のメンバーに伝えたのは永倉でした。

「鍛えた技を国の為に役立てよう」

彼らに参加を促し、動乱の京都へと向かうこととなります。

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脱藩とは藩を脱出して浪人になることだ。本来は欠落(かけおち)の罪として、家名の断絶・財産没収、本人が捕らえられれば場合によっては死刑にされていたんだ。しかし松前藩は、武士の本懐は剣術の道と考えていたため永倉に追っ手は向かわせなかった。

試衛館の中では沖田を高く評価していたようだな。「竹刀では土方・井上・藤堂・山南などは子ども扱いされた。本気で立ち会えば師匠の近藤もやられるだろうと皆が言っていた」と語っている。永倉本人とは比較していないところ、彼の方が実力は上だったのかもしれないな。

伝説の新選組が誕生する

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帰るもの、残る者

浪士組募集の発案者は『清川八郎』という男でした。総勢234名の浪士組が京都に到着した時、彼は意外な言葉を口にします「我々はこれより江戸に戻り、尊王攘夷(そんのうじょうい)の先鋒として勤める」将軍警護の目的で集められた彼らを尊王(皇室や王族を尊ぶ事)に使おうとしたのです。

これに反発したのが永倉達『近藤派』と、水戸藩士芹沢鴨率いる『芹沢派』、根岸友山率いる『根岸派』の計24名でした。「尽忠報国の目的も達せないまま、このまま江戸に帰ることはできない」永倉達の決意は揺らぎません。

参加者のほとんどが清川の「もの」として江戸へ帰る中、永倉は彼らと京都に残り将軍警護の任務を全うすることを決意したのでした。

壬生浪士隊から新選組へ

京都守護職である会津藩の御預かりとなった彼らは『壬生浪士(みぶろうし)』を名乗り、京都の治安維持に全力を注ぎます。派閥争いにより根岸派が離脱したのち、芹沢鴨、近藤勇、新見錦(芹沢派)が局長となり芹沢が筆頭となりました。

近藤派と芹沢派は互いに快く思っていませんでした。特に芹沢鴨は問題の多い人物だったようです。しかし、永倉だけは違いました。同じ神道無念流を学んでいたこと、屯所で隊士に稽古をつけたり、近所の子供たちと遊んであげたりする芹沢の人格も認めていました。当時、屯所として利用していた八木家の人々は「お酒さえ飲まはれへんかったら」と語っています。

1863年8月長州藩と過激派公卿を京都から追い出した『8月18日の政変』この働きにより会津藩主松平容保より『新選組』名を賜りました。以降、壬生浪士組改め新選組を名乗ります。

知らなかったのは永倉だけ

新選組と名を改め派閥争いは最終局面を迎えます。酒に酔った芹沢の暴挙は許し難く、ついには容保から近藤勇へ密命が下りました。

「芹沢を粛正せよ」

この事件は、確たる証拠が無く複数の長州藩士の仕業として処理されました。しかし、事件の現場となった八木家の妻『まさ』は「土方らしき人物が深夜に様子をうかがっており、現場には沖田、原田の姿は確認した」と証言しています。現在では、実行犯は近藤派というのが通説となっているようですね。

そして同じ近藤派の永倉新八。彼はこの暗殺には関与していませんでした。それどころか暗殺計画すら知らなかったのです。芹沢の剣技を知っていた近藤たちは仕損じることを恐れた為、芹沢と親身に付き合う永倉に秘密にしていたのでしょう。

「国家的な損害だ」永倉はそう感じたといいます。

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永倉は試衛館に近藤周助の弟子として入門していたんだ。つまり、近藤勇とは兄弟弟子の関係だった。少なくとも永倉はそう思っていた。しかし、新選組の局長となった近藤の永倉を見る目は変わっていったようだな。

芹沢派の粛正により新選組を掌握した近藤派は、鉄の掟を制定し尊攘派志士たちの間で恐れられる存在に成長していくこととなったが、芹沢暗殺事件。この事がきっかけで近藤と永倉の関係に小さな亀裂が入ってしまったようだ。

永倉新八奮闘記

永倉新八ここにあり!激闘の池田屋

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新選組の戦いの中で最も有名な戦い、この池田屋で彼は大活躍をみせます。

1864年7月8日(元治元年6月5日)永倉は近藤らと共に『池田屋』に到着し20人以上の志士達を発見しました。数名に裏口を固めさせると近藤勇・沖田総士・藤堂平助、そして永倉新八の4人で斬り込んだのです。

2時間に及ぶ戦闘の中、沖田は結核により激しく喀血し昏倒、藤堂は額を割られ大量に出血し戦闘不能となります。

そんな中、永倉は1階の台所付近で屋外に逃げようとする敵と戦いました。逃げる敵を後ろから斬り、便所に隠れた敵を刺し、倒れた敵にとどめの一撃を振り下ろします。大乱闘の中、永倉の防具はボロボロで左手の親指には深手を負い、ついには刀も折れてしまいました。それでも彼は、落ちている刀を拾い最後まで戦い続け4名を討ち取ったのです。

その後の新選組は小隊制を導入し、永倉は『2番組組長』として働くこととなります。

油小路での悲しき戦い

新選組を離脱した伊藤甲子太郎(いとうかしたろう)と、その一派『御陵衛士(ごりょうえじ)』を粛正した戦いです。試衛館時代からの盟友である藤堂平助も粛正の対象でした。伊藤の死体を引き取りに来た7名を、新選組隊士40名が襲い掛かりました。永倉は土方の制止を聞かず乱闘に加わります。

「狙うは藤堂平助」目的は首ではなく逃がす為です。

数合打ち合い逃げ道をつくりると藤堂は深意をくみ取り、逃走を図るのですが事情を知らない隊士(三浦常三郎)に斬られてしまいます。藤堂に関しては近藤勇からも「助けてやってくれ」と頼まれていたようです。

結成以前からの同志で、最年少だった藤堂を助けられなかった事は永倉にとっては辛かったことでしょう。

新時代に挑む剣技

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15代将軍徳川慶喜が大政奉還し、江戸幕府は終わりを告げます。王政復古の大号令により「新政府軍」対「旧幕府軍」が戦闘に突入しました。戊辰戦争(ぼしんせんそう)が始まります。負傷した近藤に代わり土方が隊長代行を務め、永倉は副長代行に任命されました。土方からの信頼は厚かったのでしょう。

初戦の鳥羽伏見の戦いにおいて、甲冑を脱ぎ身軽になった状態で突撃する『決死隊』を募り突撃を仕掛けました。永倉の豪胆な戦いぶりが伺えます。その後、江戸に戻り新選組改め『甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)』に参加し、甲府で板垣退助と戦いますが敗戦。更には原田左之助らと共に『靖兵隊』を結成し北関東を転戦しますが、やはり敗戦。

この頃の永倉は、かつて共に道場破りの旅をした市川宇八郎と共に行動していました。迫りくる近代兵器の脅威に、刀一本では太刀打ちできないことを悟った永倉達は酒浸りの生活で、酒乱状態で失意を紛らわせていたようです。

会津藩・米沢藩が相次いで降伏し、終わりを悟った永倉は松前藩に自首し彼の戦いは終わりました。

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池田屋事件以降、新選組の評価は上昇し続けた。次第に態度が横柄になる近藤に永倉は『非行五か条』を提出している。「同士であって家来ではない」出会った頃から気持ちが変わらない永倉だが、近藤は変わってしまっていたようだ。

甲陽鎮撫隊で「会津で戦いたい」と願い出る同志達を近藤は聞き入れてはくれなかった。別れを決意し別行動を取った直後、永倉は近藤の死を耳にしたんだ…。

いつまでも竹刀の音を

松前藩の寛大な処置により帰参を許された永倉は、藩医であった杉村介庵の娘『きね』と結婚、婿養子となり一男一女をもうけました。家督を継ぎ『杉村義衛(すぎむらよしえ)』と改名します。

その後、北海道の小樽へ移住した杉村は1882年から4年間、樺戸集治監(道内初の監獄で、現在の網走刑務所はこの分館)で剣術師範を務め看守たちに剣を指導しました。退職後は東京牛込にて自身の道場を開設します。

1894年日清戦争が勃発すると『抜刀隊』に志願しましたが、当時55歳であった為「お気持ちだけ」と断られました。その時永倉は「元新撰組の手を借りたとあっては、薩摩の面目丸つぶれか」と笑ったそうです。高齢になっても戦う意欲が消えなかったようですね。

晩年は映画を好み「命永らえたおかげで、このような文明の不思議を見ることができた」と語っています。ある日、孫と映画館へ出かけた時ヤクザ者にからまれた永倉は鋭い眼光で睨みつけ、ヤクザを一喝し退散させたそうです。おそらく相当な迫力だったのでしょう。

かわいい逸話を一つ紹介します。

最晩年の彼のもとに、噂を聞きつけた東北帝国大学農科大学(現北海道大学)の生徒が、剣の指導を依頼したそうです。家族は反対したのですが永倉は引き受けました。

「わしには剣術しかない」

高齢になっても永倉の剣術への自信は揺らぐことはなかったのです。しかし稽古中に体を痛めてしまい、馬車に乗せられ学生に抱きかかえられながら帰宅することとなりました。最強の剣客も年には勝てなかったようですね。

そして1915年骨膜炎と敗血症を併発し、剣の道に生き戦い抜いた男は77の生涯を閉じました。

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明治に入って彼は『新選組』を後世に伝えるために働き始めるんだ。明治9年、隊士の死亡情報を今に伝える新選組墓碑(寿徳寺境外墓地)を建立している。

現在、新選組に関する書物は多数あるがその大半は『新選組顛末記(しんせんぐみてんまつき)『浪士文久報国記事(ろうしぶんきゅうほうこくきじ)とされている。これは永倉本人の回顧録だ。彼の子孫もまた、新選組を後世に伝える役割を担っている。

自身の生きた証『新選組』。その存在は永倉の誇りだったんだろう。酒に酔うとふんどし姿となり「お国のために働いた体だ」と、体の傷を皆に自慢していたそうだ。

ライバルも認めていた最強の証明

元新選組隊士であり、のちに御陵衛士として新選組と戦った『阿部十郎』。彼が明治30年代、史談会で語りました。

「1に永倉、2に沖田、3に斎藤」「沖田より、少し稽古が進んでおりました」

内からも、外からも見てきた阿部の証言は信用ができます。事実、永倉は戦線を離脱したことがないのですから。

新選組の中で最も多くの戦いに参加し大正時代まで長く生き抜き、晩年まで剣の道に生きた『永倉新八』

彼こそが、新選組最強と言っても過言ではないでしょう。

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