今日は西南戦争について勉強します。日本史上で最後の内乱とされる西南戦争はただ年号と戦争の名前だけ覚えるようでは不充分だ!ですが、戦争開始から終戦まで全て覚えるのは量が多すぎて少々無理があるでしょう。

そこで、西南戦争が起こった原因、過程、結末、関わった重要人物、この4つに絞って覚えてしまえばいい!今回、日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から西南戦争をわかりやすくまとめた。

西南戦争とはどんな戦争なのか

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西南戦争とは士族の明治政府への反乱

西南戦争とは、1877年に起こった士族による明治政府への反乱であり、要するに内乱です。士族とは江戸時代で武士階級に当っていた人々で、江戸幕府討伐において明治政府に貢献していましたが、その士族が明治政府に反乱を起こしました。

鹿児島の士族……すなわち薩摩藩の士族の反乱によって西南戦争が起こるのですが、士族達のリーダーとなっていたのがあの西郷隆盛(さいごうたかもり)です。ただ疑問となるのは、西郷隆盛は江戸幕府討伐において維新の三傑と呼ばれた英雄だったことでしょう。

つまり、西郷隆盛は明治政府側についていたことになるのです。そんな西郷隆盛がなぜ明治政府に対して反乱を起こしたのでしょうか。当然何らかの不満があったのでしょうが、その不満を知ることで西南戦争が起こった原因が見えてきます。

士族に不満を与えた明治政府の政治政策

江戸時代の終焉によって明治時代が幕を開け、新政府である明治政府が目指した政治は天皇を中心とした中央集権化の政治でした。そのため様々な政治政策を打ち出しますが、それらはいずれも士族に不満を与えるものだったのです。では、明治政府どのような政治政策を打ち出したのでしょうか。

1869年の土地と戸籍を天皇に差し出す版籍奉還、1871年の藩の制度を廃止する廃藩置県、1873年のこれまでのように米ではなく土地に税金をかける地租改正が有名ですね。さらに廃刀令も制定され、廃藩置県によって藩から給料が支払われなくなる、廃刀令で刀が所持できなくなる、いずれの政策も武士が歓迎するはずなかったのです。

最も、何も明治政府は士族を挑発するためにこのような政治政策を打ち出したわけではありません。結果的には士族に不満を抱かせることになりましたが、明治政府の政治政策にはしっかりとした意図があったのも事実であり、それについてはこの後解説していきます。

\次のページで「明治政府の政治政策とその目的」を解説!/

明治政府の政治政策とその目的

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版籍奉還と廃藩置県を行った明治政府の目的

版籍奉還とは「各地の藩に属する領地と領民を天皇に返す」という意味です。江戸時代では各地の藩がそれぞれ独自の財政と法律で動いていたため、各藩で力の差が明らかになっており、また考え方の違いで衝突することもありました。要するに力も考え方もバラバラの状態であり、鎖国が終わって開国した現在ではこれが致命傷になると考えたのです。

なぜなら、海外の武力の強い国と対等に渡り合うには日本国内の法律や考え方がバラバラではあまりにも問題ですからね。そこで版籍奉還を行ったのですが、実際には土地と戸籍が管理できるようになっただけで各藩のバラバラな考えや政治は依然そのままだったのです。

そこで明治政府は、それならばとさらに新たな政策となる廃藩置県を行い、藩そのものをなくしてしまうことにしました。藩をなくしたことで士族に不満を与えた廃藩置県でしたが、政治的政策として見れば中央集権化に成功しており、将来日本がアメリカやヨーロッパと肩を並べられるようになった要因になったのです。

地租改正を行った明治政府の目的

地租改正とは「土地に関係する税金の改正」で、これは「地租改正」の漢字から連想するとおりでしょう。昔の税金と言えば米を納める年貢を連想しますし、実際に平安時代から江戸時代まではこの年貢によって財政が整えられていました。

しかし明治政府はこれを問題と考え、なぜなら米の収穫に依存するようでは天候や気温に財政が左右されてしまうからです。実際、江戸時代の収入は決して安定しているとは言えなかったですし、たびたび飢饉も起こっていました。

そこで明治政府は財政を安定させるため、米ではなく土地に税金をかけることにしたのです。土地は米のように不安定ではないですし、急激な価値の変動もありません。このため、土地に税金をかければ財政が安定すると明治政府は考えて地租改正を行ったのです。

明治政府への不満でつながった薩摩藩の士族と西郷隆盛

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明治政府を辞職した西郷隆盛とそれを支持した士族達

士族が明治政府に不満を持っていた頃、西郷隆盛を首班とする政府が武力によって朝鮮を開国させようとしており、それを目的とした主張を征韓論と言います。当時朝鮮は江戸時代の日本のように鎖国体制をとっており、日本はこれを軍を送ることで開国させようとしたのです。

しかし、この征韓論は岩倉具視(いわくらともみ)や大久保利通(おおくぼとしみち)らに猛反対される結果となり、朝鮮への派兵は中止となりました。西郷隆盛はこれを不服として辞職、明治政府に不満を持つ士族はこの西郷隆盛の姿勢を支持します。

同じ明治政府に不満を持つ者同士ということで、西郷隆盛の元には多くの士族が集まりました。また、九州では既に各地で暴動が起こっていましたから、西郷隆盛は自分の元に集まった士族達を危険視して、私学校を設立することで士族を教育しようと考えたのです。

西郷隆盛を脅威と判断した明治政府

士族を教育することは暴動を抑えることにつながり、明治政府にとって望ましいように思えます。しかし、この時の明治政府の考えは全く逆で、むしろ西郷隆盛を脅威と判断しました。何しろ西郷隆盛の私学校では軍事訓練も行っており、そこに士族が集結している状態です。

既に各地で士族による暴動が起こっている以上、明治政府は西郷隆盛が士族達の強力なリーダーになると危険視したのでしょう。西郷隆盛率いる薩摩藩の士族による大規模な反乱を危惧した明治政府は、薩摩藩の火薬庫にある武器弾薬を大阪へ移す計画を立てて実行します。

しかしその計画は火に油を注ぐ結果となり、武器弾薬の移動を薩摩藩の士族が目撃したことで、士族達は明治政府の弾薬庫を襲撃するようになったのです。西郷隆盛は戦争を望まなかったものの、収拾のつかないこの事態に対して兵を率いて東京へ向かう覚悟をしたのでした。

西郷暗殺計画と西南戦争の始まり

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西南戦争が起こる決定打となった西郷暗殺計画

薩摩藩の士族を束ねる西郷隆盛でしたが、実は戦争に対しては消極的でした。あくまで話し合いでの解決を望む西郷隆盛は、行き場のない士族達へ何らかの役割を与えることを明治政府に望んでいたのです。しかし、戦争を避けられないものとする事態が起こります。それが西郷隆盛の暗殺計画でした。

明治政府を詰問するべきと主張した西郷隆盛でしたが、激昂した士族達を止めるのはもはや不可能な状況です。さらに、それに加えて明治政府の人間である大久保利通の使者も西郷暗殺計画を自白したため戦争の勃発が決定的になりました。

ちなみに西郷隆盛には西郷従道(さいごうじゅうどう)という名の弟がいましたが、西郷従道は官軍側……つまり兄の西郷隆盛とは敵対する関係になります。もう一つ西郷従道について解説すると、彼の名前の読み方は「つぐみち」が一般的になっていますね。しかし西郷家によると「じゅうどう」が正訓のようです。

薩摩軍と政府軍の西南戦争の勃発

1877年、ついに西南戦争が勃発します。熊本城近くで薩摩軍と政府軍の偵察部隊が遭遇、その時に政府軍が発砲したことで薩摩軍が応戦し、これが西南戦争の始まりとなりました。薩摩軍は熊本城を包囲、これは熊本城が九州において明治政府最大の軍事拠点だったためでしょう。

難攻不落の熊本城を守る官軍の軍勢は約4000、それに対して薩摩軍は約14000の軍勢で攻めます。九州以外にも士族は各地に大勢存在しますから、この熊本城を落とせば各地の士族が立ち上がるだろうという期待があったかもしれません。とは言え、熊本城を落とすのは難しく、官軍側も援軍を送り続けたため薩摩軍は苦戦していました。

西南戦争では田原坂の戦いが有名として挙げられますが、これは官軍側の軍隊が熊本に向かう上で最適なルートが田原坂を通ることだったためです。当然薩摩軍は官軍の軍隊の進軍を食い止めたいでしょうから、必然的に田原坂は西南戦争における激戦地となりました。

\次のページで「西南戦争の終わりと西郷隆盛の最期」を解説!/

西南戦争の終わりと西郷隆盛の最期

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薩摩軍の敗北と西郷隆盛の死

田原坂で激しい戦いを繰り広げる官軍と薩摩軍でしたが、ここで官軍に強力な援軍が訪れます。それは警視隊が編成した部隊で、要するに警察の精鋭部隊でした。抜刀隊と名付けられたこの部隊はその多くが会津藩出身の武士であり、戊辰戦争で薩摩藩に敗北した恨みがあります。その力も働いてだったのか、抜刀隊は最初苦戦しながらも最後には薩摩軍に勝利したのです。

「西南戦争=田原坂の戦い」と言っても過言ではないほど、この田原坂の戦いの決着は西南戦争に大きく影響しました。田原坂を突破された薩摩軍は次第に追い詰められ、兵力もどんどん削がれていったのです。そして、西南戦争最後の舞台となったのが九州鹿児島の城山籠城戦でした。

善戦していた西郷隆盛らは官軍に形成逆転され、薩摩軍の士族達は次々と自刃、また官軍の放つ銃弾に倒れていきます。西郷隆盛もここで負傷、最後は「もう、ここでよかろう」と口にすると、付き添いの別府晋介(べっぷしんすけ)によって介錯されたのです。介錯した別府晋介もその場で切腹、これで日本史上最大の内乱である西南戦争は終わりを迎えました。

日本の近代化の転換期となった西南戦争

日本史上最後の内乱と言われるように、これ以降日本では内乱は起こっていません。西南戦争によって武士の時代が終わりを告げ、これを機に日本は近代化の道を歩むことになります。その後も戦争は起こりますが、日清戦争や日露戦争など海外の国を相手に戦っていくのです。

そして、これらの戦争の勝利の要因として西南戦争の経験が挙げられており、その意味で西南戦争は日本の軍事におけるシステムを大きく変えたと言えるでしょう。つまり、西南戦争は日本の近代化の転換期になったのです。

また、西郷隆盛の弟である西郷従道は大久保利通暗殺後、陸軍卿になりました。さらに出世を続けた西郷従道は初の初代海軍大臣に任命され、この先に起こる日露戦争でその手腕を発揮することになります。

西南戦争の原因、過程、結末、重要人物をまとめる

西南戦争について振り返ると、まず原因は明治政府の政治政策に対する士族の不満でした。そして過程として覚えておいてほしいのが、激戦地となった田原坂の戦いと最後の舞台となった鹿児島の城山籠城戦です。

結末は官軍……つまり明治政府が勝利することになり、薩摩軍のリーダー西郷隆盛の死によって西南戦争は終わります。この流れを把握しておけば、年号や政治政策の名称も覚えやすくなりますよ。

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日本史明治歴史

3分で簡単西南戦争!原因は何?中心人物は?日本史上最後の内乱の全てを元塾講師がわかりやすく解説

今日は西南戦争について勉強します。日本史上で最後の内乱とされる西南戦争はただ年号と戦争の名前だけ覚えるようでは不充分だ!ですが、戦争開始から終戦まで全て覚えるのは量が多すぎて少々無理があるでしょう。

そこで、西南戦争が起こった原因、過程、結末、関わった重要人物、この4つに絞って覚えてしまえばいい!今回、日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から西南戦争をわかりやすくまとめた。

西南戦争とはどんな戦争なのか

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西南戦争とは士族の明治政府への反乱

西南戦争とは、1877年に起こった士族による明治政府への反乱であり、要するに内乱です。士族とは江戸時代で武士階級に当っていた人々で、江戸幕府討伐において明治政府に貢献していましたが、その士族が明治政府に反乱を起こしました。

鹿児島の士族……すなわち薩摩藩の士族の反乱によって西南戦争が起こるのですが、士族達のリーダーとなっていたのがあの西郷隆盛(さいごうたかもり)です。ただ疑問となるのは、西郷隆盛は江戸幕府討伐において維新の三傑と呼ばれた英雄だったことでしょう。

つまり、西郷隆盛は明治政府側についていたことになるのです。そんな西郷隆盛がなぜ明治政府に対して反乱を起こしたのでしょうか。当然何らかの不満があったのでしょうが、その不満を知ることで西南戦争が起こった原因が見えてきます。

士族に不満を与えた明治政府の政治政策

江戸時代の終焉によって明治時代が幕を開け、新政府である明治政府が目指した政治は天皇を中心とした中央集権化の政治でした。そのため様々な政治政策を打ち出しますが、それらはいずれも士族に不満を与えるものだったのです。では、明治政府どのような政治政策を打ち出したのでしょうか。

1869年の土地と戸籍を天皇に差し出す版籍奉還、1871年の藩の制度を廃止する廃藩置県、1873年のこれまでのように米ではなく土地に税金をかける地租改正が有名ですね。さらに廃刀令も制定され、廃藩置県によって藩から給料が支払われなくなる、廃刀令で刀が所持できなくなる、いずれの政策も武士が歓迎するはずなかったのです。

最も、何も明治政府は士族を挑発するためにこのような政治政策を打ち出したわけではありません。結果的には士族に不満を抱かせることになりましたが、明治政府の政治政策にはしっかりとした意図があったのも事実であり、それについてはこの後解説していきます。

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